ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:人形浄瑠璃

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 今日は、江戸時代中期の享保5年に、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中をモデルに、近松門左衞門が『心中天網島』を脚色し、大坂・竹本座で、人形浄瑠璃として初演された日ですが、新暦では1721年1月3日となります。
 心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の世話物浄瑠璃で3巻から成っています。1720年(享保5年10月14日)に、大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が、恋と義理のために網島大長寺で、夜明けの鐘とともに心中をとげた当時の事件を脚色した世話物でした。
 同年12月6日に、大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演となり、大きく成功し、近松世話物の最高傑作とされています。翌年からは、歌舞伎でも上演され、以後浄瑠璃・歌舞伎ともに影響しあって、近松半二ら合作「心中紙屋治兵衛」やその増補「天網島時雨炬燵(しぐれのこたつ)」などの改作物が生まれ、上演されました。
 その中で、治兵衛の女房おさんの頼みで、小春が泣く泣く縁を切ろうとする「河庄」の場が有名となっています。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。
 父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。
 京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。
 一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きました。1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きます。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなりました。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになります。

<近松門左衛門の主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1912年(大正元) 「朝日新聞」において、夏目漱石著の『行人』が連載開始される 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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 今日は、江戸時代中期の1720年(享保5)に、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春とが心中した日(新暦11月13日)で、近松門左衞門が『心中天網島』として脚色し、同年人形浄瑠璃として初演されました。
 心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の世話物浄瑠璃で3巻から成っています。1720年(享保5年10月14日)に、大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が、恋と義理のために網島大長寺で、夜明けの鐘とともに心中をとげた当時の事件を脚色した世話物でした。
 同年12月6日に、大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演となり、大きく成功し、近松世話物の最高傑作とされています。翌年からは、歌舞伎でも上演され、以後浄瑠璃・歌舞伎ともに影響しあって、近松半二ら合作「心中紙屋治兵衛」やその増補「天網島時雨炬燵(しぐれのこたつ)」などの改作物が生まれ、上演されました。
 その中で、治兵衛の女房おさんの頼みで、小春が泣く泣く縁を切ろうとする「河庄」の場が有名となっています。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。
 父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。
 京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。
 一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きました。1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きます。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなりました。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになります。

<近松門左衛門の主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1712年(正徳2)江戸幕府第6代将軍徳川家宣の命日(新暦11月12日)詳細
1867年(慶応3)第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還される(新暦11月9日)詳細
1873年(明治6)祝祭日を定める太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」が発布される詳細
1951年(昭和26)ルース台風(昭和26年台風第15号)が九州に上陸し、大きな被害をもたらす詳細
1970年(昭和45)国鉄が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始する詳細
1986年(昭和61)洋画家荻須高徳の命日詳細
2007年(平成19)埼玉県さいたま市大宮区に鉄道博物館が開館する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1748年(寛延元)に、大坂・竹本座で、二代目竹田出雲・並木宗輔(千柳)・三好松洛合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演された日ですが、新暦では9月6日となります。
 『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)は、江戸時代中期の1748年年(寛延元年8月)に、大坂・竹本座で初演された、浄瑠璃の時代物(全11段で構成)で、二代目竹田出雲・並木宗輔(千柳)・三好松洛の合作で、通称「忠臣蔵」と呼ばれています。赤穂義士のあだ討ちに取材したものですが、人物や時代背景を南北朝時代に仮託した内容としていて、初演後間もなく歌舞伎に移され、人気狂言となりました。
 筋の展開や人物設定にすぐれ、各段ごとに見せ場があり、上演回数最高の記録を持つ浄瑠璃、歌舞伎の代表的作品です。『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』と共に、時代物の三大傑作とされてきました。

〇『仮名手本忠臣蔵』冒頭部分

大序
 地中嘉肴(かかう)有りといへども食せざれば其味(そのあぢ)はひを知らずとは。国治(おさま)つてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例(ためし)を爰(ここ)に仮名書のヲロシ太平の代の。政。
 地色中比(ころ)は暦応元年二月下旬。足利将軍尊氏公新田義貞を討亡(うちほろぼ)し。京都に御所を構へ徳風四方に普(あまね)く。万民草の如くにて、フシ靡(なび)き。従ふ御威勢。
 地色中国に羽(は)をのす靍つるが岡八幡宮御造営成就し。御代参として御舎弟足利左兵衛督(さひやうへのかみ)直義公。鎌倉に下着なりければ。在鎌倉の執事高武蔵守師直(もろなを)。御膝元に人を見下す権柄眼(けんぺいまなこ)。御馳走の役人は。桃井播磨守が弟若狭助安近。伯刕(はくしう)の城主塩冶判官高定。馬場先に幕打廻し フシ威儀を正して相詰(あひつ)むる。

(以下略)

☆並木 宗輔(千柳)】(なみき そうすけ)とは?

 江戸時代の浄瑠璃作者です。江戸時代中期の1695年(元禄8)に大坂で生れたともいわれますがはっきりしません。
 備後三原(現在の広島県三原市)の臨済宗成就寺の断継慧水という僧でしたが、30歳頃に還俗して大坂の豊竹座の浄瑠璃作者となり、並木宗助(のちに宗輔)と称します。1176年(享保11)に、西沢一風らと合作の『北条時頼記』で評判となり、以来立作者となって活躍しました。
 『苅萱桑門筑紫』(1735年)、『和田合戦女舞鶴』(1736年)などを合作または単独で発表、豊竹座を隆盛に導きます。1742年(寛保2)に、歌舞伎作者に転向し,『大門口鎧襲』(1742年)では大当りをとりました。
 1745年(延享2)には、浄瑠璃界へ復帰し、竹本座へ入座して千柳と改名し、『菅原伝授手習鑑』(1746年)、『義経千本桜』(1747年)、『仮名手本忠臣蔵』(1748年)などを2世竹田出雲・三好松洛らとの合作で発表、浄瑠璃全盛期の最高傑作を送り出します。1750年(寛延3)に再び豊竹座に復帰し、並木宗輔の名に復して、翌年9月7日に『一谷嫩軍記』を執筆中、病により大坂において、数え年57歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)藤原良房らが『続日本後紀』20巻を撰上する(新暦9月23日)詳細
949年(天暦3)公卿藤原忠平の命日(新暦9月9日)詳細
1511年(永生8)室町幕府第11代将軍足利義澄の命日(新暦9月6日)詳細
1656年(明暦2)彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の誕生日(新暦10月1日)詳細
1885年(明治18)「専売特許条例」に基づいて、日本初の専売特許7件がが交付される(専売特許の日)詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第15回御前会議において、無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、太平洋戦争に敗れる詳細
1950年(昭和25)文部省が9月新学期より8大都市小学校で、ガリオア資金によるパン完全給食を実施と発表する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、大坂の竹本座で近松門左衞門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演された日ですが、新暦では6月20日となります。
 『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)は、近松門左衛門によるの世話物浄瑠璃の初作で、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、大坂の竹本座で初演されました。摂津国西成郡曾根崎村(現在の大阪市北区曽根崎)の露天神の森で起きた相愛の若い男女の心中事件を脚色したものです。
 近松世話物浄瑠璃の初作として近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなり、文学作品としても高く評価されてきました。大坂内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛は、堂島新地の遊女お初と深く契り、主人の姪との縁談を拒絶したため、主人の怒りを買い、さらに主人に返却すべき金を友人九平次にだまし取られて、ついに曾根崎天神の森でお初と心中するという物語です。
 世話物浄瑠璃の初作として、近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなりましたが、文学作品としても高く評価されてきました。竹本座の経営不振を一挙に挽回し、負債を一気に返すほどの大当りをとったと言われ、歌舞伎でも上演されています。
 以下に、『曽根崎心中』道行きの冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。
 後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
 1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書いています。
 1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。

<主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

☆『曽根崎心中』道行きの冒頭

 この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。 鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星。必ず添ふとすがり寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩も勝るべし。 心も空も影暗く、風しん/\と更くる夜半、星が飛びしか稲妻か、死に行く身に肝も冷えて、 「アヽ怖は。いまのはなんの光ぞや」 「ヲヽあれこそ人魂よ。あはれ悲しやいま見しは、二つ連れ飛ぶ人魂よ。まさしうそなたとわしの魂」 「そんなら二人の魂か。はやお互は死にし身か。死んでも二人は一緒ぞ」 と、抱き寄せ肌を寄せ、この世の名残りぞ哀れなる。初は涙を押しぬぐひ、 「ほんに思へば昨日まで、今年の心中善し悪しを余所にいひしが、今日よりはお前もわしも噂の数。まことに今年はこなさんも二十五の厄の年、わしも十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟り、縁の深さの印かや。未来は一つ蓮ぞ」 と、うちもたれてぞ泣きゐたる。 徳兵衛、初が手を取りて、 「いつはさもあれこの夜半は、せめてしばしば長からで、心も夏の短夜の、明けなばそなたともろともに浮名の種の草双紙。笑はゞ笑へ口さがを、なに憎まうぞ悔やまうぞ。人には知らじわが心。望みの通りそなたとともに一緒に死ぬるこのうれしさ。冥途にござる父母にそなたを逢はせ嫁姑、必ず添ふ」 と、抱きしむれば、初はうれしさ限りなく、 「エヽありがたい忝い。でもこなさんは羨ましい。わしが父さん母さんはまめでこの世の人なれば、いつ逢ふことの情けなや、初が心中取沙汰を明日は定めて聞くであろ、せめて心が通ふなら夢になりとも見て下され。これからこの世の暇乞ひ、懐しの母さまや、名残り惜しやの父さまや」 と、声も惜しまずむせび泣き。 「いつまでかくてあるべきぞ。死におくれては恥の恥。いまが最期ぞ。観念」 と、脇差するりと抜放つ、馴染み重ねて幾年月、いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃と 思へば弱る切先に、女は目を閉ぢ悪びれず、 「はやう殺して/\」 と、覚悟の顔の美しさ。哀れをさそふ晨朝の、寺の念仏の切回向。 『南無阿弥陀仏、/\/\』 南無阿弥陀仏を迎へにて、哀れこの世の暇乞。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり。

   「アートウィキ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
1991年(平成3)考古学者末永雅雄の命日詳細
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