小林一茶は、信濃国水内郡柏原村(現在の長野県水内郡信濃町)の中農であった父・農業弥五兵衛、妻・くにの長男として生まれましたが、本名は弥太郎といいました。
3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と折り合いが悪く、15歳の頃江戸へ出て奉公します。俳諧をたしなむようになり、25歳頃には、葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に俳句を学ぶようになりました。
29歳で葛飾派の執筆になり、師の死後、1792年(寛政4)から6年間、西国に俳諧修行に出、1795年(寛政7)には、撰集『旅拾遺』を刊行します。
1801年 (享和元) に父の没後、継母子と遺産を10年余り争い、1813年(文化 10)に帰郷し、遺産を2分することで解決しました。1814年(文化11)には、江戸俳壇を引退し信濃へ帰郷する一茶の江戸俳壇引退記念撰集として『三韓人』が刊行されます。
52歳で初めて結婚し、門弟のところを回ったりしていますが、4人の子どもと妻に先立たれます。後妻ゆきとも3ヶ月で離婚し、3度目の妻やをを迎えたものの、その翌年は大火に遭うなど不遇が続きます。
火災後は、土蔵暮らしをしていましたが、1828年(文政10年11月19日)に、三度目の中風に罹り、65歳で亡くなりました。
不幸が続く中で、俗語・方言を交え、自嘲と反逆精神に基づく独自の作風を示し、発句はニ万句以上に及びます。死後刊行されたものも多く、明治時代以降に注目され、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人とされるようになりました。
尚、郷里の柏原には一茶旧宅(国指定史跡)が残り、「一茶記念館」も建てられています。
<代表的な句>
「わが星は 上総の空を うろつくか」
「江戸じまぬ きのふしたはし 更衣(ころもがえ)」
「我と来て 遊べや親の ない雀」
「秋の風 乞食(こじき)は 我を見くらぶる」
「是(これ)がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺」
「今年から 丸まうけぞよ 娑婆遊(しゃばあそ)び」
「花の影 寝まじ未来が 恐ろしき」
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
「やれ打つな 蠅が手をすり 足をする」
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」
〇小林一茶の主要な作品
・紀行文『西国紀行』(1795年)
・撰集『旅拾遺』 (1795年)
・撰集『さらば笠』(1798年)
・句文集『父の終焉日記』 (1801年)
・紀行文『草津道の記』(1809年)
・撰集『三韓人』 (1814年)
・句日記『七番日記』 (1810~18年)
・句文集『おらが春』(1819年)
・自撰句集『浅黄空』