ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:儒学者

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 今日は、江戸時代中期の1717年(享保2)に、地理学者・儒学者長久保赤水の生まれた日ですが、新暦では12月8日となります。
 長久保赤水(ながくぼ せきすい)は、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれましたが、名は玄珠(はるたか)と言いました。幼くして父母を失い、継母の手で育てられ、1730年(享保15)には、鈴木玄淳(松江)の私塾に入り漢詩などを学ぶようになります。
 1733年(享保18)に江戸に遊学し、服部南郭に学び、1742年(寛保元年)には、鈴木玄淳及び松岡七友と共に名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積みました。1753年(宝暦3)に、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられ、1760年(宝暦10)には、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』(刊行は1792年)を著します。
 1765年(明和2)に、磯原村(現北茨城市)の姫宮丸が遭難し、ベトナムに漂着、1767年(明和4)には、立原翠軒らの尽力により、この漂流民引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れ、『長崎行役日記』、『安南漂流記』を著しました。1768年(明和5)には、『改製日本分里図』を完成させ、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられます。
 1773年(安永2)に藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著し、1774年(安永3)には、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ね、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持ちました。1775年(安永4)に『新刻日本日本輿地路程全図』を完成させ、1777年(安永6)に水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住むようになり、翌年には、建白書『農民疾苦』を上書します。
 1779年(安永8)に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成、翌年に大坂で出版されました。1783年(天明3)に中国図『大清広輿図』、1785年(天明5)には、世界地図『改正地球万国全図』を完成させます。
 1786年(天明6)に水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事、1791年(寛政3)からは、江戸の水戸藩邸に留まり、この編纂に専念しました。1797年(寛政9)に帰郷し、1801年(享和元年7月23日)には、郷里の赤浜村において、数え年85歳で亡くなっています。

〇長久保赤水の主要な著作

・『東奥紀行』(1760年著・1792年刊行)
・『安南国漂流記』(1767年著)
・『長崎行役日記』(1767年著・1805年刊行)
・『改製日本扶桑分里図』(1768年)
・『天文管窺鈔』(1774年刊行)
・『改正日本輿地路程全図』(1779年刊行)
・『大清広輿図』(1785年刊行)
・『地球万国山海輿地全図説』(1788年頃)
・『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年刊行)
・『隠密兵策、赤水老兵法』(1792年著)
・『清槎唱和集』(1892年刊行)

☆長久保赤水関係略年表

・1717年(享保2年11月6日) 常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる
・1730年(享保15年) 14歳の時、鈴木玄淳(松江)の私塾に入り漢詩などを学ぶ
・1733年(享保18年) 17歳の時、江戸に遊学し、服部南郭に学ぶ
・1739年(天文4年) 23歳で結婚する
・1742年(寛保元年) 26歳の時、鈴木玄淳及び松岡七友と共に名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積む
・1753年(宝暦3年) 37歳の時、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられる
・1760年(宝暦10年) 44歳の時、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』を著す
・1765年(明和2年) 49歳の時、磯原村(現北茨城市)の姫宮丸が遭難し、ベトナムに漂着する
・1767年(明和4年) 51歳の時、立原翠軒らの尽力により、安南国漂流民の引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れる。『長崎行役日記』(『長崎紀行』)、『安南漂流記』を著す
・1768年(明和5年) 52歳の時、『改製日本分里図』(かいせいにほんぶんりず)が完成、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられる
・1773年(安永2年) 57歳の時、藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著す。農村で横行していた間引きを憂い、立派な人物になる可能性もあるから富者の家の前に捨て子をしたほうがましだと啓蒙し、間引きの悪習を減らした
・1774年(安永3年) 58歳の時、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ねる。この際、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持つ
・1775年(安永4年) 59歳の時、柴野栗山の序文であり、赤水図の内題でもある『新刻日本日本輿地路程全図』が完成する
・1777年(安永6年) 61歳の時、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む
・1778年(安永7年) 62歳の時、建白書『農民疾苦』を上書する。役人が年貢米で公然と賄賂を得ていた「再改め」をなくすよう、命を賭して藩主に提言、農政改善の第一歩に尽力する
・1779年(安永8年) 63歳の時、『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成する
・1780年(安永9年) 64歳の時、大坂で『改正日本輿地路程全図』が出版される
・1781年(天明元年) 65歳の時、高山彦九郎たびたび来訪する
・1783年(天明3年) 67歳の時、中国図『大清広輿図』が完成する
・1785年(天明5年) 69歳の時、世界地図『改正地球万国全図』が完成する
・1786年(天明6年) 70歳の時、水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事する
・1789年(寛政元年) 73歳の時、『唐土州郡沿革図』が完成する
・1790年(寛政2年) 74歳の時、高山彦九郎、赤水のもとを訪れ、東北地方に旅立つ。
・1791年(寛政3年) 75歳の時、江戸の水戸藩邸に留まり『大日本史』の地理志の編纂に専念する
・1792年(寛政4年) 76歳の時、「隠密兵策、赤水老兵法」を著し、『東奥紀行』を出版する
・1797年(寛政9年) 81歳の時、帰郷する
・1801年(享和元年7月23日)、赤浜村において数え年85歳で亡くなる
・1911年(明治44年) 従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1782年(天明2)に、儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の生まれた日ですが、新暦では5月22日となります。
 広瀬淡窓(ひろせ たんそう)は、豊後国日田郡豆田魚町(現在の大分県日田市)の九州諸侯用達の商家だった父・博多屋三郎右衛門(桃秋)の長男(母はユイ)としして生まれましたが、名は寅之助と言いました。1783年(天明3)の2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われ、実家に帰ってからは、父母の下で読書、習字を学びます。
 少年の頃より聡明で、1789年(寛政元)の8歳の時、軽症の痘瘡にかかったものの、長福寺の法幢に『詩経』の句読を教えられ、翌年には、『書経』、『春秋』、『古文真宝』などを学ぶようになりました。1791年(寛政3)の10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受けましたが、翌年には、水庖ソウにかかり6・70日床に就きます。
 1794年(寛政6)に元服し、翌年に佐伯へ遊学、1797年(寛政9)には、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事しました。1799年(寛政11)の18歳の時、病に罹って亀井塾を去り、翌年から数年間の療養生活に入ります。
 1801年(享和元)の20歳の時から療養に傍ら、門人数人に句読を教えるようになり、翌年には、『孟子』などを講義するようになりました。1805年(文化2)の24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し、「咸宜園(かんぎえん)」が開かれます。
 塾生は、1819年(文政2)に37名、翌年には103名と徐々に増えていき、名声はしだいに高まり、全国から集まって、その数は延べ3,000人を超えました。その教育は、「三奪の法」(年齢や学歴、身分に関係なく優劣を入塾後の成績に委ねる)と「月旦評」(日常の学習活動と月例試験での合計点による毎月末の成績評価により昇級等を行う)による徹底した実力主義で、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されています。
 門下からは、高野長英、大村益次郎、長三洲など逸材を輩出、『約言』 (1828年成立)、『儒林評』 (1836年成立) 、『析玄』 (1841年) など多くの著作も成しました。漢詩も能くし、詩集『遠思楼詩鈔』を著しましたが、1856年(安政3年11月1日)に、豊後国日田において、数え年75歳で亡くなりっています。
 尚、私塾「咸宜園」はその後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、計約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。

〇広瀬淡窓の主要な著作

・『淡窓詩話(しわ)』
・詩集『遠思楼詩鈔(えんしろうししょう)』
・『懐旧楼筆記』
・『約言』(1828年成立)
・『析言』
・『自新録』
・『儒林評』(1836年成立)
・『万善簿(まんぜんぼ)』
・『析玄(せきげん)』(1841年)

〇咸宜園(かんぎえん)とは?

 現在の大分県日田市で、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。

☆広瀬淡窓関係略年表(日付は旧暦です)

 ・1782年(天明2年4月11日) 豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられる
・1783年(天明3年) 2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる
・1787年(天明7年)、6歳の時、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ
・1789年(寛政元年) 8歳の時、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ
・1790年(寛政2年) 9歳の時、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く
・1791年(寛政3年) 10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける
・1792年(寛政4年) 11歳の時、水庖ソウにかかり6・70日病む
・1794年(寛政6年) 13歳の時、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義する
・1794年(寛政6年6月) 元服する
・1795年(寛政7年) 14歳の時、佐伯へ遊学する
・1797年(寛政9年) 16歳の時、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事する
・1799年(寛政11年) 18歳の時、病にかかり、亀井塾を去る
・1800年(寛政12年) 19歳の時、療養生活となる(以後数年)
・1801年(享和元年) 20歳の時、門人数人に句読を教える
・1802年(享和2年) 21歳の時、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義する
・1804年(文化元年) 23歳の時、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる
・1805年(文化2年3月) 24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、自身も長福寺学寮に転居する
・1805年(文化2年6月) 実家の土蔵に塾を移す
・1805年(文化2年8月) 豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾し、「成章舎」と名付ける
・1806年(文化3年) 25歳の時、成章舎で講義開始する
・1807年(文化4年) 26歳の時、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける
・1810年(文化7年) 29歳の時、塾生が30名を超え、合原ナナと結婚する
・1813年(文化10年) 32歳の時、日記を書き始め、『史記』を輪講する
・1817年(文化14年) 36歳の時、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付け、塾生と一緒に生活するようになる
・1818年(文政元年) 37歳の時、頼山陽が日田に来遊し、数度面会する
・1819年(文政2年) 38歳の時、咸宜園の塾生37名になる
・1820年(文政3年) 39歳の時、月旦評によれば塾生は103名になる
・1824年(文政7年) 43歳の時、風邪のため休講が100日を越し、『自新録』を脱稿する
・1825年(文政8年) 44歳の時、正月に体調を崩す、『敬天説』脱稿、田能村竹田が淡窓を訪ねる
・1828年(文政11年) 47歳の時、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿する
・1830年(文政13年) 49歳の時、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる
・1842年(天保13年) 61歳の時、幕府から永世名字帯刀を許さる
・1848年(嘉永元年) 67歳の時、「万善簿」一万善を達成
・1853年(嘉永6年) 72歳の時、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す
・1855年(安政2年) 74歳の時、塾を広瀬青邨に委ねる
・1856年(安政3年) 75歳の時、『淡窓小品』完成する
・1856年(安政3年10月) 墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛ける
・1856年(安政3年11月1日) 数え年75歳で亡くなり、遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始詳細
1967年(昭和42)日本近代文学館」が開館する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1666年(寛文6)に、儒学者・思想家・文献学者荻生徂徠が生まれた日ですが、新暦では3月21日となります。
 荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、江戸において、館林藩主・徳川綱吉(のちの第5代将軍)の侍医だった父・荻生景明の子として生まれましたが、名は雙松(なべまつ)と言いました。幼い頃から学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学びましたが、1679年(延宝7)の14歳の時、綱吉の怒りに触れた父が江戸払いに処され、家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現在の千葉県茂原市)に移ります。
 ここで農村生活を体験しながら、『四書大全』などを読み、大内流軍学を外祖父から学びました。1692年(元禄5)の25歳の頃、父が赦免されて一家は江戸に戻り、自身は芝の増上寺付近で私塾を開きます。
 1696年(元禄9)に将軍・綱吉の側近で側用人の柳沢保明(吉保)に抜擢され、15人扶持を支給され、『晋書』など中国の史書の校注・出版や、また綱吉の伝記『憲廟(けんびょう)実録』の編纂などに従事、その功績により禄高500石にまで昇進しました。柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応え、将軍・綱吉の知己も得て、1702年(元禄15)の赤穂浪士討ち入りに際しては、処断については法に則り厳罰に処すべきと『擬自律書』により切腹を上申します。
 1705年(宝永2)に吉保が甲府藩主となると、翌年には命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』、『峡中紀行』として記しました。1707年(宝永4)の40歳の頃、中国古代の言語や文章の実証的研究を進め、古文辞学という新しい学風を樹立、1709年(宝永6)に綱吉の死去と吉保の失脚にあって、柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を開きます。
 門人として太宰春台、服部南郭らが集い、多くの優れた学者や文人を育て、蘐園学派を形成しました。その中で、1714年(正徳4)に『蘐園随筆』を出版、1715年(正徳5)に辞書『訳文筌蹄』を刊行、1717年(享保2)に儒学書『弁名』、『弁道』を著し、1721年(享保6)には幕府から『六諭衍義』に訓点をつけることを命ぜられます。
 1722年(享保7年)以降は、第8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかりましたが、1728年(享保13年1月19日)に江戸において、病気により、数え年63歳で亡くなりました。

〇荻生徂徠の主要な著作

・紀行文『風流使者記』(1706年)
・紀行文『峡中紀行』(1706年)
・随筆『蘐園随筆』(1714年)
・辞書『訳文筌蹄(やくぶんせんてい)』(1715年刊)
・儒学書『弁名(べんめい)』(1717年)
・儒学書『弁道(べんどう)』(1717年)
・随筆『南留別志(なるべし)』(1736年刊)
・意見書『政談』(享保年間成立)
・経世論書『太平策』(享保年間成立)
・学問書『学則』
・『徂徠先生答問書』
・『赤穂四十六士論』
・注釈書『論語徴(ろんごちょう)』
・注釈書『大学解』
・注釈書『中庸解(ちゅうようかい)』
・法律書『明律国字解(みんりつこくじかい)』
・歌集『徂徠集』
・兵学書『録(けんろく)』

☆荻生徂徠関係略年表(日付は旧暦です)

・1666年(寛文6年2月16日) 江戸において、第5代将軍・徳川綱吉の侍医だった父・荻生景明
・1679年(延宝7年) 当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移る
・1692年(元禄5年) 25歳の頃、父が赦免されて一家は江戸に帰り、徂徠は芝の増上寺付近で私塾を開く
・1696年(元禄9年) 将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた
・1702年(元禄15年) 赤穂浪士討ち入りの処断の時に法にのっとり厳罰に処すべきと『擬自律書』により切腹を上申する
・1705年(宝永2年) 吉保が甲府藩主となる
・1706年(宝永3年) 吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』、『峡中紀行』として記す
・1707年(宝永4年) 40歳の頃、中国古代の言語や文章の実証的研究を進め、古文辞学という新しい学風を樹立する
・1709年(宝永6年) 綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を開く
・1714年(正徳4年) 『蘐園随筆』を出版する
・1715年(正徳5年) 辞書『訳文筌蹄(やくぶんせんてい)』を刊行する
・1717年(享保2年) 『弁名(べんめい)』、『弁道(べんどう)』を著す
・1721年(享保6年) 幕府から『六諭衍義(りくゆえんぎ)』に訓点をつけることを命ぜられる
・1722年(享保7年) 第8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかる
・1728年(享保13年1月19日) 江戸において、病気によって数え年63歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1190年(文治6)武士・僧侶・歌人西行の命日(新暦3月31日)詳細
1884年(明治17)日本画家・能書家安田靫彦の誕生日詳細
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に文人画家・儒学者富岡鉄斎の亡くなった日です。
 富岡鉄斎(とみおか てっさい)は、1837年1月25日(天保7年12月19日)に、京都・三条通新町東(現在の京都府京都市)で、法衣商だった父・十一屋伝兵衛(富岡維叙)の次男として生まれましたが、名は道節(のち百錬)と言いました。山本園に読み書きを習い、15歳の頃平田篤胤の門人大国隆正に国学、岩垣月洲に儒学、1855年(安政2)頃に歌人太田垣蓮月尼の薫陶を受け、翌年に窪田雪鷹らに絵画を学びます。
 1860年(万延元)に鉄斎の号を用いるようになり、翌年長崎へ遊学し、長崎南画の指導を受けると共に、海外の情勢を探りました。1862年(文久2)年に帰京して聖護院村に私塾を開き、志士の藤本鉄石、板倉槐堂、江馬天江、松本奎堂、平野国臣らと交遊して、『孫呉約説』ほかを出版します。
 幕末には勤王学者として国事に奔走し、文人画家としても知られるようになりました。明治維新後は、大和石上神社少宮司、和泉大鳥神宮大宮司等となりましたが、1881年(明治14)以降は京都に定住して学者・画家としての生活を続けつつ、諸国を旅して、『旧蝦夷風俗図』(1896年)などを描きます。
 また、1894年(明治27)から京都市美術学校(のち京都市立美術工芸学校)教師を10年ほど務め、この間、1897年(明治30)に日本南画協会を設立しました。独自の画境をひらき、文人画壇の重鎮となって、1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年(大正8)に帝国美術院会員となりましたが、1924年(大正13)12月31日に、京都の自宅において、病気のため、数え年89歳で亡くなっています。

〇富岡鉄斎の主要な作品

・『旧蝦夷風俗図(きゅうえぞふうぞくず)』(1896年)東京国立博物館蔵
・『不尽山全頂図(ふじさんぜんちょうず)』(1898年)
・『山荘風雨図』(1912年頃)
・『安倍仲麿明州望月図(あべのなかまろめいしゅうぼうげつず)』(1914年)辰馬考古資料館蔵 国指定重要文化財
・『蘇子会友図』(1921年)
・画集『貽咲 (いしょう) 墨戯』(1923年)
・『武陵桃源』(1923年)
・『瀛洲(えいしゅう)神境図』(1923年)
・『水墨清趣図』(1924年)
・『蓬莱仙境図』(1924年)清荒神清澄寺蔵
・『小黠大胆図(しょうかつだいたんず)』
・『赤壁図』
・『掃蕩俗塵』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細


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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 貝原 益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代前期の1630年(寛永7年11月14日)に、越前国福岡城内(現在の福岡県福岡市)において、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれましたが、名は篤信(あつのぶ)、字は子誠(しせい)と言いました。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活し、1648年(慶安元)、18歳で福岡藩に仕えます。
 しかし、1650年(慶安3)に第2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなり、医者として身を立てようとして医学修業に励みました。1656年(明暦2)、27歳のときに第3代藩主・黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年から京都へ藩費遊学します。
 松永尺五、木下順庵、中村斎、向井元升、黒川道祐、松下見林らと交わり、本草学や朱子学等を学び、1664年(寛文4)35歳の時に福岡へ戻りました。150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や朝鮮通信使への対応に当たります。
 君命で『黒田家譜』や『筑前国続風土記』(1703年成立)を編纂したのをはじめ、晩年に至るまで、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育など幅広い分野で、98部247巻の著述をしました。博物学的実証主義に立って窮理の道を重視、民生日用の学を重んじて、庶民を啓蒙し、本草学史上で開拓的な意味をもつ『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)や医書『養生訓』(1713年)、子女の教育を説いた『和俗童子訓』(1710年)などで有名です。
 晩年には朱子学への疑問をまとめた『大疑録』も著しましたが、1714年(正徳4年8月27日)に、数え年85歳で亡くなりました。

〇貝原益軒の主要な著作

・『近思録備考』(1668年)
・『和漢名数』(正1678年、続1695年)
・本草書『花譜』(1694年)
・『黒田家譜』
・語源辞書『日本釈名』(1700年)
・『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)
・本草書『菜譜(さいふ)』(1704年)
・本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)
・教育書『和俗童子訓』(1710年)
・思想書『自娯集』(1712年)
・医書『養生訓』(1713年)
・教育書『大和俗訓』
・思想書『慎思録(しんしろく)』
・思想書『大疑録(たいぎろく)』
・『君子訓』
・紀行文『和州巡覧記』
・教育書『五常訓』
・教育書『家道訓』
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