
1056年(天喜4)に、省試に合格して文章得業生、翌年に、丹波掾となり、1058年(康平元)には、対策に及第しました。1060年(康平3)に、治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられ、1067年(治暦3)には、東宮学士(春宮・尊仁親王)となりました。1068年(治暦4)に、尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられ、1069年(治暦5)には、蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任を果たします。
1078年(承暦2)に、自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠し、1080年(承暦4)に権左中弁として弁官局に復し、1081年(永保元)に左中弁となり、1083年(永保3)には、式部権大輔も兼ねました。1084年(応徳元)に左大弁となり、1086年(応徳3)に従三位に叙せられ、1087年(応徳4年)に式部大輔、1088年(寛治2年)には、正三位に叙せられ、参議となって公卿に列します。
1094年(寛治8)に従二位、権中納言となり、1096年(寛治10年)には、永長の大田楽を記録した『洛陽田楽記』を著しました。1097年(承徳元)に大宰権帥を兼ね、翌年には、筑前の大宰府に下向しましたが、1102年(康和4)には、任期満了に伴って京都に戻り、正二位に叙せられます。1105年(長治2)には、所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われました。1106年(嘉承元)に再び大宰権帥を兼ねましたが、病気もあって任地には下向せずに終わります。
1111年(天永2)に大蔵卿に遷任されたものの、同年11月5日に京都において、数え年71歳で亡くなっています。博学で、和歌、漢詩はもとより、歴史、儀式、遊芸から兵学にいたるまで通じていて、その著作は非常に多く、後三条、白河、堀河天皇の侍読ともなり、『後拾遺和歌集』以後の勅撰集に多くの秀作を残し、百人一首にも入りました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事).
| 1854年(嘉永7) | 安政南海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月24日) | 詳細 |
| 1857年(安政4) | 吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講する(新暦12月9日) | 詳細 |
| 1888年(明治21) | 日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日 | 詳細 |
| 1895年(明治28) | 「日伯修好通商航海条約」が締結される(日本ブラジル修好記念日) | 詳細 |
| 1930年(昭和5) | 大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する | 詳細 |
| 1937年(昭和12) | 社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日 | 詳細 |
| 1941年(昭和16) | 第7回御前会議の「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲乙二案を決定、決裂時は武力行使と決まる | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 日本とビルマ連邦が、ビルマのラングーンで「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」に調印する | 詳細 |



