ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:僧侶

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 今日は、平安時代後期の1155年(久寿2)に、天台宗の僧・歌人慈円の生まれた日ですが、新暦では5月17日となります。
 慈円(じえん)は、京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれました。2歳の時に母を亡くし、10歳の時に父を亡くし、1165年(永万元)には、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のりました。1167年(仁安2)に天台座主・明雲について受戒し、1170年(嘉応2)には、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられます。
 1176年(安元2)に比叡山の無動寺で千日入堂を果し、1178年(治承2)に法性寺座主に任ぜられ、1181年(養和元)には、師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改めました。1182年(養和2)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぎ、全玄より伝法灌頂をうけ、1186年(文治2)には、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就いています。
 1189年(文治5)に後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこない、1192年(建久3)には、38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開きました。1196年(建久7)に兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居しましたが、1201年(建仁元)には、再び座主に補せられています。
 1202年(建仁2)に再び、座主を辞し、翌年大僧正に任ぜられたものの、すぐにそれも辞しました。1204年(元久元)に自坊白川坊に大懺法院を建立しましたが、翌年には祇園東方の吉水坊に移し、1206年(建永元)には、そこに熾盛光堂を造営し、大熾盛光法を修しています。
 1212年(建暦2)に後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就きましたが、翌年一旦座主職を辞し、同年11月に四度目の座主に復帰したものの、1214年(建保2)にはそれも辞しました。その間、日本最初の歴史哲学書として有名な『愚管抄』を著わし、歌も能くし、後鳥羽上皇に重んじられて和歌所寄人ともなり、家集『拾玉集』も成しています。
 1222年(貞応元)に青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をしましたが、1225年(嘉禄元年9月25日)に近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなりました。尚、『千載和歌集』以降の勅撰集には269首が入集、内『新古今和歌集』には92首が採られ、『小倉百人一首』にも入っています。

<代表的な歌>

・「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」(小倉百人一首)
・「散りはてて 花のかげなき 木このもとに たつことやすき 夏衣かな」(新古今和歌集)
・「初瀬川 さよの枕に おとづれて 明くる檜原に 嵐をぞきく」(玉葉和歌集)
・「旅の世に また旅寝して 草まくら 夢のうちにも 夢をみるかな」(千載和歌集)
・「せめてなほ うき世にとまる 身とならば 心のうちに 宿はさだめむ」(拾玉集)

〇慈円の主要な著作

・歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻
・家集『拾玉集』

☆慈円関係略年表(日付は旧暦です)

・1155年(久寿2年4月15日) 京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれる
・1156年(久寿3年) 2歳の時、母が亡くなる
・1164年(長寛2年2月19日) 10歳の時、父が亡くなる
・1165年(永万元年) 覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる
・1167年(仁安2年) 天台座主・明雲について受戒する
・1170年(嘉応2年) 一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる
・1176年(安元2年) 比叡山の無動寺で千日入堂を果す
・1178年(治承2年) 法性寺座主に任ぜられる
・1180年(治承4年) 隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまる
・1181年(治承5年) 9歳の親鸞を得度させる
・1181年(養和元年11月) 師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改める
・1182年(養和2年) 覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぐ
・1182年(寿永元年) 全玄より伝法灌頂をうける
・1186年(文治2年) 平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く
・1188年(文治4年) 西行勧進の「二見浦百首」に出詠する
・1189年(文治5年) 後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう
・1190年(建久元年) 姪の任子が後鳥羽天皇に入内する
・1192年(建久3年) 38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる
・1192年(建久3年) 無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く
・1195年(建久6年) 上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をする
・1196年(建久7年11月) 兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居する
・1198年(建久9年1月) 譲位した後鳥羽天皇は院政を始める
・1201年(建仁元年2月) 再び座主に補せられる
・1201年(建仁元年6月) 千五百番歌合に出詠する
・1201年(建仁元年7月) 後鳥羽院の和歌所寄人となる
・1202年(建仁2年) 源通親が急死し、兼実の子良経が摂政となる
・1202年(建仁2年7月) 座主を辞す
・1203年(建仁3年3月) 大僧正に任ぜられる
・1203年(建仁3年6月) 大僧正の職を辞する
・1204年(元久元年12月) 自坊白川坊に大懺法院を建立する
・1205年(元久2年) 大懺法院を祇園東方の吉水坊に移す
・1206年(建永元年) 良経は頓死する
・1206年(建永元年) 吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修する
・1207年(承元元年) 兄兼実が死去する
・1212年(建暦2年1月) 後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く
・1213年(建暦3年) 一旦座主職を辞する
・1213年(建暦3年11月) 四度目の座主に復帰する
・1214年(建保2年6月) 座主職を辞する
・1219年(建保7年1月) 鎌倉で第3代将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向する
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を発し、挙兵する(承久の乱)
・1222年(貞応元年) 青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をする
・1225年(嘉禄元年9月25日)  近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなる
・1237年(嘉禎3年)  慈鎮和尚の諡号を賜わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細


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 今日は、平安時代中期の972年(天禄3)に、僧侶・民間浄土教の先駆者空也が亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
 空也(くうや/こうや)は、903年(延喜3)に生まれたとされ、皇族の出身とする説もありますが、はっきりしません。諸国を遊歴し、924年(延長2)に尾張国分寺(現在の愛知県稲沢市)で出家、剃髪して自ら空也を名のります。
 さらに播磨、四国で修行し、奥羽方面にも布教、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺院等を造るなど社会事業もしました。天慶年間(938~47年)に京都に入って、念仏により庶民を教化、町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施し、活動の中心が地方から都市へと変化します。
 948年(天暦2)に比叡山で受戒して光勝と称し、貴族層にまで布教を拡大しました。京都の疫病を鎮めるために、951年(天暦5)には十一面観音像、梵天・帝釈天・四天王像の造像を行ないます。また、金泥『大般若経』600巻の書写事業を開始、13年かけて、963年(応和3)に完成させ、鴨川の河原にて金字大般若経供養会を行いました。
 しかし、972年(天禄3年9月11日)に京都東山の西光寺(現在の六波羅蜜寺)において、数え年70歳で亡くなっています。尚、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人とも呼ばれてきました。
 以下に、10世紀末に成立した『日本往生極楽記』(慶滋保胤著)より、空也の部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇空也関係略年表(日付は旧暦です)

・903年(延喜3年) 生まれたとされる
・924年(延長2年) 尾張国分寺(現在の愛知県稲沢市)で出家、剃髪して自ら空也を名のる
・938~47年(天慶年間) 京都に入って、念仏により庶民を教化する
・948年(天暦2年) 比叡山で受戒して光勝と称する
・950年(天暦4年) 金字大般若経の書写を開始する
・951年(天暦5年) 十一面観音像、梵天・帝釈天・四天王像の造像を行なう
・961~64年(応和年間) 京都東山に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を建立する
・963年(応和3年) 鴨川の河原で金字大般若経供養会を行なう
・972年(天禄3年9月11日) 京都東山の西光寺(現在の六波羅蜜寺)において、数え年70歳で亡くなる
☆『日本往生極楽記』(慶滋保胤著)より空也の部分の抜粋

 沙門[1]空也は、父母を言わず[2]、亡命して[3]世に在り。或いは云く、潢流より出でたりと。口に常に弥陀仏を唱う。故に世に阿弥陀聖[5]と号く。或いは市中に住して仏事を作し、また市聖と号く。嶮路[6]を過ぎてはすなわちこれを鏟り[7]、橋なきに当りてはまたこれを造り、井なきを見ればすなわこれを掘る。号けて阿弥陀井と日う。(中略)天慶以住[8]、道場聚落[9]、念仏三昧を修すること希有なりき。いかにいわんや[10]小人愚女、多くこれを忌めり[11]。上人[12]来たりて後、自ら唱え他をして唱えしむ。その後世を挙げて念仏を事となす。まことにこれ上人[12]の衆生を化度[13]するの力なり。

【注釈】

[1]沙門:しゃもん=出家して仏道を修める者。僧侶。
[2]父母を言わず:ふぼをいわず=父母の名を語らない。
[3]亡命して:ぼうめいして=戸籍から離脱すること。
[4]潢流:こうりゅう=皇族。
[5]阿弥陀聖:あみだひじり=阿弥陀仏を唱える民間での修行者の呼称。
[6]嶮路:さかしきみち=険しい道。
[7]鏟り:けずり=開削すること。
[8]天慶以住:てんけいいおう=天慶年間(938~47年)以前。
[9]聚落:しゅうらく=人の集まった村落。集落。
[10]いかにいわんや=まして、いうまでもなく。ましてや。
[11]忌めり:いめり=嫌い避ける。
[12]上人:しょうにん=高徳の僧侶への敬称。ここでは空也を指す。
[13]衆生を化度:しゅじょうをげど=すべての人々を感化して救うこと。

<現代語訳>

 出家して仏道を修める空也は、父母の名を語らず、戸籍から離脱して世に在る。あるいは、皇族出身者ではないかともいう。口では常に弥陀仏を唱えている。従って、世間では「阿弥陀聖」とも言われている。あるいは、市中に出向いて仏事を行い、また「市聖」とも言われている。険しい道を通過するときは、すなわちこれを開削し、橋のないところに行き当たっては、またこれを架橋する。井戸がないのを見れば、すなわこれを掘るので、名付けて「阿弥陀井」と言われている。(中略)天慶年間(938~47年)以前、多くの人が集まる場所や集落では、念仏三昧を執り行うのは稀なことであった。まして子供や女性は言うまでもなく、多くがこれを嫌い避けていた。空也上人が来訪してから以後は、自ら唱え、他人にも唱えさせようとする。その後、世間は挙げて念仏を唱えるようになった。まことにこれは、空也上人がすべての人々を感化して救おうとすることの力である。

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 今日は、平安時代前期の822年(弘仁13)に、平安初期の僧・日本天台宗の開祖最澄の亡くなった日ですが、新暦では6月26日となります。
 最澄(さいちょう)は、奈良時代の767年(神護景雲元年8月18日)に、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)の一帯を統治する豪族の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれましたが、幼名は広野と言いました。778年(宝亀9)、12歳のときに近江国分寺の行表を師として出家、780年(宝亀11)、14歳のときに得度し名を最澄と改めます。
 785年(延暦4)、19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受け、比叡山に登り山林に入り、天台三大部を研修しました。801年(延暦20)に南都の大徳10人を招いて法華会を修し、翌年には自ら高雄山寺で天台法華一乗を説きます。
 同年に桓武天皇から入唐の勅命を受け、804年(延暦23)に遣唐使の一員として、空海、橘逸勢らと共に入唐し、天台山で行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学びました。805年(延暦24)に帰国し、密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け、翌年最澄の上表により、天台宗としての年分度者を許されます。
 しかし旧仏教の反対は強く、晩年には、法相宗の徳一との間で教理論争(三乗一乗権実論争)をおこない、819年 (弘仁10) に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したものの、南都六宗の反対で許されませんでした。
 そして、822年(弘仁13)に、比叡山において、数え年56歳で亡くなりますが、没後7日目に大乗戒壇設立が勅許されます。尚、866年(貞観8)に、清和天皇より伝教大師(日本最初の大師号)の諡号が贈られました。

〇最澄の主要な著作

・『照権実鏡(しょうごんじっきょう)』
・『法華去惑(こわく)』
・『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』(818年)
・『決権実論』
・『法華秀句(しゅうく)』
・『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(818~819年)
・『顕戒論(けんかいろん)』
・『内証仏法血脈譜(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)』
・『通六九証破比量文(つうろくきゅうしょうはひりょうもん)』
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 今日は、平安時代後期の1173年(承安3)に、僧侶・浄土真宗の開祖親鸞の生まれた日ですが、新暦では5月14日となります。
 親鸞(しんらん)は、京都の日野(現在の京都市伏見区日野)において、父・皇太后宮大進日野有範の長男として生まれましたが、幼名は松若磨(松若丸とも)と呼ばれました。
 幼時に母を失い、1181年(治承5)に数え年9歳で出家して、京都青蓮院に入り、慈円について得度し、範宴(はんえん)と号したとされます。その後、比叡山で堂僧として20年ほど天台宗などを学びましたが、安心が得られず、1201年(建仁元)には、源空(法然)の門にはいり、専修念仏(浄土教)に帰依しました。
 1207年(建永2)に旧仏教の讒訴によって、念仏停止の法難に遭い、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、現地の豪族の娘恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけたとされます。
 4年後の1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に戻らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め、『教行信証』 (6巻) をまとめて、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説きました。
 数え年62,3歳の頃京都に戻り、著作活動に重きを置き、『三帖和讃』、『唯信鈔文意』などを著わします。また、門弟の指導にも注力し、門下に真仏・性信・唯円などを輩出しましたが、1262年(弘長2年11月28日)に、京都において、数え年90歳で亡くなりました。

〇親鸞の主要な著作

・『教行(きょうぎょう)信証』
・『三帖和讚』
・『愚禿鈔(ぐとくしょう)』
・『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』
・語録『歎異抄(たんにしょう)』唯円編
・『浄土文類聚鈔』
・『一念多念文意』
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 今日は、室町時代の1415年(応永22)に、僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の生まれた日ですが、新暦では4月13日となります。
 蓮如(れんにょ)は、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。
 6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学し、次いで大谷の草庵で宗義をきわめました。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化します。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されました。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいます。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになりました。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみます。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げました。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいます。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなりました。

〇蓮如の主要な著作

・『正信偈大意』
・『御文(御文章)』
・『領解文』
・言行録『蓮如上人御一代記聞書』

☆蓮如関係略年表(日付は旧暦です)

・1415年(応永22年2月25日) 京都東山で本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれる
・1431年(永享3年) 中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学ぶ
・1447年(文安4年) 父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝する
・1449年(宝徳元年) 父と共に北陸から関東・東北を巡化する
・1457年(長禄元年) 父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ
・1465年(寛正6年1月8日) 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定する
・1465年(寛正6年1月9日) 比叡山延暦寺宗徒により本願寺を破却される
・1467年(文正2年3月) 延暦寺と和議を結ぶ
・1468年(応仁2年) 北陸・東国の諸国を巡錫する
・1469年(応仁3年) 三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立する
・1471年(文明3年4月上旬) 越前国吉崎に赴く
・1471年(文明3年7月27日) 越前国吉崎に道場(吉崎御坊)を建立する
・1475年(文明7年) 越前国吉崎を退去し、畿内に戻る
・1478年(文明10年1月29日) 山城国山科に坊舎の造営を開始する
・1483年(文明15年8月22日) 山城国山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成する
・1486年(文明18年) 紀伊に下向する
・1488年(長享2年6月9日) 加賀一向一揆が決起し、守護富樫政親を高尾城で自刃に追い込む
・1489年(延徳元年) 退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲る
・1496年(明応5年9月) 摂津国石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まう
・1499年(明応8年2月20日) 死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参する
・1499年(明応8年3月25日) 山科本願寺において数え年85歳で亡くなる
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