ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:保元の乱

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 今日は、平安時代後期の1143年(康治2)に、第78代の天皇とされる二条天皇が生まれた日ですが、新暦では7月31日となります。
 二条天皇(にじょうてんのう)は、雅仁親王(後の後白河天皇)の長男(生母は藤原経実の娘懿子)として生まれましたが、名は守仁(もりひと)と言いました。母は産褥死し、鳥羽天皇の皇后美福門院得子に養育され、9歳の時に僧侶となるために覚性法親王のいる仁和寺に入ります。
 その後、1155年(久寿2)に近衛天皇が亡くなり、父・雅仁親王(後白河天皇)が皇位を継いだため、女院の推輓により、還俗して皇太子となります。このことが、叔父・崇徳上皇の怒りを誘い、1156年(保元元)の保元の乱の導因となりました。
 しかし、この乱で叔父・崇徳上皇方を父・後白河天皇方が破ったため、1158年(保元3)には、父・後白河天皇の譲位を受けて、第78代の天皇として即位しましたが、父が院政を敷きます。ところが、院政を否定して天皇親政の実をあげようとしたので、軋轢を深めました。
 これが、後白河上皇、信西らの院政派との併立を生み、1159年(平治元)の平治の乱へと発展、藤原信頼・源義朝らにより後白河院と共に幽閉されてしまいます。この時、平清盛らの助けで脱出、清盛の六波羅邸に入り、乱後には清盛らに官爵を与えてこれを賞しました。
 1164年(長寛2)に待望の男子である順仁親王が誕生したものの、翌年には病に倒れ、わずか二歳の皇太子順仁親王(六条天皇)に譲位、1165年(永万元年7月28日)には、京都の押小路東洞院において、数え年23歳で亡くなっています。
 尚、和歌を好み、内裏で百首歌や歌会をしばしば催し、藤原清輔に詞花集に次ぐ勅撰集『続詞花和歌集』の撰進を命じましたが、完成を見ることはありませんでした。自信の和歌は、『千載和歌集』初出後、勅撰集への入集は十六首に及んでいます。

<代表的な歌>

・「雲はみな 峯のあらしに はらはせて さやけく月の 澄みのぼるかな」(続詞花和歌集)
・「雪つもる 嶺にふぶきや わたるらむ 越のみ空に まよふ白雲」(千載和歌集)
・「いかでわれ 人を忘れむ 忘れゆく 人こそかくは 恋しかりけれ」(風雅和歌集)
・「空はれし 豊のみそぎに 思ひ知れ なほ日の本の くもりなしとは」(玉葉和歌集)

〇二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1143年(康治2年6月18日)  雅仁親王(後の後白河天皇)の長男(生母は懿子)として生まれる
・1151年(仁平元年) 9歳で僧侶となるために覚性法親王のいる仁和寺に入る
・1155年(久寿2年7月23日) 近衛天皇が亡くなり、女院の推輓により後白河天皇の皇太子となる
・1156年(保元元年) 保元の乱が起きる
・1158年(保元3年8月11日) 父・後白河天皇の譲位を受けて践祚する
・1158年(保元3年9月23日) 親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子する
・1158年(保元3年12月9日) 元服する
・1159年(平治元年) 藤原清輔より『袋草紙』を献上される
・1159年(平治元年3月5日) 美福門院の皇女・姝子内親王、のち徳大寺実能の女育子を中宮とする
・1159年(平治元年12月) 平治の乱が起き、藤原信頼・源義朝らにより後白河院とともに幽閉される
・1164年(長寛2年) 待望の男子である順仁親王(のちの六条天皇)が誕生する
・1165年(長寛3年2月) 太政大臣の藤原伊通が亡くなり、自らも病に倒れる
・1165年(永万元年6月25日) 病により譲位し、二歳の皇太子順仁親王(六条天皇)が即位する
・1165年(永万元年7月28日) 京都の押小路東洞院において、数え年23歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

746年(天平18)法相宗の僧玄昉の命日(新暦7月15日)詳細
1723年(享保8)徳川吉宗が人材登用のための「足高の制」を制定(新暦7月19日)詳細
1877年(明治10)アメリカの動物学者モースの誕生日及び初来日の日(考古学出発の日)詳細
1988年(昭和63)朝日新聞のスクープによってリクルート事件が発覚する詳細
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 今日は、鎌倉時代初期の1192年(建久3)に、第77代の天皇とされる後白河天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 後白河天皇(ごしらかわてんのう)平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。
 1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。
 1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後六条、高倉、安徳、後鳥羽と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。
 その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。
 また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇後白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1127年(大治2年9月11日) 京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれる
・1127年(大治2年11月14日) 親王宣下を受けて「雅仁」と命名される
・1129年(大治4年) 曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始される
・1139年(保延5年12月27日) 12歳で元服して二品に叙せられる
・1141年(永治元年12月7日) 崇徳天皇に譲位により、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)する
・1143年(康治2年) 最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する
・1155年(久寿2年7月24日) 近衛天皇が崩御すると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となる
・1155年(久寿2年10月) 藤原公能の娘である藤原忻子が入内する
・1156年(保元元年) 鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が発生する
・1158年(保元3年) 守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1159年(平治元年) 平治の乱が起きて信西を失い、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められる
・1160年(永暦元年10月) 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる
・1161年(永暦2年4月13日) 完成した御所に移り住む
・1161年(永暦2年9月3日) 滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産する
・1161年(永暦2年9月15日) 憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される
・1161年(永暦2年12月17日) 藤原育子が入内する
・1162年(応保2年2月19日) 育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となる
・1162年(応保2年3月) 配流されていた大炊御門経宗が帰京を許される
・1162年(応保2年6月23日) 実長の密告により二条天皇呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となる
・1164年(長寛2年12月17日) 多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する
・1165年(永万元年6月25日) 子の二条天皇は病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位する
・1165年(永万元年7月28日) 子の二条天皇が亡くなる
・1165年(永万元年12月25日) 後白河院は憲仁に親王宣下を行い、平清盛を親王勅別当とする
・1166年(永万2年7月26日) 基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられる
・1166年(永万2年10月10日) 平清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する
・1167年(仁安2年1月19日) 御所の拡張で法住寺南殿が新しく建て替えられる
・1167年(仁安2年5月10日) 平清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す
・1168年(仁安3年2月) 平清盛が病に倒れる
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇が譲位し、憲仁親王(高倉天皇)が即位する
・1169年(仁安4年1月) 12度目の熊野詣に向かう
・1169年(嘉応元年) 出家して法皇となる
・1169年(嘉応元年12月23日) 延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)
・1170年(嘉応2年4月19日) 東大寺で受戒するために奈良に御幸する
・1170年(嘉応2年9月20日) 福原に御幸して宋人と会う
・1170年(嘉応2年10月21日) 参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こる
・1170年(嘉応2年12月9日) 藤原基房が太政大臣となる
・1171年(嘉応3年1月3日) 摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、高倉天皇元服の儀式が執り行われる
・1171年(嘉応3年12月14日) 平徳子が後白河院の猶子として高倉天皇に入内する
・1172年(承安2年9月) 宋から後白河院と清盛に供物が届けられる
・1173年(承安3年3月3日) 左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになる
・1173年(承安3年6月25日) 興福寺が多武峯を襲撃して、藤原鎌足の御影堂までも焼き払う
・1173年(承安3年11月3日) 興福寺は強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求する
・1176年(安元2年) 建春門院が亡くなると、近臣と平氏の争いが激化する
・1177年(治承元年) 院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される(鹿ヶ谷事件)
・1179年(治承3年11月) 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される
・1180年(治承4年4月9日) 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・1180年(治承4年4月22日) 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・1180年(治承4年5月26日) 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・1180年(治承4年6月22日) 平氏が福原遷都を強行する
・1180年(治承4年8月17日) 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・1180年(治承4年9月7日) 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4年10月20日) 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4年11月17日) 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4年12月28日) 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
・1181年(養和元年閏2月4日) 平清盛が病没する
・1183年(寿永2年5月11日) 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1183年(寿永2年7月28日) 源(木曽)義仲が、京都に入る
・1183年(寿永2年10月14日) 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・1184年(寿永3年1月20日) 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1184年(寿永3年1月26日) 平宗盛追討の宣旨を出す
・1184年(寿永3年2月7日) 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1185年(元暦2年2月19日) 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(元暦2年3月24日) 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(元暦2年7月9日) 京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する(文治地震)
・1185年(文治元年8月28日) 八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸し、大仏の開眼供養をする
・1185年(文治元年11月28日) 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
・1187年(文治3年2月) 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5年閏4月30日) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・1189年(文治5年9月18日) 源頼朝が、奥州を平定する
・1190年(建久元年11月9日) 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面を果たす
・1191年(建久2年3月22日) 17ヶ条の新制を発布する
・1192年(建久3年2月18日) 後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する
・1192年(建久3年3月13日) 京都において、数え年66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛と勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
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 今日は、平安時代後期の1119年(元永2)に、第75代天皇とされる崇徳天皇の生まれた日ですが、新暦では7月7日となります。
 崇徳天皇(すとくてんのう)は、京都において、鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれましたが、諱を顕仁(あきひと)と言いました。1123年(保安4)に皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により 数え年5歳で第75代天皇に即位します。
 1129年(大治4年)に関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚、同年7月7日に白河法皇が亡くなると鳥羽上皇による院政が開始されました。1140年(保延6)に源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立し、翌年12月7日に鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)します。
 それからは、鳥羽法皇を本院、崇徳上皇を新院と称するようになりますが、政令は本院から出されました。和歌に秀でて風雅を愛し、1144年(天養元年)には、「詞花和歌集」の編纂を下命、7年後に完成して奏覧されます。
 1155年(久寿2)に病弱だった近衛天皇が亡くなると、上皇はその子重仁親王を推しましたが、美福門院が鳥羽法皇とはかって上皇の弟の後白河天皇を立て、対立しました。1156年(保元元)に鳥羽法皇が亡くなると、藤原頼長と組み、保元の乱を起こしますが、敗れて讚岐国(現在の香川県)に配流されます。
 その後京都に返されることなく、1164年(長寛2年8月26日)に配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなりました。

<崇徳天皇の代表的な歌>
・「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(小倉百人一首)
・「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)

〇崇徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1119年(元永2年5月28日) 鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれる
・1119年(元永2年6月19日) 親王宣下を受ける
・1123年(保安4年1月28日) 皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1123年(保安4年2月19日) 数え年5歳で第75代天皇に即位する
・1129年(大治4年) 関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚する
・1129年(大治4年7月7日) 白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する
・1130年(大治5年) 聖子は中宮に冊立される
・1140年(保延6年) 源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立する
・1140年(保延6年9月2日) 女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産む
・1141年(永治元年12月7日) 鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王を即位(近衛天皇)させる
・1144年(天養元年) 「詞花和歌集」の編纂を下命する
・1151年(仁平元) 「詞花和歌集」が完成奏覧される
・1155年(久寿2年7月23日) 病弱だった近衛天皇が17歳で亡くなる
・1155年(久寿2年) 後白河天皇が即位する 
・1156年(保元元年7月2日) 鳥羽法皇が亡くなる
・1156年(保元元年7月11日) 藤原頼長と組み、保元の乱を起こすが敗れる
・1156年(保元元年7月23日) 讚岐国(現在の香川県)に配流される
・1160年(平治元年12月9日) 平治の乱が起こる
・1164年(長寛2年8月26日) 配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなる

☆保元の乱とは?

 平安時代後期の1156年(保元元)に、京都で起こった内乱です。鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死したのです。この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
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 今日は、平安時代後期の1156年(保元元)に、保元の乱が起きて、平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退した日ですが、新暦では7月29日となります。
 これは、京都で起こった内乱で、鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。
 半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死、為義らは斬られたのです。
 この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
 そして、1159年(平治元)の平治の乱へとつながり、その後の源平合戦を経て、武家政権成立へと向かっていくことになります。

〇源平合戦とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
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