ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:俳人

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 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、小説家・推理作家・俳人結城昌治の亡くなった日です。
 結城昌治(ゆうき しょうじ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)2月5日に、東京市品川区において生まれましたが、本名は田村幸雄(たむら ゆきお)と言いました。戸越小学校を経て、高輪商業学校にまなび、1945年(昭和20)に卒業しましたが、旧制高等学校受験に失敗し、海軍特別幹部練習生を志願したものの、身体再検査の結果帰郷を命ぜられ、空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開します。
 1946年(昭和21)に早稲田専門学校法律科(現在の早稲田大学法学部)に入学、1948年(昭和23)に卒業後、東京地方検察庁に事務官として就職したものの、1年足らずで肺結核となり、1949年(昭和24)に国立東京療養所に入院し、療養生活を送り、1951年(昭和26)に退所しました。1955年(昭和30)に勤めの傍らアテネフランセに通学し、1959年(昭和34)には、胃から吐血し、虎の門病院に入院、『寒中水泳』で、エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン第1回短編コンテストに入選、処女作品集『ひげのある男たち』を早川書房から刊行します。
 1960年(昭和35)に東京地方検察庁を退職して作家専業となり、推理小説を発表、1962年(昭和37)に早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」で、スパイ小説『ゴメスの名はゴメス』を書き下し、第47回直木賞候補となり、1963年(昭和38)には、『夜の終る時』で、第17回日本推理作家協会賞を受賞、日本推理作家協会が設立され常任理事となりました。1966年(昭和41)に『白昼堂々』で、第55回直木賞候補となり、1970年(昭和45)には、『軍旗はためく下に』で、第63回直木賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第一次「くちなし句会」を結成、『志ん生一代』で、第12回吉川英治文学賞候補となり、1983年(昭和58)には、第二次「くちなし句会」を結成(~1993年)しました。1985年(昭和60)に『終着駅』で、第19回吉川英治文学賞を受賞、1994年(平成6)には、紫綬褒章を受章しましたが、1996年(平成8)1月24日に、呼吸不全のため、68歳で亡くなっています。

〇結城昌治の主要な著作

・『寒中水泳』(1959年)「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン」コンテスト入選
・『長い長い眠り』(1960年)
・『仲のいい死体』(1961年)
・『ゴメスの名はゴメス』(1962年)第47回直木賞候補
・『夜の終る時』(1963年)第17回日本推理作家協会賞受賞
・『軍旗はためく下に』(1970年)第63回直木賞受賞
・伝記小説『志ん生(しんしょう)一代』(1976年)第12回吉川英治文学賞候補
・『終着駅』(1984年)第19回吉川英治文学賞受賞
・連作推理小説集『修羅の匂い』(1990年)
・短編集『エンドレス』(1991年)
・連作推理小説集『決着』(1993年)
・句集『余色(よしょく)』(1993年)
・『出来事』(1994年)
・『俳句は下手でかまわない』(1997年)

☆結城昌治関係略年表

・1927年(昭和2)2月5日 東京市品川区において、生まれる
・1939年(昭和14) 戸越小学校卒業したが、旧制中学受験に失敗する
・1940年(昭和15) 高輪商業学校へ入学する
・1945年(昭和20) 高輪商業学校を卒業したが、旧制高等学校受験に失敗し、海軍特別幹部練習生を志願したものの、身体再検査の結果帰郷を命ぜられ、空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開する
・1946年(昭和21) 早稲田専門学校法律科(現在の早稲田大学法学部)入学する
・1948年(昭和23) 東京地方検察庁に事務官として就職するが、1年足らずで肺結核となる
・1949年(昭和24) 国立東京療養所に入院し、療養生活を送る
・1951年(昭和26) 国立東京療養所を退所する
・1955年(昭和30) 勤めの傍らアテネフランセに通学する
・1959年(昭和34) 胃から吐血し、虎の門病院に入院、『寒中水泳』で、エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン第1回短編コンテストに入選、処女作品集『ひげのある男たち』を早川書房から刊行する
・1960年(昭和35) 東京地方検察庁を退職して作家専業となり、推理小説を発表する
・1962年(昭和37) 早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」で、スパイ小説『ゴメスの名はゴメス』を書き下し、第47回直木賞候補となる
・1963年(昭和38) 『夜の終る時』で、第17回日本推理作家協会賞を受賞、日本推理作家協会が設立され常任理事となる
・1966年(昭和41) 『白昼堂々』で、第55回直木賞候補となる
・1970年(昭和45) 『軍旗はためく下に』で、第63回直木賞を受賞する
・1978年(昭和53) 第一次「くちなし句会」を金原亭馬生、青木雨彦、高橋呉郎、大泉拓、村上豊、青柳純一、小田島雅和と結成、『志ん生一代』で、第12回吉川英治文学賞候補となる
・1983年(昭和58) 第二次「くちなし句会」を青柳純一、小田島雅和、園山俊二、石田種生、加賀美尚、山根一眞、平井宏と結成する
・1985年(昭和60) 『終着駅』で、第19回吉川英治文学賞を受賞する
・1994年(平成6) 紫綬褒章を受章する
・1996年(平成8)1月24日 呼吸不全のため、68歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1911年(明治44) 大逆事件によって、幸徳秋水、宮下太吉ら11名の処刑が行われる詳細
1942年(昭和17)「国民錬成所官制」により、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとされる詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、俳人川端茅舎が生まれた日です。
 川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)は、明治時代後期の1897年(明治30)8月17日に、東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれましたが、本名は信一(のぶかず)と言いました。1903年(明治36)に、私立有隣代用小学校へ入れられ、1909年(明治42)には、獨逸学協会学校(後の獨協中学校)へ入学します。在学中より句作を始め、1914年(大正3)に中学を卒業した頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始めます。1915年(大正4)に「ホトトギス」に初入選、1919年(大正10)に岸田劉生の画学生となり、1922年(大正13)には、洋画を春陽会に出品して2点入選しました。1924年(大正15)に「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得、1931年(昭和3)には、脊椎カリエスのため画業を断念します。1932年(昭和4)の岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念し、1933年(昭和5)には、傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になりました。1934年(昭和9)に「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行、1939年(昭和11)には、第2句集『華厳』を刊行しました。格調高雅な美的境地の句風を示し、高浜虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」の称を与えられたりしたものの、1941年(昭和16)7月17日に、東京市大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなっています。

<代表的な句>

・「金剛の 露ひとつぶや 石の上」(川端茅舎句集)
・「一枚の 餅のごとくに 雪残る」
・「ぜんまいの のの字ばかりの 寂光土」
・「約束の 寒の土筆を 煮て下さい」
・「咳き込めば 我火の玉の ごとくなり」
・「朴散華 即ちしれぬ 行方かな」

〇川端茅舎の主要な著書

・第1句集『川端茅舎句集』 (1934年)
・第2句集『華厳』(1939年)
・『春水光輪』(1940年)
・『白痴』(1941年)

☆川端茅舎関係略年表

・1897年(明治30)8月17日 東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれる
・1903年(明治36) 私立有隣代用小学校へ入れられる
・1909年(明治42) 獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学する
・1914年(大正3) 独逸協会学校中学を卒業、この頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始める
・1915年(大正4) 「ホトトギス」に初入選する
・1919年(大正10) 岸田劉生の画学生となる
・1922年(大正13) 洋画を春陽会に出品して2点入選する
・1924年(大正15) 「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得る
・1931年(昭和3) 脊椎カリエスのため画業を断念する
・1932年(昭和4) 岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念する
・1933年(昭和5) 傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になる
・1934年(昭和9) 「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行する
・1939年(昭和11) 第2句集『華厳』を刊行する
・1941年(昭和16)7月17日 大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃する(新暦9月8日)詳細
1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1943年(昭和18)「第2次食糧増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
1963年(昭和38)みどり丸沈没事故が起き、死者・行方不明者112名を出す詳細
1965年(昭和40)小説家・詩人高見順の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1740年(元文5)に、俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の亡くなった日ですが、新暦では1月31日となります。
 志太野坡(しだ やば)は、江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、室井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。
 1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
 1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
 1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
 1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
 その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。

<志太野坡の代表的な句>

・「鉢まきをとれば若衆ぞ大根引」(炭俵)
・「朝霜や師の脛おもふゆきのくれ」
・「寒きほど案じぬ夏の別れ哉」
・「ちからなや膝をかかえて冬篭り」
・「手まはしに朝の間凉し夏念仏」(続猿蓑)
・「金屏の松の古さよ冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)

〇志太野坡の主要な著作

・編纂『炭俵』(1694年)
・『万句四季之富士』(1715年) 
・『放生日』(1726年) 
・『野坡吟草』(1759年)

☆志太野坡関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年1月3日) 越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれる
・1687年(貞享4年) 其角撰『読虚栗』に野馬の名が見える
・1693年(元禄6年) 芭蕉の指導を受けるようになる
・1694年(元禄7年) 越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加する
・1695年(元禄8年) 深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られる
・1696年(元禄9年) 土芳を訪ねる
・1698年(元禄11年) 江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向く
・1699年(元禄12年) 芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立する
・1700年(元禄13年) 箱崎の俳人哺川が枯野塚を建立し、野坡が揮毫する
・1701年(元禄14年) 長崎の商用より戻り、越後屋の番頭を辞める
・1702年(元禄15年) 筑紫から豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留、日田で越年する
・1703年(元禄16年) 筑紫行脚から戻る
・1704年(元禄17年) 大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となる
・1705年(宝永2年) 長崎に旅立つ魯九に餞別の句を詠む
・1708年(宝永5年) 筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着する
・1710年(宝永7年) 筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行する
・1714年(正徳4年) 森川許六と翌年にかけて、俳論書翰の応酬を行う
・1716年(正徳6年) 露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる
・1718年(享保3年) 筑紫行脚中に直方を訪れ、多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門する
・1719年(享保4年) 冬に塩足村の市山邸を訪ねる
・1721年(享保6年) 熊本壺風亭に遊び、門人30余人に送られて熊本を去る
・1724年(享保9年) 大火に遭い、無一文になる
・1725年(享保10年) 難波に浅生庵(あそうあん)を新築する
・1728年(享保13年) 再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する
・1729年(享保14年) 上京する
・1730年(享保15年) 廬元坊が西国行脚の途上、浅生庵を訪れる
・1734年(享保19年) 風之を伴い赤間関に下り、小倉へ行き、風之は熊本に赴く
・1735年(享保20年) 芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立する
・1737年(元文2年) 風律亭で歌仙興行し、三原からの福山に移り素浅を訪れる。
・1738年(元文3年) 伊勢神宮参詣に出立する
・1739年(元文4年) 高津の新庵が落成し、瓦屋町より新庵に移る
・1740年(元文5年1月3日) 大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなる
・1756年(宝暦6年) 十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)が出される
・1759年(宝暦9年) 『野坡吟草』(風之編)が刊行される
・1761年(宝暦11年) 二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立する
・1785年(天明5年) 許六との往復書簡が、嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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kadokawagenyoshi01
 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、実業家・国文学者・俳人角川源義の亡くなった日です。
 角川源義(かどかわ げんよし)は、大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。
 1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。
 1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。
 1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。
 1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。
 1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

〇角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

☆角川源義関係略年表

・1917年(大正6)10月9日 富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれる
・1930年(昭和5) 富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学する
・1931年(昭和6) 中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿する
・1932年(昭和7) 「草上」に投句をはじめる
・1935年(昭和10) 中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出る
・1936年(昭和11) 上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会います
・1937年(昭和12) 折口信夫の在籍する国学院大学に入学、折口信夫や武田祐吉、柳田國男に師事する
・1941年(昭和16) 臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業する
・1942年(昭和17) 東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となる
・1945年(昭和20) 東京都板橋区小竹町で角川書店を設立する
・1947年(昭和22) 金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1951年(昭和26) 山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版する
・1952年(昭和27) 俳句総合誌「俳句」創刊、現代俳句協会に入会する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 第1句集『ロダンの首』を刊行する
・1958年(昭和33) 俳誌「河」を創刊・主宰する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となる。『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)となる
・1964年(昭和39) 国学院大学文学部講師となる
・1967年(昭和42) 俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立する
・1971年(昭和46) 俳句文学館建設委員長に就任する
・1972年(昭和47) 随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1975年(昭和50) 慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、10月27日に、入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈される
・1979年(昭和54) 文学・歴史の学術賞「角川源義賞」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1791年(寛政3)に、俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄が亡くなった日ですが、新暦では10月10日となります。 
 加舎白雄(かや しらお)は、江戸時代中期の1738年(元文3年8月20日)に、江戸・深川の上田藩深川抱屋敷において、上田藩江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれましたが、幼名を五郎吉。本名は吉春、また競と言いました。5歳の時に母に死別、16歳の時に俳句を知り、19歳の時に、初めて上田へ移住し、宝暦末期に宗匠の青峨門に入門して舎来と号し、11765年(明和2)の銚子滞在中に、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称するようになります。
 1766年(明和3)に、白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚し、翌年には、俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れました。1769年(明和6)に、姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立、1770年(明和7)には、鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、『おもかげ集』を刊行します。
 1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。
 1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。
 1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。
 尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。

<加舎白雄の代表的な句>

・「みちのくの空たよりなや霜の声」
・「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」
・「いなづまやとゞまるところ人のうへ」
・「吹つくし後は草根に秋のかぜ」

〇加舎白雄の主要な著作・編著

・『おもかげ集』(1770年)
・『田毎の春』(1771年)
・俳論書『加佐里那止(かざりなし)』(1771年)
・『春秋稿』(1780年)
・『俳諧寂栞(はいかいさびしおり)』
・『文車(ふぐるま)』
・碩布編『白雄句集』(1793年)
・追善集『くろねぎ』(1798年)
・『寂栞 (さびしおり) 』(1812年)
・『白雄夜話』(1833年)

☆加舎白雄関係略年表(日付は旧暦です)

・1738年(元文3年8月20日) 江戸・深川の上田藩松平家の深川抱屋敷において、信濃国上田藩の江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれる
・1742年(寛保2年) 5歳の時、母に死別する
・1753年(宝暦3年) 16歳の時、俳句を知る
・1756年(宝暦6年) 19歳の時、初めて上田へ移住する
・1762~64年(宝暦末期) 宗匠の青峨門に入門し、舎来と号する
・1765年(明和2年) 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称する
・1766年(明和3年) 白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏 の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚する
・1767年(明和4年) 俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れる
・1768年(明和5年) 宮本虎杖が姨捨山に案内する
・1769年(明和6年) 姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立する
・1770年(明和7年) 鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、記念集『おもかげ集』を刊行する
・1771年(明和8年) 上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行する
・1772年(安永元年) 伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰る
・1773年(安永2年) 斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出る
・1775年(安永4年) 海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚する
・1779年(安永8年) 初めて白雄の号を使う
・1780年(安永9年) 箕田村の桃源庵文郷の許で新春を迎え、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立する
・1782年(天明2年) 海晏寺に白井鳥酔の墓参を行う
・1783年(天明3年) 相模の用田(現藤沢市用田)に門人楚雀を訪問し歌仙を巻き、夏に呉水 を伴い相模の真鶴・厚木を訪ね、呉水を同伴して 小河原雨塘を訪問、春秋庵は火災に遭う
・1784年(天明4年) 呉水を伴ない房総行脚、横芝では坂田小堤村(現在の横芝光町)の神保家を訪ね鳥酔の懐紙を見、呉水を伴なって伊那の中村伯先を訪れ、白井、渋川、引間を訪れた折、大久保の金谷里恭宅に数泊する
・1785年(天明5年) 大輪寺で兄吉重一周忌、虎杖菴に滞留、海晏寺で白井鳥酔十七回忌法要、伯先が芭蕉の句碑を建立に際し揮毫する
・1786年(天明6年) 春秋庵が再び類焼し、日本橋馬喰町移転する
・1788年(天明8年) 蝶夢が訪問、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許し、武州毛呂の碩布亭を訪問、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行する
・1790年(寛政2年) 兄吉重七周忌に上田へ行き、虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫する
・1791年(寛政3年9月13日) 江戸・日本橋の春秋庵において、54歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 三回忌に春秋庵社中は白雄の句碑を建立する
・1798年(寛政10年) 追善集『くろねぎ』が刊行される

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