ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:作曲家

kogamasaodouzou01
 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、7月25日に亡くなった作曲家・古賀政男に国民栄誉賞が追贈された日です。
 国民栄誉賞(こくみんえいよしょう)は、内閣総理大臣表彰の一つで、広く各界各層の国民に敬愛される人柄を持ち、かつ広く国民に親しみのある分野で前人未到の業績をあげ、社会に明るい希望と話題を与えた人物〉に対して授与されます。当時の首相・福田赳夫により創設され、1977年(昭和52)8月に定められた「国民栄誉賞表彰規程」に基づいて授与されてきました。
 表彰にあたっては、表彰状および盾が授与され、記念品または金一封を添えることができることとなっています。第1回の受賞者は、プロ野球選手の王貞治で、1977年(昭和52)9月に、756本の本塁打新記録樹立に対し授与されました。
 それ以後、2023年(令和5)までに、計27名と1団体に授与されています。

〇国民栄誉賞受賞者一覧(27名と1団体)

[1]王貞治(昭和52年9月5日)ホームラン新記録達成の功
[2]古賀政男(昭和53年8月4日)「古賀メロディー」作曲による実績
[3]長谷川一夫(昭和59年4月19日)真摯な精進 卓越した演技と映画演劇界への貢献の功
[4]植村直己(昭和59年4月19日)世界五大陸最高峰登頂などの功
[5]山下泰裕(昭和59年10月9日)柔道における真摯な精進 前人未到の記録達成の功
[6]衣笠祥雄(昭和62年6月22日)野球における真摯な精進 前人未到の記録達成の功
[7]加藤和枝(美空ひばり)(平成元年7月6日)真摯な精進 歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた功
[8]秋元貢(横綱千代の富士)(平成元年9月29日)真摯な精進 相撲界への著しい貢献の功
[9]増永丈夫(藤山一郎)(平成4年5月28日)歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与えた功 美しい日本語の普及に貢献
[10]長谷川町子(平成4年7月28日)家庭漫画を通じて戦後の我が国社会に潤いと安らぎを与えた功遺族宅にて伝達
[11]服部良一(平成5年2月26日)数多くの歌謡曲を作り国民に希望と潤いを与えた功
[12]田所康雄(渥美清)(平成8年9月3日)映画「男はつらいよ」シリーズを通じ人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた功
[13]吉田正(平成10年7月7日)「吉田メロディー」の作曲により国民に夢と希望と潤いを与えた功
[14]黒澤明(平成10年10月1日)数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに世界の映画史に輝かしい足跡を残された功
[15]髙橋尚子(平成12年10月30日)2000年シドニーオリンピック女子マラソンで優勝陸上競技で日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功
[16]遠藤実(平成21年1月23日)世代を超えて長く愛唱される名曲を数多く作曲し国民に夢と希望と潤いを与えた功
[17]村上美津(森光子)(平成21年7月1日)舞台「放浪記」において二千回を超える主演を勤めるなど永年にわたり多彩な活躍をし国民に夢と希望と潤いを与えた功
[18]森繁久彌(平成21年12月22日)映画、演劇、放送の各分野において永年にわたり第一線で活躍し数多くの優れた演技と歌唱により国民に夢と希望と潤いを与えた功
[19]FIFA女子ワールドカップドイツ2011日本女子代表チーム(平成23.8.18「なでしこジャパン」の愛称そのままに日本女性の素晴らしさを存分に世界に示し東日本大震災の災禍から立ち上がらんとする被災者とすべての国民に勇気と感動を与えた功
[20]吉田沙保里(平成24年11月7日)世界選手権大会 オリンピック競技大会を通じて世界大会13連覇というレスリング競技史上前人未到の偉業を成し遂げ多くの国民に深い感動と社会に明るい希望 勇気を与えた功
[21]納谷幸喜(平成25年2月25日)大相撲史上最多となる32回の幕内優勝などの輝かしい功績を残し国民的な英雄として社会に明るい夢と希望と勇気を与えた功
[22]長島茂雄(平成25年5月5日)我が国野球史上に残る輝かしい功績と顕著な貢献 国民的スターとして国民に深い感動と社会に明るい夢と希望を与えた功
[23]松井秀喜(平成25年5月5日)野球界に世界的な功績と新たな足跡を残し社会に大きな感動と喜び青少年に明るい夢と希望を与えた功
[24]伊調馨(平成28年10月20日)オリンピック競技大会史上初めて 女子個人種目4連覇という世界的偉業を成し遂げ 多くの国民に深い感動と勇気 社会に明るい希望を与えた功
[25]羽生善治(平成30年2月13日)比類なき功績を重ね続け将棋界初の永世七冠という歴史に刻まれる偉業を達成し多くの国民に夢と感動を社会に明るい希望と勇気を与えた功
[26]井山裕太(平成30年2月13日)年間グランドスラムを含む囲碁界初の二度の七冠同時制覇という歴史に刻まれる偉業を達成し多くの国民に夢と感動を社会に明るい希望と勇気を与えた功
[27]羽生結弦(平成30年7月2日)冬季オリンピック個人種目 日本人初の連覇 フィギュアスケート男子シングル競技66年ぶりの連覇など世界の歴史に残る快挙を達成し多くの国民に深い感動と勇気を 社会に明るい夢と希望を与えた功
[28]国枝慎吾(令和5年3月17日)車いすテニスの四大大会で史上最多の通算50勝 生涯ゴールデンスラムの達成など前人未到の快挙を成し遂げ 広く国民に夢と感動 社会に明るい希望や勇気を与えた功

☆古賀政男(こが まさお)とは?

 昭和時代に活躍した作曲家です。明治時代後期の1904年(明治37)11月18日に、福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれました。
 1911年(明治44)に田口尋常小学校に入学しましたが、翌年には、母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校します。1923年(大正12)に上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設したものの、翌年夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図りましたが未遂に終わりました。
 1929年(昭和4)に明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演しています。1931年(昭和6)に日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表、1933年(昭和8)には、松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットしたものの、体調を崩し伊東で静養しました。
 1934年(唱和9)にコロムビアレコードからテイチクレコードに移籍しましたが、1938年(昭和13)には、コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行します。翌年にアメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国しました。
 その後は、「誰か故郷を想わざる」、「目ン無い千鳥」、「新妻鏡」、「なつかしの歌声」などがヒット曲となります。太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に、「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表し、空前の大ヒットとなりました。
 1959年(唱和34)に日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定し、1960年(昭和35)には、島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞します。1964年(唱和39)に日本音楽著作権協会会長となり、1965年(昭和40)に美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞、翌年の美空ひばり唄の「悲しい酒」もミリオンセラーとなりました。
 1968年(昭和43)に第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞、1974年(昭和49)には、平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けています。1975年(昭和50)に勲三等瑞宝章を受賞、1977年(昭和52)には、第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞しました。
 古賀メロディーと呼ばれる約4,000曲の作品を作りましたが、1978年(昭和53)7月25日に、東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞しています。尚、1982年(昭和57)に郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」、1997年(平成9)には、東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンしました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(神護景雲4)第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)の命日(新暦8月28日)詳細
1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣が本土決戦に備えて一億総武装を唱え、最高戦争指導会議の設置を決定(翌日発足)する詳細
初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発する詳細
1947年(昭和22)日本の最高裁判所が発足する詳細
1965年(昭和40)憲法・行政法学者・貴族院議員佐々木惣一の命日詳細
1969年(昭和44)TBSテレビドラマ「水戸黄門」の放映が開始される詳細
1992年(平成4)小説家松本清張の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

endouminoru01
 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、作曲家遠藤実が生まれた日です。
 遠藤実(えんどう みのる)は、東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区立花)において生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していました。大平洋戦争下において、1943年(昭和18)に新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開しています。
 戦後に小学校を卒業し、1946年(昭和21)に日東紡績内野工場の工員となりましたが、1948年(昭和23)には、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け芸人となりました。1949年(昭和24)に歌手を志し上京し、様々な職を経て、演歌師(流し)をしながら独学で作曲を学びます。
 1952年(昭和27)に日本マーキュリーより発売された、「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)で、作曲家としてデビューし、1957年(昭和32)の「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒットしました。1958年(昭和33)に日本コロムビアより発売された「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)が大ヒット後、日本コロムビア専属になります。
 さらに、1963年(昭和38)に日本コロムビアより発売された「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、歌:舟木一夫)が大ヒットしたものの、1965年(昭和40)に日本コロムビアとの契約を解除し、太平音響株式会社の設立(社長:中山幸市)に加わり専務取締役となり、1968年(昭和43)に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名しました。1970年(昭和45)にミノルフォン社長を辞任、1972年(昭和47)にミノルフォンは、徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称しています。
 1988年(昭和63)にハワイで心臓のバイパス手術を受けましたが、1989年(平成元)には、日本音楽作家協会を設立、会長に就任しました。1990年(平成2)に紫綬褒章を受章、1994年(平成6)には、「遠藤実歌謡音楽振興財団」を設立し、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に「遠藤実記念館」をオープンしています。
 1995年(平成7)に日本音楽著作権協会会長に就任、2000年(平成12)にモンゴル国立文化芸術大学より日本人初の名誉音楽博士号を得、2002年(平成14)には、勲三等旭日中綬章を受章しました。2003年(平成15)に大衆音楽の分野から初めて文化功労者となり、2007年(平成19)には、日本音楽作家協会名誉会長に就任したものの、2008年(平成20)12月6日に、東京都中央区の病院において、76歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈され、翌年には、国民栄誉賞を受賞しています。

〇遠藤実の代表的な作曲歌

・「お月さん今晩は」歌:藤島桓夫(1957年)
・「からたち日記」歌:島倉千代子(1958年)
・「高校三年生」歌:舟木一夫(1963年)
・「こまっちゃうナ」歌:山本リンダ(1966年)
・「星影のワルツ」歌:千昌夫(1966年)
・「せんせい」歌:森昌子(1972年)
・「北国の春」歌:千昌夫(1977年)
・「夢追い酒」歌:渥美二郎(1978年)

☆遠藤実関係略年表

・1932年(昭和7)7月6日 東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区立花)で生まれる
・1943年(昭和18) 新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開する
・1946年(昭和21) 小学校卒業後、日東紡績内野工場の工員となる
・1948年(昭和23) 山乃家菊丸とコンビを組み、門付け芸人になる
・1949年(昭和24) 歌手を志し上京し、演歌師(流し)をしながら独学で作曲を学ぶ
・1952年(昭和27) 日本マーキュリーより発売された、「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)で、作曲家としてデビューする
・1957年(昭和32) 日本マーキュリーより発売された、「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒットする
・1958年(昭和33) 日本コロムビアより発売された「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)が大ヒットする
・1963年(昭和38) 日本コロムビアより発売された「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、歌:舟木一夫)が大ヒットする
・1965年(昭和40) 日本コロムビアとの契約を解除し、太平音響株式会社の設立(社長:中山幸市)に加わり専務取締役となる
・1966年(昭和41) 自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給される
・1968年(昭和43) 中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する
・1970年(昭和45) ミノルフォン社長を辞任する
・1972年(昭和47) ミノルフォンは、徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称する
・1988年(昭和63) ハワイで心臓のバイパス手術を受ける
・1989年(平成元) 日本音楽作家協会を設立、会長に就任する
・1990年(平成2) 紫綬褒章を受章する
・1994年(平成6) 「遠藤実歌謡音楽振興財団」を設立し、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に「遠藤実記念館」をオープンする
・1995年(平成7) 日本音楽著作権協会会長に就任する
・2000年(平成12) モンゴル国立文化芸術大学より日本人初の名誉音楽博士号を得る
・2002年(平成14) 勲三等旭日中綬章を受章する
・2003年(平成15) 大衆音楽の分野から初めて文化功労者となる
・2007年(平成19) 日本音楽作家協会名誉会長に就任する
・2008年(平成20)12月6日 東京都中央区の病院において、76歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される
・2009年(平成21) 国民栄誉賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)『古事記』の編者太安万侶の命日(新暦8月11日)詳細
1858年(安政5)江戸幕府第13代将軍徳川家定の命日(新暦8月13日)詳細
1894年(明治27)洋画家高橋由一の命日詳細
1900年(明治33)山形有朋内閣で、義和団事件(北清事変)に際し、「北清事変出兵に関する閣議決定」がなされる詳細
1940年(昭和15)「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される詳細
1943年(昭和18)大政翼賛会が唱歌「みたみわれ」を発表し、この歌を中心に国民皆唱運動を展開する詳細
2018年(平成30)免疫学者石坂公成の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kogamasaodouzou01
 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、作曲家古賀政男の生まれた日です。
 古賀政男(こが まさお)は、福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれました。1911年(明治44)に田口尋常小学校に入学しましたが、翌年には、母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校します。
 1923年(大正12)に上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設したものの、翌年夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図りましたが未遂に終わりました。1929年(昭和4)に明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演しています。
 1931年(昭和6)に日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表、1933年(昭和8)には、松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットしたものの、体調を崩し伊東で静養しました。1934年(唱和9)にコロムビアレコードからテイチクレコードに移籍しましたが、1938年(昭和13)には、コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行します。
 翌年にアメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国しました。その後は、「誰か故郷を想わざる」、「目ン無い千鳥」、「新妻鏡」、「なつかしの歌声」などがヒット曲となります。
 太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に、「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表し、空前の大ヒットとなりました。1959年(唱和34)に日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定し、1960年(昭和35)には、島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞します。
 1964年(唱和39)に日本音楽著作権協会会長となり、1965年(昭和40)に美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞、翌年の美空ひばり唄の「悲しい酒」もミリオンセラーとなりました。1968年(昭和43)に第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞、1974年(昭和49)には、平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けています。
 1975年(昭和50)に勲三等瑞宝章を受賞、1977年(昭和52)には、第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞しました。古賀メロディーと呼ばれる約4,000曲の作品を作りましたが、1978年(昭和53)7月25日に、東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞しています。
 尚、1982年(昭和57)に郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」、1997年(平成9)には、東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンしました。

〇古賀政男の主要な作曲歌

・「影を慕いて」(1930年)
・「日本橋から」(1930年)
・「酒は涙か溜息か」(1931年)
・「丘を越えて」(1931年)
・「サーカスの唄」(1933年)
・「緑の地平線」(1935年)
・「二人は若い」(1935年)
・「東京ラプソディ」(1936年)
・「あゝそれなのに」(1936年)
・「青い背広で」(1937年)
・「人生の並木路」(1937年)
・「誰か故郷を想わざる」(1940年)
・「目ン無い千鳥」(1940年)
・「新妻鏡」(1940年)
・「なつかしの歌声」(1940年)
・「悲しき竹笛」(1946年)
・「三百六十五夜」(1948年)
・「湯の町エレジー」(1948年)
・「トンコ節」(1949年)
・「無法松の一生」(1958年)
・「白い小指の歌」(1960年)第2回日本レコード大賞作曲賞受賞
・「東京五輪音頭」(1963年)
・「柔」(1965年)第7回日本レコード大賞受賞
・「悲しい酒」(1966年)

☆古賀政男関係略年表

・1904年(明治37)11月18日 福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれる
・1911年(明治44) 田口尋常小学校に入学する
・1912年(大正元) 母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校する
・1923年(大正12) 上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設する
・1928年(昭和3) 夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる
・1929年(昭和4) 明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演する
・1931年(昭和6) 日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表する
・1933年(昭和8) 松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットするが、体調を崩し伊東で静養する
・1934年(唱和9) コロムビアレコードからテイチクレコードに移籍する
・1938年(昭和13) コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行する
・1939年(昭和14) アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国する
・1948年(昭和23) 「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表、空前の大ヒットとなる
・1959年(唱和34) 日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定する
・1960年(昭和35) 島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞する
・1964年(唱和39) 日本音楽著作権協会会長となる
・1965年(昭和40) 美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞する
・1966年(昭和41) 美空ひばり唄の「悲しい酒」がミリオンセラーとなる
・1968年(昭和43) 第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞する
・1974年(昭和49) 平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受ける
・1975年(昭和50) 勲三等瑞宝章を受賞する
・1977年(昭和52) 第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞する
・1978年(昭和53)7月25日 東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞する
・1982年(昭和57) 郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」が開館する
・1997年(平成9) 東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1937年(昭和12)「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行される詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
2001年(平成13)JR東日本の東京近郊区間で、ICカード式自動出改札システム「Suica」の使用が開始される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kosekiyuuji01
 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、作曲家古関裕而の生まれた日です。
 古関裕而(こせき ゆうじ)は、福島県福島市大町において、呉服屋「喜多三(きたさん)」を営む父・古関三郎次と母・ヒサの長男として生まれましたが、本名は勇治(ゆうじ)と言いました。幼い頃よりレコードに親しみ、福島県師範附属小学校(現在の福島大学附属小学校)在学中から卓上ピアノで作曲を始めます。
 1922年(大正11)に福島商業学校へ入学、この頃「喜多三」は廃業しましたが、妹尾楽譜により本格的な作曲・編曲を始め、1926年(大正15)に福島ハーモニカ・ソサエティーに入り、1927年(昭和2)には、ペンネームを「裕而」とつけました。1928年(昭和3)に福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務、福島ハーモニカ・ソサエティーとともに、仙台中央放送局記念番組に出演します。
 1929年(昭和4)に舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選しました。1930年(昭和5)に内山金子と結婚、「福商青春歌」を作曲、山田耕筰の勧めでコロムビア専属作曲家として上京、翌年には、早大応援歌「紺碧の空」を作曲、第一回レコード「福島行進曲」 「福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」が発売されます。
 1935年(昭和10)に「船頭可愛や」が初のヒット曲となり、1936年(昭和11)には、「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲しました。1937年(昭和12)に「露営の歌」を作曲、放送劇「当世五人男」初のドラマ曲を作曲、菊田一夫と出会います。
 1938年(昭和13)に中支へ従軍、1940年(昭和15)に「暁に祈る」を作曲、1942年(昭和17)に南方慰問団派遣員となり、1945年(昭和20)には、約1ケ月軍隊生活を送りました。敗戦後、NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で、菊田一夫とコンビを組み、1947年(昭和22)には、NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の放送が開始(1950年まで)され、主題歌「とんがり帽子」を作曲します。
 1948年(昭和23)に全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を作曲、1949年(昭和24)には、長崎の原爆投下に対する鎮魂歌「長崎の鐘」を作曲しました。1952年(昭和27)に大ヒットしたNHK連続ラジオドラマ「君の名は」の放送が開始(1954年まで)され、主題歌を作曲、1953年(昭和28)には、第4回NHK放送文化賞を受賞します。
 1956年(昭和31)に「忘却の花びら」がNHK連続ラジオドラマの最後となり、この後は菊田一夫とともに舞台活動へと転進しました。1964年(昭和39)に東京五輪用の行進曲「オリンピックマーチ」を作曲、1969年(昭和44)に紫綬褒章を受章、1972年(昭和47)には、札幌冬季五輪において「純白の大地」を作曲します。
 1973年(昭和48)に朋友の菊田一夫氏が亡くなり、芸術座公演「道頓堀」が名コンビの遺作となり、1979年(昭和54)には、福島市名誉市民となり、勲三等瑞宝章を受章、第31回レコード大賞特別賞を受賞しました。1980年(昭和55)に日劇にて作曲生活50周年記念ショーがあり、自伝「鐘よ 鳴り響け」を主婦の友社より刊行、妻金子が亡くなり、1986年(昭和61)には、30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を健康上の理由で降り、作曲生活から引退します。
 1987年(昭和62)に「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞を受賞しました。1988年(昭和63)に画集「風景の調べ」を自費出版、福島市古関裕而記念館が開館しましたが、1989年(平成元)8月18日に、神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学病院において、80歳で亡くなっています。

〇古関裕而の主要な作曲作品

・早大応援歌「紺碧の空」(1931年)
・「船頭可愛や」(1935年)
・「大阪タイガースの歌(通称:六甲おろし)」(1936年)
・「愛国の花」(1938年)
・「暁に祈る」(1940年)
・「若鷲(予科練)の歌」(1943年)
・鐘の鳴る丘主題歌「とんがり帽子」(1947年)
・全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」(1948年)
・「長崎の鐘」(1949年)
・「イヨマンテの夜」(1949年)
・ドラマ主題歌「君の名は」(1952年)
・「高原列車は行く」(1954年)
・東京五輪用の行進曲「オリンピックマーチ」(1964年)
・札幌冬季五輪用「純白の大地」(1972年)

☆古関裕而関係略年表

・1909年(明治42)8月11日 福島県福島市大町において、呉服屋「喜多三(きたさん)」を営む父・古関三郎次と母・ヒサの長男として生まれる
・1914年(大正3) このころ父親が蓄音機を購入、レコードを聴く
・1916年(大正5) 福島県師範附属小学校(現在の福島大学附属小学校)へ入学する
・1918年(大正7) 小学3年から6年まで担任遠藤喜美治先生に唱歌とつづり方を習う
・1919年(大正8) 卓上ピアノで作曲を始める
・1922年(大正11) 福島商業学校へ入学、この頃「喜多三」廃業、妹尾楽譜により本格的な作曲・編曲を始める
・1926年(大正15) 福島ハーモニカ・ソサエティーに入る
・1927年(昭和2) ペンネームを「裕而」とつける
・1928年(昭和3) 福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務、福島ハーモニカ・ソサエティーとともに、仙台中央放送局記念番組に出演する
・1929年(昭和4) 舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選する
・1930年(昭和5) 内山金子と結婚、「福商青春歌」を作曲、山田耕筰の勧めでコロムビア専属作曲家として上京する
・1931年(昭和6) 早大応援歌「紺碧の空」を作曲、第一回レコード「福島行進曲」 「福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」が発売される
・1935年(昭和10) 「船頭可愛や」が初のヒット曲となる
・1936年(昭和11) 「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲する
・1937年(昭和12) 「露営の歌」を作曲、放送劇「当世五人男」初のドラマ曲を作曲、菊田一夫と出会う
・1938年(昭和13) 中支へ従軍する
・1940年(昭和15) 「暁に祈る」を作曲する
・1942年(昭和17) 南方慰問団派遣員となる
・1945年(昭和20) 約1ケ月軍隊生活を送る、NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で、終戦後初めて菊田一夫とコンビを組む
・1947年(昭和22) NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の放送が開始(1950年まで)され、主題歌「とんがり帽子」を作曲する
・1948年(昭和23) 全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を作曲する
・1949年(昭和24) 「長崎の鐘」を作曲する
・1952年(昭和27) NHK連続ラジオドラマ「君の名は」の放送が開始(1954年まで)され、主題歌を作曲する
・1953年(昭和28) 第4回NHK放送文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 「忘却の花びら」がNHK連続ラジオドラマの最後となり、この後は菊田一夫とともに舞台活動へと転進する
・1964年(昭和39) 東京五輪用の行進曲「オリンピック・マーチ」を作曲する
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1972年(昭和47) 札幌冬季五輪において「純白の大地」を作曲する
・1973年(昭和48) 朋友の菊田一夫氏が亡くなり、芸術座公演「道頓堀」が名コンビの遺作となる、「暁に祈る」歌碑が信夫山第1展望台に建立される
・1979年(昭和54) 福島市名誉市民となり、勲三等瑞宝章を受章、第31回レコード大賞特別賞を受賞する
・1980年(昭和55) 日劇にて作曲生活50周年記念ショー、自伝「鐘よ 鳴り響け」を主婦の友社より刊行、妻金子が亡くなる
・1986年(昭和61) 30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を健康上の理由で降り、作曲生活から引退する
・1987年(昭和62) 「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞を受賞する
・1988年(昭和63) 画集「風景の調べ」を自費出版、福島市古関裕而記念館が開館する
・1989年(平成元)8月18日 神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学病院において、80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

祝日祝日「山の日」です詳細
1338年(延元3)足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府が名実共に整う(新暦9月24日)詳細
1892年(明治25)小説家吉川英治の誕生日詳細
1897年(明治30)洋画家小山敬三の誕生日詳細
1983年(昭和58)映画監督山本薩夫の命日詳細
1985年(昭和60)陶芸家荒川豊蔵の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

hamaguchikuranosuke01
 今日は、大正時代の1917年(大正6)に、作曲家・作詞家浜口庫之助の生まれた日です。
 浜口庫之助(はまぐち くらのすけ)は、兵庫県神戸市において、建設会社を経営する実業家の家に生まれましたが、幼い頃から音楽に親しみ、小学校2年生の時に一家で東京へ引っ越しました。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、1935年(昭和10)に早稲田大学高等予科(現在の早稲田大学高等学院)に入学したものの、翌年に中退し、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動します。
 1939年(昭和14)に青山学院高等商学部(現在の青山学院大学経営学部)に入学、1942年(昭和17)には、戦時下で繰り上げ卒業し、ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任しました。戦後、1946年(昭和21)にインドネシアから帰国、友人とハワイアンバンドを組んで、進駐軍めぐりを行います。
 1953年(昭和28)に「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦に出場(3年連続)したものの、1957年(昭和32)には、バンドを解散して作詩・作曲家としての活動を開始しました。1958年(昭和33)にコロムビア専属作曲家となり、1959年(昭和34)にスリーキャッツの「黄色いさくらんぼ」の作曲や守屋浩「僕は泣いちっち」を作詞・作曲して大ヒットさせます。
 1965年(昭和40)に和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」を作詞・作曲して大ヒットさせ、翌年には、「恍惚のブルース」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。その後、1967年(昭和42)に石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」、1968年(昭和43)に島倉千代子の「愛のさざなみ」、1971年(昭和46)ににしきのあきらの「空に太陽がある限り」、1972年(昭和47)には、石原裕次郎の「恋の町札幌」を作詞・作曲してヒットさせます。
 1973年(昭和48)に女優の渚まゆみと再婚、1985年(昭和60)にのどの腫瘍で療養後復帰し、1987年(昭和62)には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットしました。1989年(平成元)にテレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当、生涯で四千曲余を作曲しましたが、1990年(平成2)12月2日に、東京都豊島区の病院において、喉頭癌のため73歳で亡くなっています。

〇浜口庫之助の主要な作詞・作曲作品

<作詞・作曲>
・「僕は泣いちっち」(1959年)
・「涙くんさよなら」(1965年)
・「愛して愛して愛しちゃったのよ」(1965年)
・「恍惚のブルース」(1966年)
・「星のフラメンコ」(1966年)
・「夕陽が泣いている」(1966年)
・「バラが咲いた」(1966年)
・「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)
・「愛のさざなみ」(1968年)
・「空に太陽がある限り」(1971年)
・「恋の町札幌」(1972年)

<作詞>
・「有難や節」(1960年)

<作曲>
・「黄色いさくらんぼ」(1959年)
・「人生いろいろ」(1987年)

☆浜口庫之助関係略年表

・1917年(大正6)7月22日 兵庫県神戸市において、建設会社を経営する実業家の家に生まれる
・1935年(昭和10) 早稲田大学高等予科(現在の早稲田大学高等学院)に入学する
・1936年(昭和11) 早稲田大学高等予科を中退、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動する
・1939年(昭和14) 青山学院高等商学部(現在の青山学院大学経営学部)に入学する
・1942年(昭和17) 青山学院高等商学部を繰り上げ卒業し、ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任する
・1946年(昭和21) インドネシアから帰国、友人とハワイアンバンドを組んで、進駐軍めぐりを行う
・1953年(昭和28) 「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦に出場(3年連続)する
・1957年(昭和32) バンドを解散して作詩・作曲家としての活動を開始する
・1958年(昭和33) コロムビア専属作曲家となる
・1959年(昭和34) スリーキャッツの「黄色いさくらんぼ」の作曲や守屋浩「僕は泣いちっち」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1960年(昭和35) 「有難や節」を作詞しヒットさせる
・1963年(昭和38) 妻の邦子と死別する
・1965年(昭和40) 和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1966年(昭和41) 「恍惚のブルース」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞作曲賞を受賞する
・1967年(昭和42) 石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1968年(昭和43) 島倉千代子の「愛のさざなみ」を作詞・作曲してヒットさせる
・1971年(昭和46) にしきのあきらの「空に太陽がある限り」を作詞・作曲してヒットさせる
・1972年(昭和47) 石原裕次郎の「恋の町札幌」を作詞・作曲してヒットさせる
・1973年(昭和48) 女優の渚まゆみと再婚する
・1985年(昭和60) のどの腫瘍で療養後復帰する
・1987年(昭和62) 島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットする
・1989年(平成元) テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当する
・1990年(平成2)12月2日 東京都豊島区の病院において、喉頭癌のため73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1549年(天文18)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する(新暦8月15日)詳細
1878年(明治11)「郡区町村編成法」、「府県会規則」、「地方税規則」(地方三新法)が制定される詳細
1922年(大正11)応用化学者・企業家高峰讓吉の命日詳細
1924年(大正13)「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1953年(昭和28)「離島振興法」が公布・施行される詳細
1974年(昭和49)国営公園の最初の一つとして、国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町・熊谷市)が開園する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ