ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:儒者

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 今日は、江戸時代後期の1801年(享和元)に、折衷学派の儒者細井平洲が亡くなった日ですが、新暦では8月8日となります。
 細井平洲(ほそい へいしゅう)は、江戸時代中期の1728年(享保13年6月28日)に、尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれましたが、本姓は紀。名は徳民と言いました。幼年時代から学問に励み、1735年(享保20)に加家村観音寺の義観和尚に学び、1737年(元文2)に名古屋に出て学び、1743年(寛保3)には、京都に遊学しています。
 1744年(延享元)に名古屋へ帰り、折衷学派の中西淡淵に入門し、1745年(延享2)には、長崎へ遊学し、中国語を学びましたが、母の病死にあって帰郷しました。1751年(宝暦元)に江戸へ出て、私塾を開き、1753年(宝暦3)には、伊予西条藩主の師となり、私塾の名を嚶鳴館とします。
 1764年(明和元)に米沢藩の次期藩主・上杉治憲(1767年に第9代藩主)の師となり、1770年(明和7)に高山彦九郎が、平洲に入門、1771年(明和8)には、米沢へ行って講義をし、藩政改革や文教に与り、1776年(安永5)の米沢藩校興譲館の創設に尽力しました。1781年(天明元)に尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、1783年(天明3)には、尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をし、庶民教化にも努めています。
 1786年(天明6)に人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立されましたが、1792年(寛政4)には、明倫堂の督学を辞任しました。1796年(寛政8)には、米沢に行き、上杉治憲と普門院で久し振りの歓談をしたものの、1801年(享和元年6月29日)に、江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬されています。

〇細井平洲の主要な著作

・『詩経古伝』10巻(1759年)
・『嚶鳴館詩集』(1764年)
・『つらつらふみ』(1802年)
・『嚶鳴館遺稿』(1809年)
・『嚶鳴館遺草』(1835年)

☆細井平洲関係略年表(日付は旧暦です)

・1728年(享保13年6月28日) 尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれる
・1735年(享保20年) 加家村観音寺の義観和尚に学ぶ
・1737年(元文2年) 名古屋に出て学ぶ
・1743年(寛保3年) 京都に遊学する
・1744年(延享元年) 名古屋へ帰り、中西淡淵に入門する
・1745年(延享2年) 長崎へ遊学し、中国語を学ぶ
・1751年(宝暦元年) 江戸へ出て、私塾を開く
・1753年(宝暦3年) 伊予西条藩主の師となり、私塾を嚶鳴館とする
・1764年(明和元年) 米沢藩の次期藩主・上杉治憲の師となる
・1767年(明和4年) 上杉治憲が第9代藩主となる
・1770年(明和7年) 高山彦九郎、平洲に入門する
・1771年(明和8年) 米沢へ行き、講義をする
・1776年(安永5年) 米沢藩校興譲館の創設に尽力する
・1781年(天明元年) 尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、八柱神社(東海市荒尾町・市指定文化財)に、灯籠を寄進する
・1783年(天明3年) 尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をする
・1786年(天明6年) 人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立される
・1792年(寛政4年) 明倫堂の督学を辞任する
・1796年(寛政8年) 米沢に行き、上杉治憲が米沢郊外の関根まで出迎え、普門院で久し振りの歓談をする
・1801年(享和元年6月29日) 江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬される
・1807年(文化4年) 神明社境内に、「平洲先生旧里碑」を建立する
・1809年(文化6年) 上杉治憲が「嚶鳴館遺稿」を刊行する
・1835年(天保6年) 「嚶鳴館遺草」が刊行される
・1913年(大正2年) 従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1929年(昭和4)評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の命日詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1648年(慶安元)に、儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の亡くなった日ですが、新暦では10月11日となります。
 中江藤樹(なかえ とうじゅ)は、1608年(慶長13年3月7日)に、近江国高島郡小川村で、農業を営む父・中江吉次の長男として生れましたが、名は原(はじめ)と言いました。9歳の時、伯耆国米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴きますが、翌年藩主の国替えに伴い伊予国大洲に移り、『庭訓往来』『貞永式目』等を勉強します。
 11歳の時、『大学』を読み、学に志を立て、14歳の時、天梁和尚について、詩や書を習いました。1622年(元和8)の15歳の時、元服し、祖父・徳左衛門吉長が亡くなって、代りに大洲加藤家に仕え、100石取りの武士となります。
 17歳の時、京都から来た僧に『論語』の講義を聞き、『四書大全』を学ぶようになりました。1626年(寛永3)の19歳の時、郡奉行となり、翌年初めて、門人たちに『大学』を教え、21歳の時には、『大学啓蒙』を著します。
 22歳の時から、郷里の小川村に母を訪ねるようになり、1634年(寛永11)の27歳の時、母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出したものの拒絶されて脱藩し、小川村へ帰り、酒を売り米を貸して、くらしをたてるようになりました。28歳の頃、易の学問を勉強し、人々に学問を教えるようになり、やがて村人や門人たちは、藤樹先生といって親しむようになります。
 1639年(寛永16)の32歳の時、『藤樹規』などを作り、翌年には、『孝経』という本を毎朝読み、『翁問答』を著しました。1641年(寛永18)に、熊沢蕃山が門人となり、翌年には『孝経啓蒙』を著し、『孝経』の中の「愛敬」について教えるようになります。
 1644年(正保元)に、『陽明全書』を熟読玩味して、おおいに触発感得を受け、1647年(正保4)には、女子教育のための訓話集『鑑草』を著しました。1648年(慶安元)に、藤樹書院が完成しましたが、同年8月25日に、近江国高島郡小川村において、数え年41歳で亡くなっています。
 その思想は、身分の上下をこえた平等に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し、「近江聖人」と称えられるようになりました。

〇中江藤樹の主要な著作

・『大学啓蒙』(1628年)
・『翁問答』(1641年成立)
・『孝経啓蒙』(1642年)
・『鑑草 (かがみぐさ)』(1647年)
・『大学考』(1647年)
・『大学解』(1647年)
・『中庸解』(1647年)

☆中江藤樹関係略年表(日付は旧暦です)

・1608年(慶長13年3月7日) 近江国高島郡小川村の中江吉次の長男として生れる
・1616年(元和2年) 9歳の時、伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に移る
・1617年(元和3年) 10歳の時、祖父と共に大洲に移り、『庭訓往来』『貞永式目』を勉強する
・1618年(元和4年) 11歳の時、『大学』を読み、志をたてる
・1621年(元和7年) 14歳の時、天梁和尚について、詩や書を習う、祖母・甫東が亡くなる(享年63歳)
・1622年(元和8年) 15歳の時、元服する、祖父・徳左衛門吉長が亡くなり、祖父に代り大洲加藤家に仕え、100石取りの武士となる
・1624年(寛永元年) 17歳の時、京都から来た僧に『論語』の講義を聞く、『四書大全』を学ぶ
・1625年(寛永2年) 18歳の時、小川村で、父吉次(享年52歳)が亡くなる
・1626年(寛永3年) 19歳の時、郡奉行となる
・1627年(寛永4年) 20歳の時、初めて、門人たちに『大学』を教える
・1628年(寛永5年) 21歳の時、『大学啓蒙』という本を著す
・1629年(寛永6年) 22歳の時、小川村に母をたずねる
・1632年(寛永9年) 25歳の時、春にまた小川村に母をたずねる、この年ごろ、大野了佐が教えを受ける
・1634年(寛永11年) 27歳の時、脱藩して、小川村へ帰り、酒を売り米を貸して、くらしをたてる
・1635年(寛永12年) 28歳の時、このころ易の学問を勉強すし、人々に学問を教える
・1636年(寛永13年) 29歳の時、村人や門人たちは、このころから藤樹先生といって親しむ
・1637年(寛永14年) 30歳の時、妻・久子をむかえ、大洲から教えを受けにくる者が多くなる
・1638年(寛永15年) 31歳の時、大野了佐が先生をたずね、勉強する
・1639年(寛永16年) 32歳の時、『藤樹規』などを作る
・1640年(寛永17年) 33歳の時、『孝経』という本を毎朝読み、『翁問答』を著す
・1641年(寛永18年) 34歳の時、熊沢蕃山が門人となる
・1642年(寛永19年) 35歳の時、『孝経啓蒙』を著し、『孝経』の中の「愛敬」について教える、長男(太右衛門)が生まれる
・1644年(正保元年) 37歳の時、『陽明全書』を読んで、いっそう学問にはげむ
・1646年(正保3年) 39歳の時、二男(鍋之助)が生まれる、久子夫人がなくなる(享年26歳)
・1647年(正保4年) 40歳の時、『鑑草』を著す、大溝の別所布理と再婚する    
・1648年(慶安元年2月) 41歳の時、藤樹書院が完成する、三男(弥三郎・常省先生)が生まれる
・1648年(慶安元年8月25日) 近江国高島郡小川村において数え年41歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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