ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:元寇

9550ce2e.jpg
 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じた日ですが、新暦では4月10日となります。
 元寇(げんこう)は、鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

〇元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
・2月27日 鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じる

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1983年(昭和58)歴史学者・文学博士井上光貞の命日詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

genshizuka01
 今日は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇(弘安の役)の要因となった日ですが、新暦では9月27日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を鎌倉幕府第8代執権北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kouannoekitaifuu01
 今日は、鎌倉時代の1281年(弘安4)に、翌日にかけて激しい風雨(台風)があり、第2回元寇(弘安の役)の蒙古軍が壊滅した日ですが、新暦では8月15日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

gbourui1
 今日は、鎌倉時代の1276年(建治2)に、鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に元寇防塁(石築地)を築かせるように指示した日ですが、新暦では3月26日となります。
 元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名でした。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年、少弐経資に命じて、3月10日に異国警護のために元寇防塁(石築地)の築造を指示し、8月に至ってほぼ完成したとされます。
 築造は、九州の地頭御家人だけでなく、公領や荘園にも平均に割り当てられ、鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなりました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。
 年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残されてきました。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ、1931年(昭和6)に国の史跡に指定、1981年(昭和56)に追加指定がなされています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

chinzeitandaigechijyou01
 今日は、鎌倉時代の1293年(永仁元)に、鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置した日ですが、新暦では4月14日となります。
 鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代の2回の元寇後、3回目が計画されている中で、1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名でした。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものです。
 そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決しました。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は3回目の襲来に備えて、博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
 
☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
 
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する 

<1268年(文永5)>
 
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
 
<1269年(文永6)>
  
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した 
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる 

<1271年(文永8)>
  
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した 

<1272年(文永9)>
  
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した 

<1274年(文永11)>
  
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する 
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する 
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了) 

<1275年(建治元)>

・2月 クビライは日本再侵攻の準備を進めると共に、日本を服属させるため、第7回の蒙古の使節団を派遣する
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる 
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する 

<1281年(弘安4)>
  
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する 
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける 
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する 
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する 
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する 
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する 
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する 
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する 
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する 
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する 
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

<1283年(弘安6)>

・8月 クビライは第三次日本侵攻計画(1283年~)を推進する一方で、9回目となる使節団を日本に派遣する

<1284年(弘安7)>

・10月 クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら10回目となる使節団を日本に派遣する

<1292年(正応5)>

・クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣する
 
<1293年(永仁元)>

・3月7日 鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1908年(明治41)青森~函館間の鉄道連絡船として、青函連絡船が運航を開始する詳細
1927年(昭和2)京都府北部の丹後半島で北丹後地震(M7.3)が起き、死者2,925人・負傷者7,806人を出す詳細
1940年(昭和15)民政党斎藤孝夫が反軍演説(日中戦争の処理を厳しく追及)で議員除名される詳細
1941年(昭和16)「国防保安法」が公布される詳細
1949年(昭和24)ジョゼフ・ドッジが会見で「ドッジ声明」を発表し、日本の経済安定策(ドッジ・ライン)を示す詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ