ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:信長公記

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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

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 今日は、戦国時代の1552年(天文21)に、織田信長・信光と坂井大膳・甚助によって、尾張国で萱津の戦いが行われた日ですが、新暦では9月4日となります。
 萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年(天文21年8月16日)に、尾張国海東郡萱津において、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の坂井大膳・甚助と織田信長・信光との間で行われた戦いでした。清須方の坂井大膳・甚助らが、信長方の深田城(現在の愛知県海部郡大治町西條字城前田)と松葉城(現在の愛知県海部郡大治町西條字南屋敷)を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。
 これに対し、織田信長は那古野城を出陣し、守山城から駆けつけて来た織田信光(信長の叔父で信次の兄)と稲庭地(現在の名古屋市中村区稲葉地)の庄内川畔で合流し、反撃に出ました。信長方は、清須を攻める信長本隊、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊の3つに軍勢を分け、庄内川を渡って各方面へ進出します。
 清洲方面へ向かった信長本隊は萱津ヶ原(現在の愛知県あま市上萱津)で南下してきた清須方と東西に陣を敷いて対峙し、午前八時頃に開戦しました。数時間に及んだ戦いの末、双方が50名ほどの死者を出しましたが、信長方の柴田勝家が坂井大全の弟である坂井甚介を打ち取るなどして、信長方が勝利し、清須方は清須城へ逃げ帰ります。
 また、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊においても信長方が勝利し、2つの城を奪還しました。尚、愛知県あま市上萱津には、近年まで戦死者を葬ったとされる塚がいくつか残されていましたが、耕地整理等によって壊され、代わりに「萱津古戦場跡碑」が建てられています。
 以下に、萱津の戦いを記した『信長公記』首巻十二段の部分を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照ください。

〇萱津の戦い(『信長公記』首巻十二段) 1552年(天文21年8月16日)

深田・松葉両城手かはりの事

一、八月十五日[1]に清洲[2]より坂井大膳[3]、坂井甚介、河尻与一、織田三位申し談じ、松葉[4]の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉[4]の並びに、
一、深田[5]と云ふ所に織田右衛門尉[6]居城、是れ叉、押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。
一、織田上総介信長[7]、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、八月十六日払暁[8]に那古野[98]を御立ちなされ、稲庭地[10]の川端[11]まで御出勢、守山[12]より織田孫三郎[13]殿懸け付けさせられ、松葉[4]口、三本木[14]口、清洲[2]口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川[15]をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津[16]ロヘ御かかり侯。
一、清洲[2]より三十町計り踏み出だし、海津[16]と申す村へ移り侯。
信長八月十六日辰の刻、東へ向つてかかり合ひ、数刻、火花をちらし相戦ふ。
孫三郎殿手前にて、小姓立[17]の赤瀬清六とて、数度武篇いたすおぼえの仁体、先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散貼に暫く相戦ひ、討死。終に清洲[2]衆切り負け、片長、坂井甚介討死。頸は中条小一郎[18]、柴田権六[19]相討つなり。此の外、討死、坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与を初めとして、歴々五十騎計り、枕をならべて討死。
一、松葉[4]口廿町計りに取出惣構[20]へを相拘へ、追入れられ、真島の大門崎[21]つまり[22]に相支へ、辰の刻より午の刻まで取合ひ、数刻の矢軍に手負数多出来、無人になり、引き退く所にて、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。
一、深田[5]口の事、三十町計りふみ出し、三本木[14]の町を相拘へられ侯。要害[23]これなき所に侯の間、即時に追ひ崩され、伊東弥三郎、小坂井久蔵を初めとして、究竟[24]の侍三十余人討死。これによつて、深田[5]の城、松葉[4]の城、両城へ御人数寄せられ侯。降参申し、相渡し、清洲[2]へ一手につぽみ[25]侯。上総介信長、是れより清洲[2]を推し詰め、田畠薙[26]させられ、御取合ひ初まるなり。

【注釈】

[1]八月十五日:天文21年(1552年)8月15日のこと。
[2]清州:愛知県清須市で、当時の織田信友(大和守)の居城清州城があったところ。
[3]坂井大膳:尾張守護代の織田信友(大和守)の重臣。
[4]松葉:愛知県海部郡大治町西條字南屋敷で、当時松葉城があり、織田伊賀守の居城となっていた。
[5]深田:愛知県海部郡大治町西條字城前田で、当時深田城があり、織田信次(右衛門尉)の居城となっていた。
[6]織田右衛門尉:織田信次のことで、織田信定の子で、右衛門尉を名乗り、当時は深田城主だった。
[7]織田上総介信長:織田信長のことで、織田信秀の子で、上総介を名乗り、当時は那古野城主だった。
[8]払暁:夜明け、明け方のこと。
[9]那古野:名古屋市中区で、当時那古野城があり、織田信長(上総介)の居城となっていた。
[10]稲庭地:名古屋市中村区稲葉地のこと。
[11]川端:当時の庄内川の岸を指している。
[12]守山:名古屋市守山区で、当時守山城があり、織田孫三郎の居城となっていた。
[13]織田孫三郎:織田信光のことで、通称は孫三郎、織田信定の子で、信長の叔父にあたり、当時は守山城主だった。
[14]三本木:愛知県海部郡大治村三本木のこと。
[15]いなばぢの川:庄内川のこと。
[16]海津:愛知県あま市上萱津のことで、萱津合戦の戦場となり、近年までいくつかの塚が残されていた。
[17]小姓立:小姓上がりの侍のこと。
[18]中条小一郎:中条家忠のことで、織田信長の家臣で、後に八草城・広見城主になった。
[19]柴田権六:柴田勝家のことで、織田信秀の家臣、さらに信長の重臣として、諸国を転戦して武功を上げた。
[20]惣構:城の外郭のこと。
[21]真島の大門崎:愛知県海部郡大治町真島の大門崎のこと。
[22]つまり:詰り、すみのこと。
[23]要害:城砦、守り堅固なところのこと。
[24]究竟:屈強、極めて力の強いこと。
[25]つぼみ:撤収すること。
[26]田畠薙:田畑の作物を刈り取ってしまうこと。

<現代語訳> 

深田・松葉両城手かはりの事

一、八月十五日に清州方の坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位が申し合わせて、松葉城に攻め込み、その城主織田伊賀守を人質に取った。また松葉城の並びにある、
一、深田と言われる所の織田右衛門尉の居城もまた同様に攻め込まれ、人質を取られて、敵対関係が明らかになった。
一、織田上総介信長は、御年19歳の暮れの8月だったが、この報告を聞き、8月16日明け方に那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)の庄内川畔まで出て、守山から織田孫三郎信光が駆けつけて来て、松葉口・三本木口・清洲口と三つに分かれて攻めるように言われ、自身は庄内川を越えて、信長と信光は一団となって、海津(萱津)口へ攻め込んだ。
一、清洲から三十町ほど踏み出した、海津(萱津)という村に移動した。
信長は、8月16日辰の刻(午前8時頃)に東に向かって戦端を開き、数時間火花を散らした戦いとなった。
信光の家臣で小姓上がりの赤瀬清六という者は、幾度か武功もあったが、この戦でも先陣を争い、坂井甚介に攻めかかったものの、激しい戦闘の末に討ち死にしてしまった。終には清洲方が負け、片長、坂井甚介は討死した。その首は、中条家忠と柴田勝家がともに打ち取ったという。この他に、討死したのは坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与をはじめとして、歴々50騎ほど枕を並べての討ち死にであった。
一、松葉口へは、二十町ばかり踏み出し、城の外郭の中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎へ詰めて、辰の刻から午の刻(約午前8時から正午頃)まで戦われ、数時間の矢合わせで、敵には負傷者が多数出て、戦える人もいなくなり、撤退していく際に、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六が討ち取られ、本城に退却した。
一、深田口では、三十町ばかり踏み出し、三本木の町を取り囲んだが、これといって守り堅固の場所でもなかったので、たちまちのうちに追い崩されて、伊藤弥三郎、小坂井久蔵をはじめとして、屈強の侍が30人余り討死した。これによって、深田城・松葉城の両方に、信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ一団となって撤収した。信長方は、これより追撃して清州へと至り、田畑の作物を刈り取り、以後両者の敵対関係が継続することとなった。

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 安土桃山時代の1575年(天正3)に、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日ですが、新暦では6月29日となります。
 長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
 決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
 現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
 以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』(第八巻)

三州長篠御合戦の事

 五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
 志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
 五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
 信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
 かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
 討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
 中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
 岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。

【注釈】

[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。

<現代語訳>

 5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
 5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
 設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
 5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
 信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
 このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
 5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
 中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
 5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
 また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
 信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。
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 今日は、1571年(元亀2)に、織田信長による「比叡山の焼き討ち」が起きた日ですが、新暦では9月30日となります。
 「比叡山の焼き討ち」は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)で行われた戦いで、織田信長軍と比叡山延暦寺が争いました。当時の延暦寺は、僧兵4千人という強大な武力と権力を持ち、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となったのです。織田信長による何度かの武装解除の申し出に、比叡山延暦寺側が従わなかったため、攻撃されることになりました。
 この時に、全山が焼亡し、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、僧侶、学僧、上人、児童の多くの首が刎ねたられたと言われています。

〇「延暦寺」とは?
 滋賀県大津市にある天台宗の総本山で、山号は比叡山といい、山門とも呼びます。
 奈良時代の788年(延暦7)に最澄が創建した一乗止観院に始まり、823年(弘仁14)には、嵯峨天皇による大乗戒壇の勅許とともに延暦寺の寺号を賜りました。
 993年(正暦4)に円珍(智証大師)の門徒が園城寺(寺門)に移ってからは寺門と対立し、このころから僧兵をたくわえ、意に満たないことがあれば強訴し、朝廷に恐れられるようになります。
 次第に堂や伽藍が整備されていき、平安時代後期には一山三千余坊といわれるほど栄えました。鎌倉時代以降も寺勢を保持しましたが、たびだひ武家勢力と対峙したため、何度か火災にあって建物を焼失したものの、その都度復興されてきました。
 しかし、1571年(元亀2)に、浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となって、織田信長によって「比叡山の焼き討ち」が起こり、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰したと言われています。
 その後、豊臣秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興しました。
 現在も、根本中堂 (国宝) をはじめ,大講堂、戒壇院、釈迦堂、山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔があり、寺宝として、金銅経箱(国宝)、宝相華蒔絵経箱(国宝)、七条刺納袈裟・刺納衣(国宝)、伝教大師将来目録(国宝)、羯磨金剛目録(国宝)、六祖恵能伝(国宝)などを多数所蔵しています。尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆『信長公記』の「比叡山の焼き討ち」の記述より

九月十一日、信長公、山岡玉林所に御陣を懸けらる。
九月十二日、叡山へ御取り懸く。子細は、去年、野田・福島御取り詰め侯て、既に落城に及ぶの刻、越前の朝倉・浅井備前、坂本ロヘ相働き侯。京都へ乱入侯ては、其の曲あるべからざるの由侯て、野田・福島御引払ひなされ、則ち逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。つぼ笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出だされ、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国申にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、併せて、出家の道理にて、一途の最員なりがたきに於いては、見除仕り侯へと、事を分ちて仰せ聞かさる。若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一杜を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚侯へき。時刻到来の砌歟。山門・山下の僧衆、王城の鎮守なりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲哢をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井・朝倉に贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ侯へき。御憤を散ぜらるべき為めに侯。
九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこそ哀れたれ。山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、杜内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ぱず、是れは御扶けなされ侯へと、声々に申し上げ侯と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の御胸朦を散ぜられ訖んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地侯ひしなり。
九月廿日、信長公濃州岐阜に至りて御帰陣。

【注釈】
 [1]叡山:えいざん=比叡山延暦寺のことで、1571年(元亀2)の攻撃は、比叡山の焼き討ちと呼ばれています。
 [2]根本中堂:こんぽんちゅうどう=比叡山延暦寺の中心的な堂宇(総本堂)。
 [3]山王廿一社:さんのうにじゅういっしゃ=山王神社(日吉神社)の本宮・摂社・末社の合計21社のこと。
 [4]山門山下の僧衆:比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者のこと。
 [5]行躰:ぎょうたい=なりふり。すがた。
 [6]行法:ぎょうほう=仏道修行の方法。
 [7]嘲哢:ちょうろう=ばかにする。あざける。
 [8]贔屓:ひいき=目をかける。味方する。
 [9]一宇も残さず:いちうものこさず=一つの建物も残さない。
 [10]癈忘致し:はいもういたし=うろたえること。狼狽すること。
 [11]かちはだし:徒歩ではきものもはかないこと。
 [12]八王子山:山王神社(日吉神社)の北方で奥宮のあるところ。
 [13]智者:ちしゃ=賢い僧
 [14]上人:しょうにん=地徳の優れた僧
 [15]有智の僧者:うちのそう=知恵ある僧
 [16]是非に及ばず:ぜひにおよばず=よしあしもなく。当然。
 [17]仕合せ:次第。てんまつ。
 [18]胸朦:胸中のしこり。

<現代語訳>

 9月12日、叡山へ攻めかかられた。子細は、去年、野田・福島を攻囲して、もはや落城という時に、越前の朝倉(義景)・浅井備前守(長政)が、坂本口へ攻めてきた。「京都へ乱入されては、困った事態となる」と考えられ、野田・福島から退陣し、すぐに逢坂を越え、越前衆に立ち向かわれた。これを局笠山に追い上げて兵糧攻めしにしようと考えられ、山門の衆徒を召し出し、この度信長公に対して忠節を尽くすならば、「私の領国内にある山門領を元のようにお返しするべし」旨を金打までされ、さらに朱印状をもお渡しになった。併せて、「出家の身で一方へ肩入れが難しい場合にはせめて中立を保って見過ごしてほしい」と、事をわけて説得した。「もしこの両条に背いた場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払う」旨を宣告していた。その時が到来したのであろうか。比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者は、王城鎮守でありながら、日常の姿も、仏道修行の作法も省みず、天下のあざけりをも恥じず、天道を恐れも顧みず、淫乱と肉食をほしいままにし、金銀に目をくらませて、浅井・朝倉に加担し、勝手なふるまいさえした。信長公は世に従い、時勢を考えて、まず容赦をくわえて見逃し、残念ながらも兵を引いたのであった。その時の憤慨を晴らされる時が来たのである。

 9月12日、叡山を攻囲し、根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・僧房・経巻を一つもも残さず、いっぺんに雲霞のごとく焼き払わせ、灰燼の地と化してしまったことは哀れであった。山下では老若男女が右往左往と狼狽して、取るものもとりあえず、すべてが徒歩のはだしで、八王寺山に逃げ上り、社内に逃げ籠った。いろいろな兵が、四方より鬨の声をあげながら攻め上がった。僧俗・児童・智者・上人のことごとくの首をはね、信長公の御前に差し出した。これは叡山において呼び声の高い高僧・貴僧・学僧などと報告し、その他にも美女・小童らを数知れぬほど捕らえられ、引き出されてきた。御前へ来て、「悪僧は当然ですが、われらはお助け下さい」と口々に申し上げたものの、なかなか聞き入れず、一人ひとり首を打ち落とされ、目も当てられないありさまであった。数千の屍が散らばり、哀れな顛末となった。これで信長公は、年来の胸中のしこりを取り除かれるこことなった。その後、志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が構えられた。

 9月20日、信長公は美濃の岐阜に至って帰陣した。

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