ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:元明天皇

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 今日は、奈良時代の710年(和銅3)に、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した日ですが、新暦では4月13日となります。
 平城京(へいじょうきょう)は、710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
 「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
 さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。
 奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇『続日本紀』の「平城京遷都」の記事 710年(和銅3年3月10日)

<原文> 

辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

   『続日本紀』巻第五より

<読み下し文>

辛酉。始て都を平城に遷す。以左大臣正二位石上の朝臣麿を留守と爲す。

<現代語訳>

3月10日。初めて都を平城京に遷す。左大臣・正二位石上の朝臣麿を(藤原京)の留守司とする。

〇『続日本紀』の「平城京造営の詔」の記事 708年(和銅元年2月15日) 

<原文> 

和銅元年二月。
戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。処紫宮之尊。常以為。作之者労。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。

   『続日本紀』巻第四より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

和銅元年2月戌寅、詔して曰く、
『朕祇みて上玄[1]に奉じ、宇内[2]に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮[3]の尊に処れり。常に以為らく、之を為す者は労し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑[4]あらず、而も王公大臣咸云ふ。往古以降近代に至り、日を挑り[5]星を瞻て[6]、宮室[7]の基を起し、世を卜し[8]土を相して[9]、帝王の邑を建つ。永鼎[10]の基を定め、無窮[11]の業を固うすることここにあらんと。衆議忍び難く詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府[12]、四海[13]の帰する所、ただ朕一人のみ独り逸予[14]せんや。苟くも物に利あらば、それ遠ざかるべけんや。昔は段王五たび遷りて中興の号を受け、周公三たび定めて太平の称を致す。安んじて以てその久安の宅を遷せるなり。方今[15]平城の地四禽図[16]に叶い三山[17]鎮をなす。亀筮[18]並び従ふ。宜しく都邑[19]を建つべじ。其の營構[20]を宜うし、資は須らく事条に随って奏すべし。亦秋収[21]の後を待って、路橋を造らしめて、子来[22]の義、労擾[23]を致すこと勿れ。制度の宜後に加へざらしめよ。』と。

【注釈】

[1]上玄:じょうげん=天のこと。
[2]宇内:うだい=天下。世界。
[3]紫宮:しきゅう=天帝の居所。皇居。
[4]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[5]日を挑り:ひをはかり=太陽を観測すること。
[6]星を瞻て:ほしをみて=星を観測すること。
[7]宮室:きゅうしつ=帝王、天皇の住む宮殿。また、転じて、帝王、天皇の一族。皇室。
[8]世を卜し:よをぼくし=世界を占うこと。
[9]土を相して:つちをそうして=地相をみること。
[10]永鼎:えいけん=王位を安定させること。王位を永続させること。
[11]無窮:むきゅう=果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
[12]百官の府:ひゃっかんのふ=多くの役人が事務をとる所。
[13]四海:しかい=国内。くにじゅう。世界。世の中。天下。
[14]逸予:いつよ=気ままに遊び楽しむこと。
[15]方今:ほうこん=まさに今。ただ今。また、このごろ。現今。
[16]四禽図:しきんと=四つの方角を現す神獣、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)のこと。
[17]三山:さんざん=春日山、奈良山、生駒山のこと。
[18]亀筮:きぜい=亀の甲や筮竹を用いる卜占。うらない。
[19]都邑:とゆう=みやこ。
[20]営構:えいこう=事業をいとなむこと。また、組織し経営すること。
[21]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[22]子来:じらい=子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まること。
[23]労擾:ろうじょう=つかれみだれること。あくせくする。辛苦する。 

<現代語訳> 平城京造営の詔

和銅元年(708年)二月戊寅(15日)
 詔の中で次のように述べられた。「私(元明天皇)は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにもかかわらず、皇居の天皇という位にいる。常に思うのに、「天皇の住む宮殿を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」という言葉である。遷都のことは、必ずしも時間の余裕のないことではない。ところが王公大臣はみな言う。「昔から近年に至るまで、太陽や星を観測して、東西南北を確かめ、天皇の住む宮殿の基礎を定め、世を占い地相を見て、帝皇の都を建てている。天子の証である鼎を安定させる基礎は、永く固く果てしなく、天子の業もここに定まるであろう」と。多くの臣下が議論することは抑えることが困難で、その言葉も情も深く切実である。そして都というものは多くの役人が事務をとる所であり、国中の民が集まるところであって、ただ私(元明天皇)一人がどうして独り気ままに遊び楽しんでいて好かろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は5回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は3度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。まさに今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の4つの動物が陰陽の吉相に配され、三山(春日山、奈良山、生駒山)が鎮護の働きをなし、亀の甲や筮竹を用いる卜占にもかなっている。ここにみやこを建てるべきである。その事業を営むことをよろしくし、資材は必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。また秋の収穫が終了するのを待って、道路や橋を造らせよ。子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まって来るもので、仮りにも民衆を疲れ乱れさせるようなことがあってはならない。制度を適切なものとし、後から負担を増加することが無いようにせよ。」と。
 
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 今日は、奈良時代の711年(和銅4)に、元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手した日ですが、新暦では11月3日となります。
 『古事記』(こじき)は、奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書とされてきました。712年(和銅5年1月28日)に完成して、元明天皇に献進されましたが、記と略され、『日本書紀』と併せて「記紀」と呼ばれています。
 3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいました。天皇支配の正当性を歴史的に証明し、合理化しようとする思想で貫かれているものの、文学古典としての価値や国語研究上の価値も大きなものがあるとされています。
 以下に、『古事記』の序文を現代語訳付で全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇『古事記』の序文

<原文>

 臣安萬侶言。
 夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。
 寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
 是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
 曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
 伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。
 於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

   『古事記』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

 臣安万侶言さく、
 夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本教によりて而土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿邈なれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察る。
 寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百王相續ぎ、剣を喫み釼蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下平け、小濱に論ひて国土を清めき。
 是を以ちて番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまひき。化熊川を出でて。天釼を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。儛を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしむ。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と云ふ。境を定めて邦を開きて、近淡海を制め、姓を正して氏を撰び、遠飛鳥を勒めたまいき。歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。
 飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。洊雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
 歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘めたまいき。重加、智海は浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は?煌として、明らかに先代を観たまひき。
 ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聰明にして、。目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。然れども運移り世異りて。未だその事を行ひたまはざりき。
 伏して惟うに皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散ちりて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重むる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつべし。
 ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭ひぬ。
 然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。また姓おきて日下を玖沙訶といひ、名におきて帶の字を多羅斯といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。大抵記す所は、天地の開闢より始めて。于小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜
 草葺不合尊以前を上卷となし、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前を中卷となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下卷となし、并せて三卷に録して、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

  和銅五年正月二十八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。

<現代語訳>

 わたくし安萬侶が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
 これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

     現代語訳は、武田祐吉「校註 古事記」(青空文庫)による。

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 奈良時代の713年(和銅6)に、元明天皇により「運脚の労苦に対する詔」が出された日ですが、新暦では4月18日となります。
 「運脚の労苦に対する詔」(うんきゃくのろうくにたいするみことのり)は、元明天皇によって出された運脚に関する詔でした。当時は、全国から平城京(奈良)に、調・庸の品物が駅路を使って運ばれていましたが、それを担ったのは村の中から選ばれた一部の人たちで、運脚と呼ばれ、村人たちは旅の費用として米や塩などを出しています。
 地方から平城京までは国司が引率することになっていたので、運脚の人たちは無事に都にたどり着き、都の造営工事でも働かされました。しかし、帰途は自分たちだけで歩いて帰らなければならず、その途中で食糧が窮乏し、病気で倒れ、帰国することのできないものがしばしばみられます。そこで、この詔により、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じました。

〇運脚(うんきゃく)とは?

 奈良・平安時代の律令制の下で、国司などの指導で綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を徒歩で運搬した人夫です。
 村々で選ばれた正丁 (せいてい) がその任にあたり、往復の食糧は自己負担であり、上京後も都で駆使されることがあるなど過酷であって、帰国の途中で餓死する者も出ました。その中で、712年(和銅5年1月16日)に、 元明天皇は「役民の労苦に対する処置」につていて詔を出し、運脚等に関して「国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と命じます。
 さらに同年10月29日に、詔を再出し、諸国の役夫と運脚が、「郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と命じました。しかし、平城京から離れた地では、銭(和同開珎)は通用せず、実状にあっていなかったと思われ、翌年3月19日に、「運脚の労苦に対する詔」が出され、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じています。
 律令制下での運脚という労役の負担は、とても重いもので、古代の農民の疲弊の一因ともなっています。
 以下に、和銅5年1月16日と10月29日、翌年3月19日に、元明天皇より出された運脚に関する詔の『続日本紀』の記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「役民の労苦に対する処置の詔」712年(和銅5年1月16日)

<原文>
五年春正月乙酉、詔曰。諸国役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。転填溝壑。其類不少。国司等宜勤加撫養、量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名、報本属也。

<読み下し文>
五年春正月乙酉。詔して日く、「諸国の役民[1]、郷に還るの日、食糧へ乏しくして、多く道路に饉ゑて、溝壑[2]に転填する[3]こと、其の類少なからず。国司等宜しく勤めて撫養[4]を加へ、量りて賑恤[5]すべし。如し死する者有らば、且つ埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属[6]に報ぜよ。」と。

【注釈】

[1]役民:えきみん=公の労役に服する人。税を都まで運んだ人たち。
[2]溝壑:こうがく=みぞや谷間。貧困などのために路傍で倒れ死ぬ場合などに用いる。
[3]転填する:てんてんする=転がり落ちてつまる。
[4]撫養:ぶよう=憐み養う。
[5]賑恤:しんじゅつ=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。救済すること。
[6]本属:ほんぞく=本籍地。

<現代語訳>
和銅5年春正月16日。詔して言うことには、「諸国の税を都まで運んだ人たちが郷里に戻る時に、食糧が無くなって、多くが帰路で飢えて、溝や谷に転がり落ち、埋もれて死んでしまうといったことが少なくない。国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と。

   『続日本紀』卷第五(元明紀二)より

〇「役夫・運脚に関する詔」712年(和銅5年10月29日)

<原文>
乙丑。詔曰。諸国役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稲別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。

<読み下し文>
乙丑。詔して曰く。「諸国の役夫[7]及ひ運脚[8]の者。郷に還るの日。粮食[9]乏少にして。達することを得るに由無し。郡稲[10]を割て別に便地に貯へ役夫[7]の到るに隨て交易[11]せ令むるに任かす宜く。又行旅の人をして令して必す錢を齎て資と爲さしむ。因て重擔[12]の勞を息め。亦錢を用るの便なることを知らしむ。」と。

【注釈】

[7]役夫:えきふ=徭役(ようえき)にかり出された公民。
[8]運脚:うんきゃく=綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫。運夫。
[9]粮食:りょうしょく=食糧。特に、備蓄・携行した食糧。
[10]郡稲:ぐんとう=令制で、各郡におかれた官稲。出挙(すいこ)してその利を郡の雑用にあてる。
[11]交易:こうえき=品物を交換しあって通商すること。
[12]重擔:じゅうたん=重い荷物。重荷(おもに)。また、重い負担。

<現代語訳>
29日、詔して言うことには、「諸国の労役の人夫と庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫が、郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と。

〇「運脚の労苦に対する詔」713年(和銅6年3月19日)

<原文>
又詔。諸国之地。江山遐阻。負担之輩。久苦行役。具備資糧。闕納貢之恒数。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢銭。作当炉給。永省労費。往還得便。宜国郡司等。募豪富家。置米路側。任其売買。一年之内。売米一百斛以上者。以名奏聞。又売買田。以銭為価。若以他物為価。田并其物、共為没官。或有糺告者。則給告人。売及買人、並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下、量降考第。国司者式部監察。計違附考。或雖非用銭。而情願通商者聴之。

<読み下し文>
又詔すらく、「諸国の地、江山[13]遐かに阻たって、負担の輩[14]、久しく行役に苦しむ。資粮[15]を具へ備へむとすれば、納貢の恒数[16]を闕き重負を減損[17]せむとすれば路に饉るの少なからざることを恐る。宜しく各一嚢[18]の銭持ちて、当炉の給[19]と作し、永く労費を省き、往還[20]便りを得しむべし。宣しく国郡司等、豪富の家に募って、米を路の側に置て、其の売買に任ぜしむべし。」と。

   『続日本紀』卷第五(元明紀二)より

【注釈】

[13]江山:こうざん=川と山。山川。
[14]負担の輩:ふたんのともがら=調・庸などの運搬に当たる人々。
[15]資粮:しろう=物資と食料。
[16]納貢の恒数:のうぐのこうすう=調・庸の規定納入数。
[17]減損:げんそん=物や財産などが減ること。また、減らすこと。
[18]一嚢:いちのう=一袋。
[19]当炉の給:とうろのきゅう=食事をするための費用。
[20]往還:おうかん=行き帰り。ゆきき。往来。往復。

<現代語訳>
また詔して言うことには、「諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、調・庸などの運搬に当たる人々は、長期にわたって行旅の負担に苦しめられている。行旅のための物資と食料を充分に用意しようとすれば、調・庸の規定納入数が欠けることになり、重い荷物を減らそうとすると、道中での飢えることが少なくないのではと恐れる。そこで各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と。

   『続日本紀』卷第六(元明紀三)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令する詳細
1943年(昭和18)洋画家藤島武二の命日詳細
1950年(昭和25)世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される詳細
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 今日は、奈良時代の721年(養老5)に、第43代の天皇とされる元明天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月29日となります。
 元明天皇(げんめいてんのう)は、661年(斉明天皇7年)に、第38代とされる天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれましたが、名は阿閇(あへ)と言いました。679年(天武天皇8年)頃に、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚し、翌年に氷高皇女(のちの元正天皇)を出産、同年に草壁皇子が皇太子となっています。
 683年(天武天皇12)に珂瑠皇子(のちの文武天皇)を出産しましたが、689年(持統天皇3)に夫の草壁皇子は即位することなく早世しました。697年(文武天皇元)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となったものの、707年(慶雲4年6月15日)に息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で亡くなり、その皇子 (のちの聖武天皇) が幼少であったため、同年に第43代とされる天皇として即位することとなります。
 その在位中は藤原不比等が政権を担当し、708年(慶雲5)に武蔵国秩父より銅が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させ、「平城京造営の詔」を出し、710年(和銅3)に藤原京から平城京に遷都しました。翌年に「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計り、712年(和銅5)には諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出しています。
 また、同年に天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上され、713年(和銅6)には『風土記』の編纂を詔勅するなどしました。715年(和銅8)には、老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となって後見します。
 しかし、721年(養老5年5月)に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、葬送の簡素化を命じて、同年12月7日に平城京において、数え年61歳で亡くなり、奈良市奈保山東陵に葬られました。

<元明天皇の代表的な歌>

・「これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山」(万葉集)
・「大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」(万葉集)

〇元明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・661年(斉明天皇7年) 天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれる
・675年(天武天皇4年) 十市皇女と共に伊勢神宮に参拝する
・679年(天武天皇8年)頃 1歳年下である甥の草壁皇子と結婚する
・680年(天武天皇9年) 氷高皇女を出産する
・680年(天武天皇10年2月25日) 草壁皇子が皇太子となる
・683年(天武天皇12年) 珂瑠皇子を出産する
・689年(持統天皇3年4月13日) 草壁皇子は即位することなく早世する
・697年(文武元年8月17日) 息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となる
・707年(慶雲4年6月15日) 息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御する
・707年(慶雲4年7月17日) 第43代とされる天皇として即位する
・708年(慶雲5年1月11日) 武蔵国秩父より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させる
・708年(和銅元年2月15日) 「平城京造営の詔」を出す
・710年(和銅3年3月10日) 藤原京から平城京に遷都する
・711年(和銅4年10月23日) 「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計る
・712年(和銅5年1月) 諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出す
・712年(和銅5年1月28日) 天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上される
・713年(和銅6年5月2日) 『風土記』の編纂を詔勅する
・715年(和銅8年) 郷里制が実施される
・715年(和銅8年9月2日) 老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となる
・721年(養老5年5月) 発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託す
・721年(養老5年12月7日) 奈良の平城京において、数え年61歳で亡くなる
・722年(養老6年11月13日) 元明金命として合祀される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1944年(昭和19)昭和東南海地震(M7.9)が起き、死者1,223人を出す詳細
1948年(昭和23)警視庁が昭和電工事件で、芦田均前首相を逮捕する詳細


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 今日は、奈良時代の713年(和銅6)に、元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じた日ですが、新暦では5月30日となります。
 『風土記(ふどき)』は、元明天皇の勅により、各国の物産、動植物、土地の状況や地名、古老の伝承などを記す地誌を編集して言上したものでした。写本が現存するのは、出雲国・常陸国・播磨国・肥前国・豊後国のもの五つ(五風土記)ですが、『出雲国風土記』がほぼ完本で、他の四つは一部欠損して残っていて、文体は国文体を交えた漢文体となっています。
 その他に、『釈日本紀』、『万葉集註釈』などの他の文献に引用されたりして、断片的に残っているもの(風土記逸文)も知られてきました。
 『出雲国風土記』は733年(天平5)に成立したことがはっきりしていますが、他の諸国の風土記は、だいたい天平年間 (729~749年) までに編纂されたとみられるものの、その後中央に提出されたものは多く散失したらしく、925年(延長3)12月の太政官符(だいじょうかんぷ)によって再提出の命が出されています。
 後世にも、風土記と称するものが各地で編纂されましたが、これらと区別して「古風土記」とも呼ばれてきました。
 尚、以下に諸国に『風土記』の編纂を命じた、『続日本紀』の「和銅六年五月甲子」の記述を掲載(注釈・現代語訳付)しておきましたので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』の「和銅六年五月甲子」の記述

<原文>

 和銅六年五月甲子、制。畿内七道諸国郡郷名、着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獣魚虫等物。具録色目。及土地沃塉。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍亦宜言上。

<読み下し文>

 和銅六年五月甲子、制すらく。畿内七道諸国[1]の郡郷名は好き字[2]を着けよ。其の郡内に生ずる所の、銀・銅・彩色[3]・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目[4]を録せしむ。及び土地の沃塉[5]、山川原野の名号の所由[6]、又古老の相伝旧聞[7]異事[8]は、史籍[9]に載せて亦宜しく言上すべし。

【注釈】

[1]畿内七道諸国:きないしちどうしょこく=畿内と東海道・東山道・南海道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道のこと。当時の政権が掌握していた全地域を指す。全国。
[2]好き字:よきじ=実際には地名が吉祥な漢字二字で表記された。
[3]彩色:さいしき=いろどり。
[4]色目:しきもく=品名。種類。
[5]沃塉:よくせき=土地の肥えているか痩せているかの状態。肥沃度。
[6]名号の所由:みょうごうのよるところ=名称の由来。
[7]古老の相伝旧聞:ころうのそうでんきゅうぶん=古老の伝える古い伝承。
[8]異事:いじ=珍しい話。変わった話。
[9]史籍:しせき=正式な文書記録。

<現代語訳>

和銅六年(713年)五月甲子(2日)の条
 次のように制定した。「畿内七道諸国の郡や郷の名前は良い字を選定してあてよ。其の郡内で産出する所の、銀・銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具体的にその種類を記録させよ。またその土地の肥沃度、山や川、原野の名称の由来、また古老の言い伝えや変わった話などを正式な文書記録として掲載して、政府に提出するようにせよ。」

☆各国の風土記で写本が現存または逸文として知られているもの一覧

<写本として現存しているもの>

・出雲国風土記
・播磨国風土記
・肥前国風土記
・常陸国風土記
・豊後国風土記

<逸文として知られているもの>

・山城国風土記
・摂津国風土記
・伊勢国風土記
・尾張国風土記
・陸奥国風土記
・越後国風土記
・丹後国風土記
・伯耆国風土記
・備中国風土記
・備後国風土記
・阿波国風土記
・伊予国風土記
・土佐国風土記
・筑前国風土記
・筑後国風土記
・豊前国風土記
・肥後国風土記
・日向国風土記
・大隅国風土記
・壱岐国風土記
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