
橋本多佳子(はしもと たかこ)は、明治時代後期の1899年(明治32)1月15日に、東京市本郷区龍岡町(現在の文京区本郷)において、官僚だった父・山谷雄司、母・津留の子として、生まれましたが、本名は多満(たま)と言いました。菊坂女子美術学校(後の女子美術大学)日本画科を病弱のため中退、1917年(大正6) 橋本豊次郎と結婚し、大阪へ転居します。
1920年(大正9)に、夫の赴任地である北九州小倉市中原の高台に櫓山荘を新築し移り住み、1922年(大正11)には、小倉での高浜虚子を迎えての句会を契機に杉田久女を知り、俳句を志しました。1924年(大正13)に、樺太、北海道を北原白秋と共に夫妻で旅行、1925年(大正14)に「ホトトギス」に投句するようになり、1927年(昭和2)には、雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選します。
1929年(昭和4)に大阪・帝塚山に転居、1935年(昭和10)には、山口誓子に師事、水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となりました。1937年(昭和12)に、一家で、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区中井浜)の櫓山荘へ移るものの、夫・豊次郎が亡くなり、1939年(昭和14)には、櫓山荘を手放します。
1941年(昭和16)に、第1句集『海燕(うみつばめ)』が刊行されましたが、1944年(昭和19)には、太平洋戦争の空襲を避けるため、奈良市あやめ池に疎開しました。戦後の1946年(昭和21)に、西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始め、第2句集『信濃』が刊行されます。
1948年(昭和23)に、山口誓子主宰の「天狼(てんろう)」が創刊され、同人として参加、1950年(昭和25)には、榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、主宰しました。1951年(昭和26)に第3句集『紅絲(こうし)』、1957年(昭和32)に第4句集『海彦』が刊行され、1958年(昭和33)から読売新聞俳壇選者を務め、1959年(昭和34)には、奈良県文化賞を受賞しています。
戦後の代表的女流俳人と評価されたものの、1963年(昭和38)5月29日に、大阪において、肝臓、胆嚢癌により、64歳で亡くなり、1965年(昭和40)には、第5句集『命終』が刊行されました。
1920年(大正9)に、夫の赴任地である北九州小倉市中原の高台に櫓山荘を新築し移り住み、1922年(大正11)には、小倉での高浜虚子を迎えての句会を契機に杉田久女を知り、俳句を志しました。1924年(大正13)に、樺太、北海道を北原白秋と共に夫妻で旅行、1925年(大正14)に「ホトトギス」に投句するようになり、1927年(昭和2)には、雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選します。
1929年(昭和4)に大阪・帝塚山に転居、1935年(昭和10)には、山口誓子に師事、水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となりました。1937年(昭和12)に、一家で、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区中井浜)の櫓山荘へ移るものの、夫・豊次郎が亡くなり、1939年(昭和14)には、櫓山荘を手放します。
1941年(昭和16)に、第1句集『海燕(うみつばめ)』が刊行されましたが、1944年(昭和19)には、太平洋戦争の空襲を避けるため、奈良市あやめ池に疎開しました。戦後の1946年(昭和21)に、西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始め、第2句集『信濃』が刊行されます。
1948年(昭和23)に、山口誓子主宰の「天狼(てんろう)」が創刊され、同人として参加、1950年(昭和25)には、榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、主宰しました。1951年(昭和26)に第3句集『紅絲(こうし)』、1957年(昭和32)に第4句集『海彦』が刊行され、1958年(昭和33)から読売新聞俳壇選者を務め、1959年(昭和34)には、奈良県文化賞を受賞しています。
戦後の代表的女流俳人と評価されたものの、1963年(昭和38)5月29日に、大阪において、肝臓、胆嚢癌により、64歳で亡くなり、1965年(昭和40)には、第5句集『命終』が刊行されました。
<橋本多佳子の代表的な句>
・「わが行けば露とびかかる葛の花」(海燕)
・「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」
・「白桃に入れし刃先の種を割る」
・「ひとところくらきをくゞるおどりの輪」
・「乳母車夏の怒濤によこむきに」
・「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」
・「蛍籠昏(くら)ければ揺り炎えたゝす」
・「さびしさを日々のいのちぞ雁わたる」
〇橋本多佳子の主要な著作
・第1句集『海燕(うみつばめ)』(1941年)
・第2句集『信濃』(1946年)
・第3句集『紅絲(こうし)』(1951年)
・第4句集『海彦』(1957年)
・第5句集『命終』(1965年)
☆橋本多佳子関係略年表
・1899年(明治32)1月15日 東京市本郷区龍岡町(現在の文京区本郷)において、生まれる
・1917年(大正6) 橋本豊次郎と結婚し、大阪へ転居する
・1920年(大正9) 夫の赴任地である北九州小倉市中原の高台に櫓山荘を新築し移り住む
・1922年(大正11) 小倉での高浜虚子を迎えての句会を契機に杉田久女を知り、俳句を志す
・1924年(大正13) 樺太、北海道を北原白秋と共に夫妻で旅行する
・1925年(大正14) 「ホトトギス」に投句する
・1927年(昭和2) 「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 大阪・帝塚山に転居する
・1935年(昭和10) 山口誓子に師事、水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となる
・1937年(昭和12) 一家で、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区中井浜)の櫓山荘へ移るが、夫・豊次郎が亡くなる
・1939年(昭和14) 櫓山荘を手放す
・1941年(昭和16) 第1句集『海燕』が刊行される
・1944年(昭和19) 奈良市あやめ池に疎開する
・1946年(昭和21) 西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始め、第2句集『信濃』が刊行される
・1948年(昭和23) 山口誓子主宰の「天狼(てんろう)」が創刊され、同人として参加する
・1950年(昭和25) 榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、主宰する
・1951年(昭和26) 第3句集『紅絲(こうし)』が刊行される
・1957年(昭和32) 第4句集『海彦』が刊行される
・1958年(昭和33) 読売新聞俳壇選者を務める
・1959年(昭和34) 奈良県文化賞を受賞する
・1963年(昭和38)5月29日 大阪において、肝臓、胆嚢癌により、64歳で亡くなる
・1965年(昭和40) 第5句集『命終』が刊行される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1889年(明治22) | 小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日 | 詳細 |
1908年(明治41) | 言語学者服部四郎の誕生日 | 詳細 |
1942年(昭和17) | 歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌) | 詳細 |
1945年(昭和20) | 横浜大空襲により、死者・行方不明3,959人、重軽傷者10,198人、罹災者311,218人を出す | 詳細 |
1952年(昭和27) | 国際通貨基金(IMF)が日本の加盟を承認する | 詳細 |
国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認する | 詳細 | |
1961年(昭和36) | 青森県八戸市で白銀大火が起きる | 詳細 |
1981年(昭和56) | 日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する | 詳細 |