ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:元寇

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 今日は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇(弘安の役)の要因となった日ですが、新暦では9月27日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を鎌倉幕府第8代執権北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1281年(弘安4)に、翌日にかけて激しい風雨(台風)があり、第2回元寇(弘安の役)の蒙古軍が壊滅した日ですが、新暦では8月15日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1276年(建治2)に、鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に元寇防塁(石築地)を築かせるように指示した日ですが、新暦では3月26日となります。
 元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名でした。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年、少弐経資に命じて、3月10日に異国警護のために元寇防塁(石築地)の築造を指示し、8月に至ってほぼ完成したとされます。
 築造は、九州の地頭御家人だけでなく、公領や荘園にも平均に割り当てられ、鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなりました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。
 年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残されてきました。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ、1931年(昭和6)に国の史跡に指定、1981年(昭和56)に追加指定がなされています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1293年(永仁元)に、鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置した日ですが、新暦では4月14日となります。
 鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代の2回の元寇後、3回目が計画されている中で、1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名でした。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものです。
 そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決しました。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は3回目の襲来に備えて、博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
 
☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
 
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する 

<1268年(文永5)>
 
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
 
<1269年(文永6)>
  
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した 
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる 

<1271年(文永8)>
  
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した 

<1272年(文永9)>
  
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した 

<1274年(文永11)>
  
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する 
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する 
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了) 

<1275年(建治元)>

・2月 クビライは日本再侵攻の準備を進めると共に、日本を服属させるため、第7回の蒙古の使節団を派遣する
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる 
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する 

<1281年(弘安4)>
  
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する 
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける 
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する 
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する 
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する 
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する 
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する 
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する 
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する 
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する 
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

<1283年(弘安6)>

・8月 クビライは第三次日本侵攻計画(1283年~)を推進する一方で、9回目となる使節団を日本に派遣する

<1284年(弘安7)>

・10月 クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら10回目となる使節団を日本に派遣する

<1292年(正応5)>

・クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣する
 
<1293年(永仁元)>

・3月7日 鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1908年(明治41)青森~函館間の鉄道連絡船として、青函連絡船が運航を開始する詳細
1927年(昭和2)京都府北部の丹後半島で北丹後地震(M7.3)が起き、死者2,925人・負傷者7,806人を出す詳細
1940年(昭和15)民政党斎藤孝夫が反軍演説(日中戦争の処理を厳しく追及)で議員除名される詳細
1941年(昭和16)「国防保安法」が公布される詳細
1949年(昭和24)ジョゼフ・ドッジが会見で「ドッジ声明」を発表し、日本の経済安定策(ドッジ・ライン)を示す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、蒙古の使者が来朝し、大宰府の鎮西奉行・少弐資能が「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」と「高麗国王書状」、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取った日ですが、新暦では1月17日となります。
 蒙古国牒状(もうここくちょうじょう)は、鎌倉時代の1274年(文永11年/至元11年10月)の元寇(文永の役)に先立つ、1266年(文永3年/至元3年8月)の日付のモンゴル皇帝フビライから日本に対して送られた、通好を求める国書(日本側は牒状と呼ぶ)でした。1266年(文永3年/至元3年)に、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団に国書を持たせて日本へ派遣したのですが、朝鮮半島の南端まで来て、対馬海峡の海の荒れ方を見せて航海が危険であるとして、帰国してしまいます。
 しかし、皇帝フビライは納得せず、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、1268年(文永5年/至元5年1月)に、高麗使節団が大宰府に到着しました。この時、大宰府の鎮西奉行・少弐資能は国書と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達します。
 その文面は、中国側の史料の『元史』「外夷伝日本伝」至元三年八月条と日本側の史料の『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)によって、伝えられてきました。『元史』載録の国書には、『東大寺尊勝院臓本』の「蒙古國牒状」と違い、冒頭の「上天眷命」および結びの「不宣」は記録されていないなどの相違が見られますが、内容は同じで、両文とも至元3年8月に発令されたことも一致しています。これに対して、日本側は返牒をしないという態度をとりました。
 以下に、「蒙古国牒状」のことを記した『東大寺尊勝院臓本』と『元史』「外夷伝日本伝」、及び「高麗国王書状」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『東大寺尊勝院臓本』

<原文>

上天眷命大蒙古國皇帝奉書日本國王、朕惟自古小國之君境土相接、尚務講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣
   至元三年八月 日

<読み下し文> 
 
上天[1]眷命[2]、大蒙古国皇帝[3]、書を日本国王に奉る。朕[4]惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦[5]に務む、況んや我が祖宗、天の明命[6]を受け、区夏[7]を奄有[8]す。遐方[9]異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕[4]即位の初め、高麗の无辜[10]の民が久しく鋒鏑[11]に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域[12]を還し、その旄倪[13]を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕[4]の東藩[14]なり。日本は高麗に密迩[15]し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕[4]が躬に至りては、一乗[16]の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審[17]ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕[4]の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海[18]を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理[19]ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。不宣[20]
  至元三年八月 日

【注釈】

[1]上天:しょうてん=天帝。造物主。
[2]眷命:けんめい=慈しみ思う。
[3]大蒙古国皇帝:だいもうここくこうてい=皇帝フビライのこと。
[4]朕:ちん=皇帝フビライの自称。
[5]修睦:しゅうぼく=よしみを修める、国と国とのよしみを通ずる。音信を交わし合い仲良くする。
[6]明命:めいめい=帝王となるべき天の命令。
[7]区夏:くか=天下。中国全土。
[8]奄有:えんゆう=すべての土地の所有者となる。土地を悉く有して主となること。
[9]遐方:かほう=遠方。
[10]无辜:むこ=罪がない。無辜である。
[11]鋒鏑:ほうてき=ほこさきとやじり。転じて、武器。兵器。戦争。戦乱。
[12]疆域:きょういき=土地の境目。境界。また、境界内の地。領域。国の範囲。
[13]旄倪:ぼうげい=老人と小児。
[14]東藩:とうはん=かきね。塀。東方の従属国。
[15]密迩:みつじ=まぢかに接する。
[16]一乘:いちじょう=車一両。馬四匹。
[17]審:つまびらか=物事を詳しく調べて明らかにする。はっきりとよしあしを見分ける。
[18]四海:しかい=四方の海の内。天下。
[19]理:ことわり=すじみち。道理。
[20]不宣:ふせん=述べ尽くしていないの意味で、友人間の手紙の末尾に使う語。

<現代語訳>

天帝が慈しみ思う、大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。不宣。
  至元3年(1266年)8月 日

  東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』より

〇『元史』「外夷伝日本伝」より

元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。書曰:
大蒙古國皇帝、奉書日本國王。朕惟、自古小國之君、境土相接、尚務講信修睦。況我祖宗、受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷德者、不可悉數。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其疆域、反其旄倪。高麗君臣、感戴來朝。義雖君臣、歡若父子。計王之君臣亦已知之。高麗朕之東藩也。日本密邇高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好。尚恐王國知之未審。故特遣使持書、布告朕志。冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家。不相通好、豈一家之理哉。以至用兵、夫孰所好。王其圖之。

<読み下し文> 

元の世祖の至元二年、高麗人趙彝等、日本国通すべしと言うを以って、奉使すべき者を擇ぶ。
三年八月、兵部侍郎黑的に命じ、虎符を給して、国信使に充て、禮部侍郎殷弘に金符を給して、国信副使に充て、国書を持して日本へ使せしむ。書に曰く、「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦に務む、況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。遐方異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕即位の初め、高麗の无辜の民が久しく鋒鏑に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密迩し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕が躬に至りては、一乗の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。」と。

<現代語訳>

元の世祖の至元二年(1265年)、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めたのに従って、使者として遣わすべき者を選ぶ。
至元3年(1266年)8月、兵部侍郎黑的に命じ、信任状を与えて、国信使に任命し、禮部侍郎殷弘に金符を与えて、国信副使に任命し、国書を持たせて日本へ遣わした。国書でいうことには、「大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。」と。

〇「高麗国王書状」

高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。

  『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

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