ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:伊達政宗

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 今日は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に、仙台藩主伊達政宗の使節(慶長遣欧使節)支倉常長らが、牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆した日ですが、新暦では10月28日となります。
 慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に、仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節のことです。
 使節団は、サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、メキシコ経由で、1年弱かかってヨーロッパに到着し、スペイン国王やローマ法王に謁見しました。その後、帰途につき、支倉常長は1620年(元和6年8月24日)に日本へ帰国しています。
 この時、スペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証などの品々は、「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定され、「仙台市博物館」で展示されています。また、一行が航海に使ったサン・ファン・バウティスタ号が復元され、石巻市渡波の「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)」で見ることができ、大航海の様子を、展示や映像で学ぶこともできます。

〇慶長遣欧使節関係略年表(日付は新暦です)

<1613年(慶長18)>
・10月28日 サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かう

<1614年(慶長19)>
・1月28日 出航から3か月後にアカプルコへ入港する
・3月4日 使節団の先遣隊がメキシコシティに入ったが、先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし、常長ら10人を除き武器を取り上げられる
・3月24日 常長らがメキシコシティ入いる
・5月8日 メキシコシティを出発する
・6月10日 使節団はスペイン艦隊のサン・ホセ号でヌエバ・エスパーニャ大西洋岸ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアを出港する
・7月23日 キューバのハバナに到着する
・8月7日 ハバナを出港する
・10月5日 スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着、セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入いる
・10月27日 常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べる
・11月25日 使節団はセビリアを出発する
・12月20日 使節団はスペインの首都マドリードに入いる

<1615年(元和元)>
・1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見する
・2月17日 常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受ける
・8月22日 使節団はマドリードを出発する
・10月25日 使節団がローマに到着する
・10月29日 使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を行なう
・11月3日 常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に謁見する
・11月20日 常長らにローマ市民権証書が授与される

<1616年(元和2)>
・1月7日 使節団はローマを出発し再びスペインのセビリアへ行く

<1617年(元和3)>
・7月4日 使節団はセビリアを出発しヌエバ・エスパーニャまで戻る

<1618年(元和4)>
・4月2日、迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港する
・8月10日 フィリピンのマニラに到着する

<1620年(元和6)>
・9月20日(旧暦8月24日) サン・フアン・バウティスタ号をマニラで売却し、常長は便船で日本へ帰国する

<1622年(元和8)>
・8月7日(旧暦7月1日) 支倉常長が亡くなる
・9月18日 ソテロは、マニラから密入国しようとしたが捕らえられる

<1624年(寛永元)>
・8月25日(旧暦7月12日) ソテロが大村で火刑により殉教する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国際デーの一つ、「国際民主主義デー」です詳細
1305年(嘉元3)第90代の天皇とされる亀山天皇の命日(新暦では10月4日)詳細
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利する(新暦10月21日)詳細
1932年(昭和7)「日満議定書」が調印される詳細
1945年(昭和20)文部省が「新日本建設ノ教育方針」を公表する詳細
1961年(昭和36)被差別部落問題をテーマとした、住井すゑ著の長編小説『橋のない川』第一部が刊行される詳細
1964年(昭和39)八郎潟干拓の干拓式が行われる詳細
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 今日は、江戸時代前期の1620年(元和6)に、伊達政宗の使節(慶長遣欧使節)としてスペインに赴いた支倉常長が、7年ぶりに帰国した日ですが、新暦では9月20日となります。
 慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節のことです。
 使節団は、サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、メキシコ経由で、1年弱かかってヨーロッパに到着し、スペイン国王やローマ法王に謁見しました。その後、帰途につき、支倉常長は1620年(元和6年8月24日)に日本へ帰国しています。
 この時、スペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証などの品々は、「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定され、「仙台市博物館」で展示されています。また、一行が航海に使ったサン・ファン・バウティスタ号が復元され、石巻市渡波の「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)」で見ることができ、大航海の様子を、展示や映像で学ぶこともできます。

〇慶長遣欧使節関係略年表(日付は新暦です)

<1613年(慶長18)>
・10月28日 サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かう

<1614年(慶長19)>
・1月28日 出航から3か月後にアカプルコへ入港する
・3月4日 使節団の先遣隊がメキシコシティに入ったが、先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし、常長ら10人を除き武器を取り上げられる
・3月24日 常長らがメキシコシティ入いる
・5月8日 メキシコシティを出発する
・6月10日 使節団はスペイン艦隊のサン・ホセ号でヌエバ・エスパーニャ大西洋岸ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアを出港する
・7月23日 キューバのハバナに到着する
・8月7日 ハバナを出港する
・10月5日 スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着、セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入いる
・10月27日 常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べる
・11月25日 使節団はセビリアを出発する
・12月20日 使節団はスペインの首都マドリードに入いる

<1615年(元和元)>
・1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見する
・2月17日 常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受ける
・8月22日 使節団はマドリードを出発する
・10月25日 使節団がローマに到着する
・10月29日 使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を行なう
・11月3日 常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に謁見する
・11月20日 常長らにローマ市民権証書が授与される

<1616年(元和2)>
・1月7日 使節団はローマを出発し再びスペインのセビリアへ行く

<1617年(元和3)>
・7月4日 使節団はセビリアを出発しヌエバ・エスパーニャまで戻る

<1618年(元和4)>
・4月2日、迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港する
・8月10日 フィリピンのマニラに到着する

<1620年(元和6)>
・9月20日(旧暦8月24日) サン・フアン・バウティスタ号をマニラで売却し、常長は便船で日本へ帰国する

<1622年(元和8)>
・8月7日(旧暦7月1日) 支倉常長が亡くなる
・9月18日 ソテロは、マニラから密入国しようとしたが捕らえられる

<1624年(寛永元)>
・8月25日(旧暦7月12日) ソテロが大村で火刑により殉教する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1776年(安永5)国学者平田篤胤の誕生日(新暦10月6日)詳細
1885年(明治18)歌人若山牧水の誕生日詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員運動遂行のため、第一次近衛内閣により「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和22)国鉄八高線多摩川鉄橋において八高線列車正面衝突事故が起き、死者105人、負傷者約150人を出す詳細
1956年(昭和31)映画監督溝口健二の命日詳細
1962年(昭和37)三宅島(東京都三宅村)の雄山が22年ぶりに大噴火(三宅島1962年噴火)する詳細
2005年(平成17)つくばエクスプレス(TX)が、秋葉原駅~つくば駅間で開業する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 伊達政宗は、安土桃山時代の1567年(永禄10年8月3日)に、出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子(母・最上義守の娘義姫)として生まれましたが、幼名を梵天丸といいました。
 幼少の頃に、右眼を失明し、後に「独眼竜」とも称されるようになります。1577年(天正5)に元服し藤次郎政宗と称し、1581年(天正9)には、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾りました。
 1584年(天正12)には家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となり、翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげてからは、積極的に領土拡張に乗り出します。
 1588年(天正16)に佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦し、翌年には、磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇しました。その後も領土を拡張し、須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、陸奥国、出羽国に及ぶ広大な地を勢力下に置きます。
 しかし、1590年(天正18)に小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収され、黒川城(会津若松)から米沢城に移りました。さらに、翌年には米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられます。
 1593年(文禄2)に文禄の役で朝鮮へ出兵しますが、豊臣秀吉死没後の1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦いました。
 1603年(慶長8)に居城を仙台に移し、仙台藩62万石の基礎を築き、1613年(慶長18)には慶長遣欧使節をローマに派遣します。1614年・1615年(慶長19・20)の大坂の陣にも徳川方として参戦して、徳川秀忠、家光の信任を得ました。
 和歌、茶道、能楽に長じ能書家としても知られ、桃山文化を仙台に移したりしましたが、1636年(寛永13年5月24日)に、江戸桜田邸において、68歳で死去します。

〇伊達政宗関係略年表(日付は旧暦です)

・1567年(永禄10年8月3日) 出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子として生まれる
・1577年(天正5) 元服し藤次郎政宗と称する
・1579年(天正7) 三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)と結婚する
・1581年(天正9) 隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る
・1584年(天正12) 家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となる
・1585年(天正13) 父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげる
・1586年(天正14) 安達郡を入手する
・1588年(天正16) 佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦する
・1589年(天正17) 磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇する
・1590年(天正18) 小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収される
・1591年(天正19) 米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられる
・1593年(文禄2) 文禄の役で朝鮮へ出兵する
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦う
・1603年(慶長8) 居城を仙台に移す
・1607年(慶長12) 塩竈(しおがま)神社、大崎八幡宮(はちまんぐう)、国分寺薬師堂を造営する
・1609年(慶長14) 松島瑞巌寺(ずいがんじ)を造営する
・1613年(慶長18) 慶長遣欧使節をローマに派遣する
・1614年(慶長19) 大坂冬の陣に徳川方として参戦する
・1615年(慶長20) 大坂夏の陣に徳川方として参戦する
・1620年(元和6) 慶長遣欧使節が帰国する
・1626年(寛永3) 北上川の石巻流出などの土木工事を完成させる
・1636年(寛永13年5月24日) 江戸桜田邸において、68歳で死去する
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