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 今日は、考古学者相沢忠洋が、1989年(平成元)に亡くなった日です。
 相沢忠洋は、昭和時代に活躍した考古学者で岩宿遺跡の発見により日本の旧石器時代の存在を立証したことで知られています。
 1926年(昭和元)に、東京の羽田て生まれ、正徳小学校夜間部卒業後、軍隊経験を経て、戦後群馬県桐生に復員しました。1945年(昭和20)から、独学で考古学を学びながら、小間物(後に納豆)の行商をしつつ赤城山麓周辺で土器や石器の採取を行っていたのです。
 そして、1948年(昭和23)から翌年にかけて、群馬県新田郡笠懸村(現在のみどり市)岩宿の切り通しの関東ローム層中から、黒曜石で作られた打製石器を発見しました。1949年(昭和24)明治大学考古学研究室と共同で発掘調査し、それが旧石器時代のものと判明したのです。その結果岩宿遺跡が日本で最初の旧石器時代遺跡の発見となりました。
 その功績により、1961年(昭和36)に群馬県から表彰され、1967年(昭和42)には、吉川英治文化賞を受賞することになります。1972年(昭和47)から宇都宮大学で講師を務めるなどし、晩年は、夏井戸遺跡(桐生市)の発掘に尽力しましたが、1989年(平成元)5月22日に62歳で亡くなりました。
 著書に、『「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-』(1969年)、『赤土への執念-岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ-』(1980年)、『赤城山麓の旧石器』(関矢晃との共著:1988年)などがあります。
 尚、岩宿遺跡は、1979年(昭和54)に国の史跡に指定されました。出土品については、近くにある「みどり市岩宿博物館」で見ることができます。また、岩宿遺跡より北方約7kmには、1991年(平成3)開館の「相沢忠洋記念館」があり、相沢氏に関する資料を収蔵していて、見学することが可能です。

☆相沢忠洋著『「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-』から、石器を発見した場面を引用しておきます。

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
 「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
 私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
 それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
 もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」