ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:仮名手本忠臣蔵

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 今日は、江戸時代中期の1748年(寛延元)に、大坂・竹本座で、二代目竹田出雲・並木宗輔(千柳)・三好松洛合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演された日ですが、新暦では9月6日となります。
 『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)は、江戸時代中期の1748年年(寛延元年8月)に、大坂・竹本座で初演された、浄瑠璃の時代物(全11段で構成)で、二代目竹田出雲・並木宗輔(千柳)・三好松洛の合作で、通称「忠臣蔵」と呼ばれています。赤穂義士のあだ討ちに取材したものですが、人物や時代背景を南北朝時代に仮託した内容としていて、初演後間もなく歌舞伎に移され、人気狂言となりました。
 筋の展開や人物設定にすぐれ、各段ごとに見せ場があり、上演回数最高の記録を持つ浄瑠璃、歌舞伎の代表的作品です。『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』と共に、時代物の三大傑作とされてきました。

〇『仮名手本忠臣蔵』冒頭部分

大序
 地中嘉肴(かかう)有りといへども食せざれば其味(そのあぢ)はひを知らずとは。国治(おさま)つてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例(ためし)を爰(ここ)に仮名書のヲロシ太平の代の。政。
 地色中比(ころ)は暦応元年二月下旬。足利将軍尊氏公新田義貞を討亡(うちほろぼ)し。京都に御所を構へ徳風四方に普(あまね)く。万民草の如くにて、フシ靡(なび)き。従ふ御威勢。
 地色中国に羽(は)をのす靍つるが岡八幡宮御造営成就し。御代参として御舎弟足利左兵衛督(さひやうへのかみ)直義公。鎌倉に下着なりければ。在鎌倉の執事高武蔵守師直(もろなを)。御膝元に人を見下す権柄眼(けんぺいまなこ)。御馳走の役人は。桃井播磨守が弟若狭助安近。伯刕(はくしう)の城主塩冶判官高定。馬場先に幕打廻し フシ威儀を正して相詰(あひつ)むる。

(以下略)

☆並木 宗輔(千柳)】(なみき そうすけ)とは?

 江戸時代の浄瑠璃作者です。江戸時代中期の1695年(元禄8)に大坂で生れたともいわれますがはっきりしません。
 備後三原(現在の広島県三原市)の臨済宗成就寺の断継慧水という僧でしたが、30歳頃に還俗して大坂の豊竹座の浄瑠璃作者となり、並木宗助(のちに宗輔)と称します。1176年(享保11)に、西沢一風らと合作の『北条時頼記』で評判となり、以来立作者となって活躍しました。
 『苅萱桑門筑紫』(1735年)、『和田合戦女舞鶴』(1736年)などを合作または単独で発表、豊竹座を隆盛に導きます。1742年(寛保2)に、歌舞伎作者に転向し,『大門口鎧襲』(1742年)では大当りをとりました。
 1745年(延享2)には、浄瑠璃界へ復帰し、竹本座へ入座して千柳と改名し、『菅原伝授手習鑑』(1746年)、『義経千本桜』(1747年)、『仮名手本忠臣蔵』(1748年)などを2世竹田出雲・三好松洛らとの合作で発表、浄瑠璃全盛期の最高傑作を送り出します。1750年(寛延3)に再び豊竹座に復帰し、並木宗輔の名に復して、翌年9月7日に『一谷嫩軍記』を執筆中、病により大坂において、数え年57歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)藤原良房らが『続日本後紀』20巻を撰上する(新暦9月23日)詳細
949年(天暦3)公卿藤原忠平の命日(新暦9月9日)詳細
1511年(永生8)室町幕府第11代将軍足利義澄の命日(新暦9月6日)詳細
1656年(明暦2)彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の誕生日(新暦10月1日)詳細
1885年(明治18)「専売特許条例」に基づいて、日本初の専売特許7件がが交付される(専売特許の日)詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第15回御前会議において、無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、太平洋戦争に敗れる詳細
1950年(昭和25)文部省が9月新学期より8大都市小学校で、ガリオア資金によるパン完全給食を実施と発表する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1751年(寛延4)に、浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の亡くなった日ですが、新暦では10月25日となります。
 並木宗輔(なみき そうすけ)は、1695年(元禄8)に大坂で生れたともいわれますがはっきりしません。備後三原(現在の広島県三原市)の臨済宗成就寺の断継慧水という僧でしたが、30歳頃に還俗して大坂の豊竹座の浄瑠璃作者となり、並木宗助(のちに宗輔)と称します。
 1176年(享保11)に、西沢一風らと合作の『北条時頼記』で評判となり、以来立作者となって活躍しました。『苅萱桑門筑紫』(1735年)、『和田合戦女舞鶴』(1736年)などを合作または単独で発表、豊竹座を隆盛に導きます。
 1742年(寛保2)に、歌舞伎作者に転向し,『大門口鎧襲』(1742年)では大当りをとりました。1745年(延享2)には、浄瑠璃界へ復帰し、竹本座へ入座して千柳と改名し、『菅原伝授手習鑑』(1746年)、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』(1747年)、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(1748年)などを2世竹田出雲・三好松洛との合作で発表、浄瑠璃全盛期の最高傑作を送り出します。
 1750年(寛延3)に再び豊竹座に復帰し、並木宗輔の名に復して、翌年9月7日に『一谷嫩軍記』を執筆中、病により大坂において、数え年57歳で亡くなりました。

〇並木宗輔の主要な作品

・『北条時頼記(じらいき)』(1726年)西沢一風らと合作
・『苅萱桑門筑紫(かるかやどうしんつくしのいえづと)』(1735年)並木丈輔との合作
・『南蛮鉄後藤目貫』(1735年)
・『和田合戦女舞鶴』(1736年)
・『安倍宗任松浦衣簦』(1737年)
・『釜淵双級巴』(1737年)
・『丹生山田青海剣』(1738年)
・『奥州秀衡鬠壻』(1739年)
・『狭夜衣鴛鴦剣翅』 (1739年)
・『鶊山姫捨松』(1740年)
・『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』(1742年)
・『夏祭浪花鑑(なにわかがみ)』(1745年)三好松洛・竹田小出雲との合作
・『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』(1746年)竹田出雲・三好松洛らとの合作
・『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』(1747年)竹田出雲・三好松洛らとの合作
・『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(1748年)2世竹田出雲・三好松洛との合作
・『双蝶々曲輪(ふたつちょうちょうくるわ)日記』(1749年)竹田出雲・三好松洛との合作
・『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』(1751年)浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三らとの合作

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