ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:今井正

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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、今井正監督・脚本の映画『ひめゆりの塔』が封切られた日です。
 映画『ひめゆりの塔』(ひめゆりのとう)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)1月9日に封切られた、今井正監督・脚本で、東映製作・配給のモノクロ映画(スタンダード・130分)です。太平洋戦争末期の沖縄戦で看護婦として前線に立ったひめゆり学徒隊(沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成)の悲劇を描いた戦争映画で、沖縄戦の実態を初めて描いた映画として、国民的共感を呼び、配給収入1億8000万円という大ヒットを記録しました。
  清水元、信欣三、河野秋武、岡田英次、津島恵子、香川京子ほかが出演し、第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位となり、第4回ブルーリボン賞監督賞を受賞しています。尚、1982年(昭和57)には、同脚本・同監督により、栗原小巻、古手川祐子、大場久美子、斉藤とも子、蜷川有紀、田中好子ほか出演により、リメイク版が公開されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?
 
 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

☆今井正監督作品一覧

・『沼津兵学校』(1939年)
・『われ等が教官』(1939年)
・『多甚古村』(1940年)
・『女の街』(1940年)
・『閣下』(1940年)
・『結婚の生態』(1941年)
・『望楼の決死隊』(1943年)
・『怒りの海』(1944年)
・『愛の誓ひ』(1945年)
・『民衆の敵』(1946年)毎日映画コンクール監督賞
・『人生とんぼ返り』(1946年)
・『地下街二十四時間』(1947年)
・『青い山脈』(1949年)
・『続 青い山脈』(1949年)
・『女の顔』(1949)
・『また逢う日まで』(1950年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『どっこい生きてる』(1951年)
・『山びこ学校』(1952年)
・『ひめゆりの塔』(1953年)第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位、ブルーリボン賞監督賞
・『にごりえ』(1953年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『愛すればこそ~第二話「とびこんだ花嫁」』[吉村公三郎、山本薩夫とのオムニバス](1955年)
・『ここに泉あり』(1955年)
・『由紀子』(1955年)
・『真昼の暗黒』(1956年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『米』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『純愛物語』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)
・『夜の鼓』(1958年)
・『キクとイサム』(1959年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『白い崖』(1960年)
・『あれが港の灯だ』(1961年)
・『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』(1962年)
・『武士道残酷物語』(1963年)ベルリン国際映画祭グランプリ
・『越後つついし親不知』(1964年)
・『仇討』(1964年)
・『砂糖菓子が壊れるとき』(1967年)
・『不信のとき』(1968年)
・『橋のない川 第一部』(1969年)第6回モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟賞
・『橋のない川 第二部』(1970年)
・『天皇の世紀~第4話「地熱」・第5話「大獄」』(1971年)
・『婉(えん)という女』(1971年)
・『あゝ声なき友』(1972年)
・『海軍特別年少兵』(1972年)
・『小林多喜二』(1974年)
・『あにいもうと』(1976年)
・『妖婆』(1976年)
・『子育てごっこ』(1979年)
・『ゆき(1981年)
・『ひめゆりの塔』(1982年)
・『戦争と青春』(1991年)モントリオール国際映画祭カトリック同盟プロテスタント映画賞、第4回日刊スポーツ映画大賞特別賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1895年(明治28)新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、今井正監督の映画『青い山脈』(原作:石坂洋次郎)が封切られた日です。
 『青い山脈』(あおいさんみゃく)は、昭和時代中期の1947年(昭和22)6~10月に「朝日新聞」に連載され、同年12月に新潮社より刊行された石坂洋次郎著のベストセラー小説です。太平洋戦争後間もない地方の町を舞台に、高校生らの男女交際などを通して解放された青春の姿を明るくユーモラスに描いたものでした。因襲にとらわれた校内の封建的な雰囲気に果敢に取り組む青春像が描かれていて、戦後民主主義の一つの教科書のように受け止められます。
 1949年(昭和24)に、今井正監督・脚色(出演:原節子、龍崎一郎、池部良、杉葉子、若山セツ子、木暮実千代、赤木蘭子ほか)による映画が製作され、作詞:西条八十、作曲:服部良一の主題歌と共に、大ヒットしました。映画は、キネマ旬報ベスト・テン第2位となり、第4回毎日映画コンクール撮影賞、女優演技賞(原節子)、助演賞(木暮実千代)も受賞します。
 その後、1957年(昭和32)に松林宗恵監督(出演、雪村いづみ、司葉子ほか)により、1963年(昭和38)に西河克己監督(出演、吉永小百合、浜田光夫ほか)により、1975年(昭和50)に河崎義祐監督(出演、三浦友和、片平なぎさほか)により三度映画化されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?

 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

〇石坂洋二郎(いしざか ようじろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1900年(明治33)1月25日に、青森県弘前市代官町で生まれました。
 弘前市立朝陽小学校を経て、1913年(大正2)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に入学します。在学中は、小説をよく読み、少年雑誌に投書したりして卒業し、1919年(大正8)に上京して、慶應義塾大学文学部予科に入学しました。
 1925年(大正14)に慶應義塾大学文学部国文科を卒業した後、青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務、翌1926年(昭和元)から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に変わりました。1927年(昭和2)『三田文学』に掲載された処女作「海をみに行く」、「炉辺夜話」で注目されるようになります。
 1929年(昭和4)に秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に移り、1933年(昭和8)から『三田文学』に連載された「若い人」が評判となり、1936年(昭和11)に第1回三田文学賞を受賞しました。翌年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化もされましたが、右翼団体の圧力をうけ、1938年(昭和13)に教員を辞職、上京して作家活動に専念し、『何処(いずこ)へ』(1941年)などを書きます。
 戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣されたりしましたが、太平洋戦争後は、『青い山脈』(1947年)、『石中先生行状記』(1948~54年)などを書いて、ベストセラー作家となりました。その後も、『あじさいの歌』(1958~59年)、『河のほとり』(1961年)、『光る海』(1963年)などの新聞小説を連載し、1966年(昭和41)には、第14回菊池寛賞を受けます。
 独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多く、大衆に愛されて、映画化・テレビドラマ化された作品も多くありましたが、1986年(昭和61)10月7日に、静岡県伊東市の自宅において、86歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1107年(嘉承2)第73代の天皇とされる堀河天皇の命日(新暦8月9日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
1944年(昭和19)文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員が強化される詳細
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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、映画監督今井正が生まれた日です。
 今井正(いまい ただし)は、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。
 1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。
 1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。
 1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。
 1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。
 しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

〇今井正監督作品一覧

・『沼津兵学校』(1939年)
・『われ等が教官』(1939年)
・『多甚古村』(1940年)
・『女の街』(1940年)
・『閣下』(1940年)
・『結婚の生態』(1941年)
・『望楼の決死隊』(1943年)
・『怒りの海』(1944年)
・『愛の誓ひ』(1945年)
・『民衆の敵』(1946年)毎日映画コンクール監督賞
・『人生とんぼ返り』(1946年)
・『地下街二十四時間』(1947年)
・『青い山脈』(1949年)
・『続 青い山脈』(1949年)
・『女の顔』(1949)
・『また逢う日まで』(1950年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『どっこい生きてる』(1951年)
・『山びこ学校』(1952年)
・『ひめゆりの塔』(1953年)
・『にごりえ』(1953年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『愛すればこそ~第二話「とびこんだ花嫁」』[吉村公三郎、山本薩夫とのオムニバス](1955年)
・『ここに泉あり』(1955年)
・『由紀子』(1955年)
・『真昼の暗黒』(1956年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『米』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『純愛物語』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)
・『夜の鼓』(1958年)
・『キクとイサム』(1959年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『白い崖』(1960年)
・『あれが港の灯だ』(1961年)
・『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』(1962年)
・『武士道残酷物語』(1963年)ベルリン国際映画祭グランプリ
・『越後つついし親不知』(1964年)
・『仇討』(1964年)
・『砂糖菓子が壊れるとき』(1967年)
・『不信のとき』(1968年)
・『橋のない川 第一部』(1969年)第6回モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟賞
・『橋のない川 第二部』(1970年)
・『天皇の世紀~第4話「地熱」・第5話「大獄」』(1971年)
・『婉(えん)という女』(1971年)
・『あゝ声なき友』(1972年)
・『海軍特別年少兵』(1972年)
・『小林多喜二』(1974年)
・『あにいもうと』(1976年)
・『妖婆』(1976年)
・『子育てごっこ』(1979年)
・『ゆき(1981年)
・『ひめゆりの塔』(1982年)
・『戦争と青春』(1991年)モントリオール国際映画祭カトリック同盟プロテスタント映画賞、第4回日刊スポーツ映画大賞特別賞

☆今井正関係略年表

・1912年(明治45)1月8日 東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれる
・1924年(大正13) 渋谷町立臨川小学校を経て、旧制芝中学校に入学する
・1929年(昭和4) 中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部美術史科に入学、本富士警察署に検挙される
・1934年(昭和9) 1年間の停学処分を受ける
・1935年(昭和10) 東京帝国大学文学部美学科を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社する
・1939年(昭和14) 東宝の『沼津兵学校』で監督デビューする
・1943年(昭和18) 教育召集のため麻布の歩兵第1連隊に入隊する
・1946年(昭和21) 戦後第1作『民衆の敵』を監督する
・1949年(昭和24) 石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットするが、東宝を退社しフリーとなる
・1950年(昭和25) 『また逢う日まで』を監督、高い評価を得るが、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となる
・1951年(昭和26) 独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督する
・1953年(昭和28) 沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなる
・1957年(昭和32) 『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)をとる
・1963年(昭和38) 『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)をとる
・1967年(昭和42) 渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』で4本を演出する
・1982年(昭和57) 胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言をする
・1986年(昭和61) 白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明する
・1990年(平成2) 第8回日本映画復興賞特別賞を受賞する
・1991年(平成3) 14年ぶりに映画「戦争と青春」を撮る
・1991年(平成3)11月22日 埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなる

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