良源(りょうげん)は、912年(延喜12)9月3日に、近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)で、地元の豪族であった木津氏の子として生まれましたが、幼名は観音丸(日吉丸とも)と言いました。
幼時から霊童とされ、梵釈寺覚阿に勧められ、923年(延長元)に比叡山宝幢院月燈のもとへ行きます。ついで、比叡山西塔理仙の弟子となり、928年(延長6)に座主尊意から受戒し、出家しました。喜慶や満賀、相応らを歴学して天台教学顕密二教に通じます。
937年(承平7)に興福寺維摩会の番論議で、法相宗の義昭を論破して名声をあげ、藤原忠平に認められました。949年(天暦3)に横川の首楞厳院に籠居しましたが、翌年師輔の推挙で東宮護持僧となります。
その後、963年(応和3)に内供奉十禅師となり、966年(康保3)には第18世天台宗座主に就任しました。同年、焼失した比叡山の諸堂伽藍を再興するとともに、比叡山内に六月会広学竪義(論義問答)をおこして天台宗の教学振興を図ります。
968年(安和元)に権少僧都となり、970年(天禄元)に『二十六箇条起請』を布告して綱紀粛正を図りました。981年(天元4)には、史上第2番目の大僧正となり、仏教界の綱位を極めます。
984年(永観2)暮れに、横川から坂本弘法寺に下り、翌年1月3日に、74歳で没したので、「元三大師」とも呼ばれました。
没後、987年(寛和3)に慈恵の諡号を贈られたので、「慈恵大師」とも言われています。比叡山中興の祖とされ、門下3,000人といわれ、源信、覚運、尋禅、覚超の4人は、良源の弟子中の四哲と呼ばれてきました。
〇良源の主要な著作
・『極楽浄土九品往生義』
・『二十六条式』
・『百五十尊口訳』
・『胎金念誦行記』