ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:僧侶

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 今日は、平安時代中期の985年(永観3)に、天台宗の僧・比叡山中高の祖良源の亡くなった日ですが、新暦では1月26日となります。
 良源(りょうげん)は、912年(延喜12)9月3日に、近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)で、地元の豪族であった木津氏の子として生まれましたが、幼名は観音丸(日吉丸とも)と言いました。
 幼時から霊童とされ、梵釈寺覚阿に勧められ、923年(延長元)に比叡山宝幢院月燈のもとへ行きます。ついで、比叡山西塔理仙の弟子となり、928年(延長6)に座主尊意から受戒し、出家しました。喜慶や満賀、相応らを歴学して天台教学顕密二教に通じます。
 937年(承平7)に興福寺維摩会の番論議で、法相宗の義昭を論破して名声をあげ、藤原忠平に認められました。949年(天暦3)に横川の首楞厳院に籠居しましたが、翌年師輔の推挙で東宮護持僧となります。
 その後、963年(応和3)に内供奉十禅師となり、966年(康保3)には第18世天台宗座主に就任しました。同年、焼失した比叡山の諸堂伽藍を再興するとともに、比叡山内に六月会広学竪義(論義問答)をおこして天台宗の教学振興を図ります。
 968年(安和元)に権少僧都となり、970年(天禄元)に『二十六箇条起請』を布告して綱紀粛正を図りました。981年(天元4)には、史上第2番目の大僧正となり、仏教界の綱位を極めます。
 984年(永観2)暮れに、横川から坂本弘法寺に下り、翌年1月3日に、74歳で没したので、「元三大師」とも呼ばれました。
 没後、987年(寛和3)に慈恵の諡号を贈られたので、「慈恵大師」とも言われています。比叡山中興の祖とされ、門下3,000人といわれ、源信、覚運、尋禅、覚超の4人は、良源の弟子中の四哲と呼ばれてきました。

〇良源の主要な著作

・『極楽浄土九品往生義』
・『二十六条式』
・『百五十尊口訳』
・『胎金念誦行記』
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 今日は、日本黄檗宗の開祖隠元隆琦の亡くなった日ですが、新暦では5月19日となります。
 隠元隆琦は、江戸時代前期に明から渡来した禅僧で、1592年に明国福建省福州府福清県に生まれました(俗姓は林氏、母は龔氏)。
 21歳のとき旅に出、23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役となって仏道修行し、29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家したのです。
 33歳より臨済宗の密雲円悟に就いて参禅しま、43歳のときに費隠の法を嗣ぎ、46歳で古黄檗の住持に請ぜられました。
 1652年(承応元)より長崎・興福寺の逸然性融(明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年(承応3)に一行30名が鄭成功の仕立てた船で来日、長崎に着いたのです。
 1658年(万治元)には、江戸に赴き、第四代将軍徳川家綱に謁見、永住を決意して幕府から山城の宇治(現在の京都府宇治市)に寺地を与えられました。
 そして、1661年(寛文元)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創し、日本の黄檗宗の開祖となったのです。能書家で、黄檗三筆の一人とされ、著署として「黄檗語録」「普照国師広録」などを残しましたが、1673年(寛文13年4月3日)に、82歳で亡くなりました。

〇黄檗宗(おうばくしゅう)とは?

 臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本の三禅宗の一つで、江戸時代前期に始まりました。開祖は、1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で、江戸幕府4代将軍徳川家綱に謁見して、信頼を作り、幕府の許可を得て、1661年(寛文元)に、山城国宇治(現在の京都府宇治市)に黄檗山万福寺を創建します。
 宗風はほとんど臨済禅に一致しますが、明朝の念仏禅を伝えているのが特徴で、伽藍様式や読経、法要様式、法具法服などが明風です。
 弟子の木庵性が普及し、江戸に瑞聖寺を建立して、関東地方にも伝えました。一時衰退したものの、1851年(嘉永4) に良忠が出て復興に努めます。
 明治時代前期の1874年(明治7)に、一時臨済宗に合併されましたが、1876年(明治9)にふたたび独立し、1952年(昭和27)には、「宗教法人法」による認証を受けました。
 2000年(平成12)現在で、寺院463、信徒35万人を擁しているとされています。
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 今日は、鎌倉時代の僧侶・時宗の開祖一遍の生まれた日ですが、新暦では3月21日となります。
 一遍は、1239年(延応元年2月15日)に、伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の豪族、別府通広の第2子として生まれ、10歳の時に出家しました。
 その後、13歳で大宰府に移り、浄土宗西山派の聖達に学ぶことになります。1274年(文永11)、36歳の時に遊行を開始し、四天王寺、高野山などを詣で、熊野で熊野本宮証誠殿参籠中に、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」という夢告を受け、念仏の札を配る念仏賦算の時宗が成立したとされています。
 その後、九州、四国、山陽、京都の各地を巡り、1279年(弘安2)41歳の時に、信濃国の伴野(現在の長野県佐久市)を訪れて踊り念仏を始めました。
 それからも日本各地を巡って、布教活動を続けましたが、1289年(正応2年8月23日)に摂津国の和田岬(現在の兵庫県神戸市)において、51歳で亡くなっています。
 尚、その生涯は国宝となっている『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)に描かれていて、今日に伝えられています。

〇『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)とは?

 時宗の開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻で、鎌倉時代の1299年(正安元)に一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いたものです。
 全12巻からなり、神奈川県藤沢市の清浄光寺に所蔵されているものは、「絹本著色一遍上人絵伝」の名称で、1900年(明治33)に、重要文化財(旧国宝)となり、1952年(昭和27)に国宝に指定されました。
 絹本着色の精緻な画風で、一遍の生涯を各地の風物や社寺の景観の中に描いていて、四季おりおりの風景を美しくとらえて歌絵、名所絵的な趣きがあり、文化史上の貴重な資料とされています。
 他に、1307年(徳治元)頃成立の宗俊編「一遍上人縁起絵」(10巻)の系統のものも流布してきました。
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 今日は、奈良時代の749年(天平21)に、社会事業に尽力した法相(ほっそう)宗の僧行基が亡くなった日ですが、新暦では2月23日となります。
 行基は、飛鳥時代の668年(天智天皇7)に、河内国(後に和泉国に分立)大鳥郡(現在の大阪府)において、渡来した王仁の子孫にあたる父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれました。
 682年(天武天皇11)に出家して、『瑜伽師地論』、『成唯識論』などの経典を学び、たちまち理解したと伝えられています。
 その後、薬師寺で義淵らについて法相を学び、8世紀初め頃までは山林修行に力を注ぎました。43歳で母を亡くし3年間の忌服を終え、諸国を遊歴して、民衆の教化と社会事業に専念し、弟子を連れて民衆と共に道路・堤防・橋や寺院の建設にあたります。また、旅の途上で餓死する人を救うため布施屋(旅人の休息所)を多数造立しました。
 しかし、717年(養老元)には、その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されたものの、後に許されます。
 やがて聖武天皇の帰依を受け、大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進に起用されました。
 その功もあって、745年(天平17)には、朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を授与されましたが、749年(天平21年2月2日)に、奈良の菅原寺において、82歳で亡くなりました。

〇行基の主要な社会事業とされるもの

<貯水池>
・久米田池(大阪府岸和田市)
・狭山池(大阪狭山市)
・永寿池(大阪府貝塚市)
・鶴田池(大阪府堺市)
・蓮の池(兵庫県神戸市長田区)
・香盤池(兵庫県明石市)
・昆陽池(兵庫県伊丹市)

<橋>
・泉橋(木津川)
・山崎橋(淀川)
・高瀬橋(淀川)
・行基橋(福岡県沖端川)

<港>
・河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
・大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
・魚住泊(兵庫県明石市大久保町)
・韓泊(兵庫県姫路市的形町)
・室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)

<布施屋>
・泉寺布施屋(京都府木津川市)
・大江布施屋(京都府京都市)
・垂氷布施屋(大阪府吹田市)
・樟葉布施屋(大阪府枚方市)
・大鳥布施屋(大阪府堺市)
・野中布施屋(大阪府堺市)
・石原布施屋(大阪府堺市)
・度布施屋(大阪府大阪市)
・昆陽布施屋(兵庫県伊丹市)
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 今日は、1831年(天保2)に、禅僧・歌人・書家良寛の亡くなった日ですが、新暦では2月18日となります。
 江戸時代中期の1758年(宝暦8)10月2日(1757年説あり)に、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主橘屋山本左門泰雄(伊織、号以南)の長男として生まれとされますが、本名は山本栄蔵といい、号は大愚(たいぐ)でした。
 16歳のときに突然出家して、隣村の曹洞宗光照寺で修行をし、良寛と名乗るようになります。1775年(安永4)備中国玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺に来た時に、感銘を受け、随行して円通寺で、20年間師事することになります。
 32歳の時に、国仙和尚が亡くなり、中国、四国、九州を行脚し始めました。京都から高野山にも上りましたが、40歳頃に帰郷し故郷周辺を転々とし、46歳の時に、越後国蒲原郡国上村(現在の新潟県燕市)国上山国上寺の五合庵に住むようになりました。
 托鉢の合間に詩歌や書をたのしみましたが、58歳の時に国上山麓の乙子神社境内に庵をつくって移ります。その後、老衰のため、三島郡島崎村(現在の長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って世話を受けましたが、1831年(天保2)1月6日に、弟子の貞心尼に看取られ、72歳で亡くなりました。
 万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得るようになりますが、作品として、和歌『布留散東 (ふるさと) 』 (自筆歌稿)、『蓮の露』 (没後貞心尼編)、漢詩『草堂集』 (2巻)、『良寛道人遺稿』などが残されています。
 現在、良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵(復元)、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化跡の標示と「良寛遺宝堂」があり、出雲崎町には「良寛記念館」が建てられました。

<代表的な歌>
「風きよし 月はさやけし いざともに 踊り明かさむ 老いのなごりに」
「歌もよまむ 手毬もつかむ 野にもいでむ 心ひとつを 定めかねつも」
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