ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:俳諧

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 今日は、江戸時代中期の1707年(宝永4)に、俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の亡くなった日(嵐雪忌)ですが、新暦では11月6日となります。
 服部嵐雪(はっとり らんせつ)は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、江戸の湯島(淡路国三原郡小榎並村とする説あり)で、淡路出身の下級武士の父・服部喜太夫高治の子としてに生まれましたが、幼名は久馬之助(長じて孫之丞)、名は治助(はるすけ)と言いました。初め新庄隠岐守に出仕しましたが、以後は転々と主を替えながら武家奉公を続けます。
 その間、1675年(延宝3)頃に松尾芭蕉に入門し、1678年(延宝6)に不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見となりました。1680年(延宝8)に同門宝井其角の『田舎之句合』に序を書き、『桃青門弟独吟廿歌仙』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに入集し、頭角を現します。
 貞享年間(1684~87年)に武士をやめて俳諧に専念し、1688年(貞享5)には『若水』を刊行して世に知られ、宗匠として立ちました。穏健な俳風で、其角と共に「蕉門の桃桜」と称され、1694年(元禄7)の芭蕉没後は、其角と江戸俳壇を二分します。
 その一派を雪門とも呼ばれ、高野百里らを育て、後年は黄檗禅に帰依して剃髪し、不白玄峯居士と号しました。しかし、1707年(宝永4年10月13日)に、江戸において、数え年54歳で亡くなり、辞世の句は「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」とされています。

<代表的な句>

・「出替りや 幼ごころに 物あはれ」(猿蓑)
・「蒲団着て 寝たる姿や 東山」(枕屏風)
・「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」
・「この下に かくねむるらん 雪仏」

〇服部嵐雪の主要な著作

・句集『玄峯集』
・撰著『若水』(1688年)
・撰著『つるいちご』
・撰著『其袋(そのふくろ)』(1690年)
・撰著『或時集(あるときしゅう)』(1694年)
・撰著『若菜集』(1695年)
・撰著『杜撰集』 (1701年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代中期の1704年(宝永元)に、俳人(蕉門十哲の一人)向井去来の亡くなった日ですが、新暦では10月8日となります。
 向井去来(むかい きょらい)は、1651年(慶安4)に、肥前国長崎(現在の長崎市興善町)で、儒医向井元升の次男として生まれましたが、名は兼時、字は元淵(もとひろ)と言いました。1658年(万治元)に父に伴われて京都に移住しましたが、のち福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学びます。
 しかし、結局仕官せず、1675年(延宝3)頃に武を捨てて京都に戻り、1677年(延宝5)に没した父を継いで典薬となった兄元端を助け、公家に出入りして神道家、陰陽家として天文や暦のことに携わりました。貞享年間 (1684~88年) 頃に、榎本其角を介してくげ松尾芭蕉に入門、嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に隠棲して、俳諧に専心します。
 1689年(元禄2)に、近畿滞在中の芭蕉を落柿舎に招き、1691年(元禄4)の夏には、芭蕉の宿舎として提供、ここで『嵯峨日記』が執筆されました。同年、芭蕉の指導のもとで野沢凡兆と共に『猿蓑』を編纂し、蕉風を代表する撰集となります。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後は、蕉風の忠実な伝え手として、其角や森川許六と論争し、『俳諧問答青根が峰』、『去来抄』、『旅寝論』など重要な蕉風俳論を執筆したものの、1704年(宝永元年9月10日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。のちに、蕉門十哲の一人と言われるようになります。

<代表的な句>

・「秋風や 白木の弓に 弦はらん」
・「湖の水 まさりけり 五月雨」
・「をととひは あの山越つ 花盛り」
・「尾頭の こころもとなき 海鼠哉」
・「螢火や 吹とばされて 鳰の闇」
・「鳶の羽も 刷ぬ はつしぐれ」
・「応々と いへど敲くや 雪の門」
・「岩鼻や ここにもひとり 月の客」(去来抄)

〇向井去来の主要な著作

・『猿蓑』(1691年)野沢凡兆との共編
・『贈其角先生書』
・『答許子問難弁』
・『俳諧問答青根が峰』
・『去来抄』
・『旅寝論』

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 今日は、江戸時代中期の1775年(安永4)に、俳人加賀千代女(千代尼)の亡くなった日ですが、新暦では10月2日となります。
 加賀千代女(かが の ちよじょ)は、1703年(元禄16)に、加賀国松任(現在の白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。12歳の頃に奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号半睡、のち大睡)に俳諧を学び、1719年(享保4)17歳のとき、北越行脚中の各務支考にその才を認められ、諸国に知られるようになります。
 通説では 18歳の頃、金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し1子をもうけ、夫や子に死別して松任に帰ったとされますが、結婚しなかったとも言われてきました。1725年(享保10)に、京の東本願寺に参詣、その途上伊勢俳壇中川乙由を訪問して入門します。
 1727年(享保12)には、支考の門人仙石廬元坊の来訪をうけ「松任短歌行」をなし、女流俳人として有名となりました。1754年(宝暦4)に剃髪して素園と号し、居室を草風庵と称するようになります。
 1764年(明和元)に、既白編の『千代尼句集』(546句載録)が刊行され、1771年(明和8年)には、その後編『俳諧松の声』(327句載録)が刊行されました。「朝顔に つるべ取られて もらい水」など平俗で親しみやすい句を詠みましたが、1775年(安永4年9月8日)に、加賀において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、生涯で1,700余の句を成したとされますが、辞世の句は「月も見て 我はこの世を かしく哉」でした。

<代表的な句>

・「池の雪 鴨あそべとて 明てありり」
・「昼顔の 行義に夜は 痩にけり」
・「朝顔に つるべ取られて もらい水」
・「月も見て 我はこの世を かしく哉」(辞世)

〇加賀千代女の主要な著作

・『吉崎紀行』(1762年)
・『千代尼句集』既白編(1764年)
・『自撰真蹟俳諧帖』(1768年)
・『俳諧松の声』既白編(1771年)

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 今日は、江戸時代前期の1656年(明暦2)に、彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の生まれた日ですが、新暦では10月1日となります。
 森川許六(もりかわ きょりく)は、近江国彦根城下藪下(現在の滋賀県彦根市)において、佐々木高綱を遠祖とする300石取りの彦根藩士の父・森川與次右衛門の子としてに生まれましたが、幼名を兵助または金平、本名は百仲(ももなか)と言いました。
 宝蔵院流の槍を得意とし、狩野派の絵画や漢詩にも親しみ、延宝の始め(1670年代前半)頃に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとされます。21歳から井伊直澄に仕え、30歳前後から俳諧に執心し、尚白、嵐雪、其角に指導を受け、1689年(元禄2)33歳の時に、父の隠居により家督を継ぎました。
 1692年(元禄5)に公務で江戸に出た際、松尾芭蕉に入門し、許六と言う号を授けられ、1年間懇篤な指導を受けるとともに、芭蕉に絵を伝授します。翌年帰郷する際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられました。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後からは、蕉風の理論化につとめ、向井去来らと俳論をかわした往復書簡を集めたものが、『俳諧問答』として残されています。彦根風の一派を形成し、『篇突』(1698年)、『宇陀法師』(1702年)の俳論書(李由との共編著)、俳文集『風俗文選』(1706年)、『正風彦根体』(1712年)、俳諧史論『歴代滑稽伝』(1715年)などを著しました。
 門下として、直江木導・松居汶村・北山毛紈・寺島朱迪などを指導しましたが、1715年(正徳5年8月26日)に、彦根において、数え年60歳で亡くなっています。

<代表的な句>

・「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」
・「秋も早か やにすぢかふ 天の川」
・「うの花に 芦毛の馬の 夜明哉」
・「茶の花の 香や冬枯の 興聖寺」
・「苗代の 水にちりうく 桜かな」
・「水筋を 尋ねてみれば 柳かな」
・「もちつきや 下戸三代の ゆずり臼」

〇森川許六の主要な著作

・撰集『韻塞 (いんふたぎ) 』(1696年)
・俳論書『篇突(へんつき)』李由との共編著(1698年)
・俳論書『宇陀法師(うだのほうし)』李由との共編著(1702年)
・俳文集『風俗文選』10巻9冊(1706年)
・『正風彦根体 (ぶり) 』(1712年)
・俳諧史論『歴代滑稽(こっけい)伝』(1715年)
・俳論書『青根が峯』
・句集『五老井発句集』
・俳論書『俳諧問答』
・『和訓三体詩』
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