ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:人類学と考古学

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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画が発見された日です。
 この古墳の発掘調査は、明日香村が資金を出し、1972年(昭和47)3月1日から、奈良県立橿原考古学研究所によって開始されました。その結果、石室が検出され、同年3月21日に、極彩色の壁画が発見されたのです。
 考古学上の大発見として、新聞やテレビ等で大々的に報道され、世間の注目を浴びることとなりました。

〇高松塚古墳とは?

 奈良県高市郡明日香村にある円墳(直径約20m、高さ約5m)で、飛鳥時代の7世紀末~8世紀初頭に造られたと考えられています。
 1972年(昭和47)に発掘され、石槨内部の天井および四周に星宿、日月、四神、侍奉の男女官人像の彩色壁画が発見され、また海獣葡萄鏡、乾漆棺、人骨などが出土して、一躍脚光を浴びました。
 衣服の制や喪葬儀礼、また朝鮮や中国との文化交流を考える上で大変貴重なものなので、1972年(昭和47)に国の史跡に、1973年(昭和48)には特別史跡に指定され、壁画は、1974年(昭和49)に国宝となっています。
 壁画の劣化が進んだので、文化庁は2007年(平成19)に石室を解体し壁画の修理を進め、現在は保存科学的管理のもとに密閉保存されています。
 出土品は「国立飛鳥資科館」で展示されていますし、周辺は、国営飛鳥歴史公園として整備され、古墳の近くに「高松塚壁画館」が造られました。その中には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾り金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカが展示されています。

☆特別史跡に指定されている古墳一覧(8件)

・石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村) 1952年(昭和27)3月29日指定
・キトラ古墳(奈良県高市郡明日香村) 2000年(平成12)11月24日指定
・高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村) 1973年(昭和48)4月23日指定
・巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町) 1952年(昭和27)3月29日指定
・文殊院西古墳(奈良県桜井市) 1952年(昭和27)3月29日指定
・岩橋千塚古墳群(和歌山県和歌山市) 1952年(昭和27)3月29日指定
・王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町) 1952年(昭和27)3月29日指定
・西都原古墳群(宮崎県西都市) 1952年(昭和27)3月29日指定
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 今日は、平成時代の2000年(平成12)に、宮城県上高森遺跡等で発見の前期旧石器が捏造と判明した日で、いわゆる「旧石器捏造事件」の発覚となりました。
 この事件は、翌日の毎日新聞朝刊(11月5日付)のスクープで公表され、考古学会に衝撃を与えた事件です。
 それまで藤村新一(元東北旧石器文化研究所副理事長)がかかわった発掘によって、日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、自作自演による捏造だったとされました。
 日本考古学協会が調査した上、2003年5月の総会で関東から北海道の、約3万5000年以前の前・中期旧石器時代遺跡とされてきた162遺跡に及んでいたと発表したのです。
 これによって、この時代の研究価値が損なわれ、登録遺跡の抹消や教科書の書き直しなどの大きな影響が生じました。

〇「旧石器捏造事件」に関連すると思われる主要な遺跡
・下美蔓西遺跡(北海道上川郡清水町)
・美葉牛遺跡(北海道雨竜郡北竜町)
・天狗鼻遺跡(北海道樺戸郡浦臼町)
・総進不動坂遺跡(北海道樺戸郡新十津川町)
・ひょうたん穴遺跡(岩手県下閉伊郡岩泉町)
・沢崎遺跡(岩手県花巻市)
・上高森遺跡(宮城県栗原市)
・高森遺跡(宮城県栗原市)
・座散乱木遺跡(宮城県大崎市)
・馬場壇A遺跡(宮城県大崎市)
・高山館2遺跡(宮城県大崎市)
・蟹沢彊篝廖糞楙觚大崎市)
・安養寺2遺跡(宮城県大崎市)
・中島山遺跡(宮城県加美郡色麻町)
・大谷地(供飽篝廖糞楙觚加美郡色麻町)
・沢口遺跡(宮城県加美郡色麻町)
・薬莱山No.39・No.40遺跡(宮城県加美郡加美町)
・青葉山E遺跡(宮城県仙台市青葉区)
・袖原3・6遺跡(山形県尾花沢市)
・浦山遺跡(山形県尾花沢市)
・上ミ野A遺跡(山形県新庄市)
・山屋A遺跡(山形県新庄市)
・金沢山新堤2遺跡(山形県新庄市)
・一斗内松葉山遺跡(福島県二本松市)
・原セ笠張遺跡(福島県二本松市)
・下川田入沢遺跡(群馬県沼田市)
・赤見峠遺跡(群馬県吾妻郡高山村)
・中山峠遺跡(群馬県吾妻郡高山村)
・小鹿坂遺跡(埼玉県秩父市)
・長尾根遺跡(埼玉県秩父市)
・長尾根北遺跡(埼玉県秩父市)
・桧木入遺跡(埼玉県秩父市)
・十三仏遺跡(埼玉県秩父市)
・並木下遺跡(埼玉県秩父市)
・音楽堂裏遺跡(埼玉県秩父市)
・中葉山遺跡(埼玉県秩父市)
・寺尾遺跡(埼玉県秩父市)
・万願寺遺跡(埼玉県深谷市)
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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、奈良県生駒郡斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表された日で、「藤ノ木古墳記念日」とも呼ばれていました。
 藤ノ木古墳は、大型円墳(直径約50m、高さ約8m)で、古墳時代後期の6世紀後半に造られたと考えられています。
 1985年(昭和60)の第1次調査によって、盗掘を免れてきた横穴式石室内から、60個体余の土師器・須恵器と金銅製の豪華な馬具などが出土したことで注目されました。
 1987年(昭和62)に橿原考古学研究所が第2次調査を行ない、国内の発掘調査史上初めてファイバースコープによる石棺内の確認調査がされます。
 そして、1988年(昭和63)の第3次調査において開棺調査され、金銅製の冠、沓、筒型製品、帯、6振の大刀、5面の鏡、金の耳飾りなどで装飾された成人男性2体の骨が発見されました。これらの調度品の高度な技術と華麗な意匠は、古墳時代後期の工芸技術の粋を集めたものとして高く評価されたのです。
 1988年(昭和63)に石棺外出土品が国の重要文化財に指定され、1991年(平成3)に石棺内出土品が追加指定を受け、古墳自体も国の史跡に指定されました。さらに、2004年(平成16)に副葬品が一括して国宝に指定されたのです。
 また、古墳から南へ200mのところにガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されていますし、「奈良県立橿原考古学研究所」(奈良県橿原市)では出土品が常設展示されるようになりました。

〇藤ノ木古墳出土品(国宝指定)

<石棺外出土>
・金銅鞍金具 1背
・鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分
・金属製品 一括(馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)
・土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)

<石棺内出土>
・銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)
・金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)
・ガラス製品 一括(ガラス玉類)
・附 繊維類 一括
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 今日は、1984年(昭和59)に、島根県の荒神谷遺跡で多数の銅剣が発見された日です。
 この遺跡は、島根県出雲市斐川町神庭にある弥生時代の青銅器埋納遺跡で、広域農道の建設に伴い発見され、1984年~1985年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、青銅器研究史上空前の大発見として注目を集めました。
 その後、銅剣は1985年(昭和60)、銅鐸・銅矛は1987年(昭和62)に国の重要文化財に指定され、遺跡も同年に国の史跡に指定されたのです。さらに、1998年(平成10)には、一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。
 遺跡一帯は、「荒神谷史跡公園」として整備され、2005年(平成17)には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示、出雲の弥生時代の解説などが行われています。また、出土品は「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されています。

〇荒神谷遺跡発掘状況
<銅剣>
・発掘時の状態
 2段に加工された平坦面の下段に浅く掘りくぼめた長さ2.6m、幅1.5mの埋納壙に南北に4列、いずれも刃を立て密着した状態で西から34本、111本、120本、93本が整然と並べられていました。
・発掘品の特徴
 358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、全長50~53cm前後、重さ500g余と大きさも重さもほぼ同じで、弥生時代中期~後期の製作と考えられています。このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれていました。刃こぼれなどがみられず、形式が単一であることなどから、鋳造後比較的短期間のうちに一括埋納されたものと推定されています。

<銅鐸>
・発掘時の状態
 東西約2m、南北約1.2mに掘りくぼめた埋納壙の西半分に銅鐸が、東半分に銅矛が一括埋納されていました。
・発掘品の特徴
 6個の銅鐸は総高21.7~24cmの小型品で、分類としては、菱環鈕式横帯文銅鐸1個、外縁鈕式四区袈裟襷文銅鐸5個が出土しています。

<銅矛>
・発掘時の状態
 東西約2m、南北約1.2mに掘りくぼめた埋納壙の西半分に銅鐸が、東半分に銅矛が一括埋納されていました。
・発掘品の特徴
 16本の銅矛は全長69.6~84cm(中細形2本、中広形14本)で、北部九州からの搬入品と考えられています。
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 今日は、1975年(昭和50)に、考古学者宮坂英弌(みやさかふさかず)の亡くなった日です。
 宮坂英弌は、昭和時代に活躍した考古学者で、1887年(明治20)3月4日の生まれです。旧制諏訪中学校卒業後、郷里長野県諏訪郡での25年間の小学校教師、10年間の中学校教師を経て、1955年(昭和30)の「尖石考古館」の設立に伴い館長となりました。
 この間、1929年(昭和4)から尖石周辺の遺跡の発掘を独力で行ない、尖石・与助尾根遺跡を発見し、日本における原始集落研究の魁となったのです。
 1962年(昭和37)には、長野県考古学会の初代会長ともなり、著書に「尖石」、「蓼科」、「原始民族遺跡の研究」などがあります。
 そして、1974年(昭和49)には、これらの功績が認められ、吉川英治文化賞を受賞しましたが、1975年(昭和50)6月11日に88歳で亡くなりました。
 尚、「尖石縄文考古館」の展示室Aに宮坂英弌氏の展示があり、その足跡を知ることができます。

〇尖石遺跡とは?
 長野県茅野市にある縄文時代中期の集落遺跡で、標高1,050~1,070mの八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にあって、東西に広がる長い台地状になっているところです。
 地元の考古学者宮坂英弌によって、1929年(昭和4)に石囲炉跡が発掘されて注目され、それからも、宮坂氏の独力により、1940年(昭和15)から本格的な発掘が開始されました。途中、太平洋戦争で中断しましたが、1954年(昭和29)まで続けられたのです。
 その後さらに、対岸にある与助尾根(よすけおね)遺跡の調査によって、中央空間を広場とする典型的集落構成が検出され、日本における縄文時代集落址研究のさきがけとなりました。
 学史的にも重要な遺跡なので、1952年(昭和27)に「尖石石器時代遺跡」として、国の特別史跡に指定され、1993年(平成5)には、与助尾根も追加指定されています。
 現在は、「尖石史跡公園」として整備されていて、その中心施設である「尖石縄文考古館」には、周辺で発掘された縄文土器等も並べられていますが、縄文時代中期の土器は、変化に富んだ造形が施してあり、その創造性の豊かさには驚かされるばかりです。
 その中でも、“縄文のビーナス”、“仮面の女神”と呼ばれている国宝の土偶があって、大きな腰、太い足、しっかりと台地を踏ん張ったような、その姿はすばらしいものでした。
 外には、与助尾根遺跡の復元住居もあり、縄文時代のむらの様子を再現していて、竪穴式住居を巡りながら古代人の生活にも思いを馳せることができます。
 ちなみに、「尖石」の名称は遺跡の南側にある三角錐状の巨石の名前に由来します。
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