ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:京都帝国大学教授

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 今日は、昭和時代後期の1981年(昭和56)に、植物細胞学者桑田義備の亡くなった日です。
 桑田義備(くわだ よしなり)は、1882年(明治15)10月5日に、大阪府吹田で生まれ、旧制茨木中学校(現在の府立茨木高校)、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学理科大学へ入学しました。1908年(明治41)に、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、欧米に留学し、アメリカのコロンビア大で細胞学者E.B.ウィルソンに師事、染色体や細胞核の分裂を研究します。
 1917年(大正6)に理学博士となり、1918年(大正7)には、徳川義親により東京府荏原郡平塚村小山に設立された私立の徳川生物学研究所の所長を務めました。1922年(大正11)に京都帝国大学教授となり、イネ、トウモロコシの研究を行い、染色体の構造と核分裂の分析や核分裂の進化について独自の学説を樹立、1937年(昭和12)には、『染色体の構造』を刊行します。
 1942年(昭和17)に京都帝国大学教授を辞め、翌年名誉教授となり、1950年(昭和25)には、国立遺伝学研究所客員教授となりました。1953年(昭和28)に、「染色体構造の研究」で、日本学士院賞を受賞、1954年(昭和29)に『核分裂の進化』、1956年(昭和31)に『細胞論』を刊行します。
 細胞学の発展に貢献したことにより、1952年(昭和37)に文化功労者となり、文化勲章も受章しましたが、1981年(昭和56)8月13日に、京都において、98歳で亡くなりました。

〇桑田義備の主要な著作

・『染色体の構造』(1937年)
・『細胞核の分裂』(1943年)
・『核分裂の進化』(1954年)
・『細胞論』(1956年)

☆桑田義備関係略年表

・1882年(明治15)10月5日 大阪府吹田において、生まれる 
・1908年(明治41) 東京帝国大学理科大学植物学科を卒業する
・1917年(大正6) 理学博士となる
・1918年(大正7) 徳川義親により東京府荏原郡平塚村小山に設立された私立の徳川生物学研究所の所長を務める
・1922年(大正11) 京都帝国大学教授となる
・1937年(昭和12) 『染色体の構造』を刊行する
・1942年(昭和17) 京都帝国大学教授を辞める
・1943年(昭和18) 京都帝国大学名誉教授となる
・1950年(昭和25) 国立遺伝学研究所客員教授となる
・1953年(昭和28) 「染色体構造の研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『核分裂の進化』を刊行する
・1956年(昭和31) 『細胞論』を刊行する
・1952年(昭和37) 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)8月13日 京都において、98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)貴族・官僚・書家橘逸勢の命日(新暦9月24日)詳細
1809年(文化6)幕末明治維新期の熊本藩士・思想家・政治家横井小楠の誕生日(新暦9月22日)詳細
1870年(明治3)日本5番目の洋式灯台である城ヶ島灯台が初点灯する(新暦9月8日)詳細
1952年(昭和27)日本が国際通貨基金(IMF)に加盟する詳細
日本が国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟する詳細
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naitoukonan01

 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、東洋史学者・評論家内藤湖南の生まれた日ですが、新暦では8月27日となります。
 内藤湖南(ないとう こなん)は、秋田県鹿角郡毛馬内町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれましたが、名は虎次郎と言いました。7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳の時に『日本外史』を通読、さらに詩作を始めたとされます。
 1885年(明治18)に秋田師範高等科を卒業後、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導となりましたが、約1年で辞めて、1887年(明治20)には上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事しました。その後、「大同新報」の記者、機関紙「日本人」の編集、「三河新聞」の編集と渡り歩き、1894年(明治27)には、大阪朝日新聞に入ります。
 さらに、「台湾日報」主筆や「万朝報」などの編集で名を馳せ、中国問題の論壇第一人者となりました。1907年(明治40)に狩野亨吉によって京都帝国大学に招かれ、文科大学史学科東洋史学講座講師となります。
 2年後の1909年(明治42)に教授に昇任し、翌年には、狩野亨吉総長の推薦により文学博士となりました。1926年(大正15)に京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となり、翌年には、京都帝国大学名誉教授となります。
 この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査し、狩野直喜と共に、東洋史・支那学における京都学派を育てました。また、邪馬台国の所在地をめぐる論争では、畿内説を主張し、九州説を唱えた東京帝国大学の白鳥庫吉と激しい論争が展開されます。
 定年退官後は、京都府瓶原村(現在の木津川市)の恭仁(くに)山荘に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。その中で、1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)評議員となったり、国宝保存会委員などの要職を続けたものの、1934年(昭和9)6月26日に、数え年69歳で亡くなっています。

〇内藤湖南の主要な著作

・『支那史学史』
・『日本文化史研究』
・『中国近世史』
・『清朝史通論』
・『支那論』
・『中国絵画史』
・『燕山楚水(えんざんそすい)』

☆内藤湖南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1866年(慶応2年7月18日) 秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれる
・1872年(明治5年) 7歳で『二十四孝』と四書を習得する
・1878年(明治11年) 13歳の時、『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める
・1885年(明治18年) 秋田師範高等科を卒業後、小学校教育に従事する
・1887年(明治20年) 上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事する
・1894年(明治27年) 大阪朝日新聞に入る 
・1907年(明治40年) 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師となる
・1909年(明治42年) 京都帝国大学教授に就任する
・1910年(明治43年) 狩野亨吉総長の推薦により文学博士となる
・1924年(大正13年)2月15日 従四位となる
・1924年(大正13年)2月23日  勲三等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となる
・1927年(昭和2年) 京都帝国大学名誉教授となる
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員となる
・1934年(昭和9年)6月26日 数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1879年(明治12)に、経済学者・社会思想家河上肇の生まれた日です。
 河上肇(かわかみ はじめ)は、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)で、旧岩国藩の下級士族の家に生まれました。岩国学校を経て、1898年(明治31)に山口高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学します。
 在学中に、内村鑑三、木下尚江らの講演を聞き、聖書を読み、1901年(明治34)には足尾鉱毒問題に関心を持って持ち物をすべて寄付しました。翌年大学卒業後、1903年(明治36)に東京帝国大学農科大学実科講師に就任し、経済原論、農政学業を教えるとともに刻苦して経済学を学びます。
 1905年(明治38)に「社会主義評論」を千山万水楼主人の筆名で「読売新聞」に連載、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入りますが、間もなく脱退し、読売新聞社に入社しました。1907年(明治40)に「日本経済新誌」を創刊し、編集主幹となりましたが、翌年には京都帝国大学の講師、1909年(明治42)に助教授となって、研究生活を送ります。
 1913年(大正2)から2年間ヨーロッパへ留学し、帰国後教授となり経済学史や経済原論を担当、1916年(大正5)から「大阪朝日新聞」に『貧乏物語』を連載し、翌年出版して注目されました。1918年(大正7)に雑誌『社会問題研究』を刊行するとともに、マルクス主義の体系的な把握に努めるようになります。
 1923年(大正12)にマルクスの『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』を翻訳出版し、1925年(大正14)には『マルクス資本論略解』を刊行しました。1928年(昭和3)に『マルクス主義講座』の推薦文で筆禍を招き大学を辞職後、大山郁夫らと新労農党を結成したものの、意見が対立して別れます。
 その後、雑誌「改造」に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれました。1931年(昭和6)にマルクスの『政治経済学批判』、『資本論』(第1巻)を翻訳して刊行、翌年から地下運動に入り、コミンテルンが発表した「32年テーゼ」を翻訳します。
 その中で、日本共産党へ入党しましたが、1933年(昭和8)に検挙され、「治安維持法」違反で豊多摩刑務所に収監されました。1937年(昭和12)に出獄後は、『自叙伝』等の執筆に専念したものの、太平洋戦争後の1946年(昭和21)1月30日に、京都市左京区の自宅において、68歳で亡くなっています。

〇河上肇の主要な著作

・『日本尊農論』(1905年)
・『経済学原論』(1907年)
・『貧乏物語』(1917年)
・『資本主義経済学の史的発展』(1923年)
・翻訳『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』カール・マルクス作(1923年)
・『マルクス資本論略解』(1925年)
・『経済学大綱』(1928年)
・『マルクス主義経済学』(1928年)
・『第二貧乏物語』(1930年)
・翻訳『政治経済学批判』カール・マルクス作(1931年)
・翻訳『資本論(第1巻)』カール・マルクス作(1931年)
・『資本論入門』5巻(1932年)
・『雑草集 詩集』(1946年)
・『旅人 河上肇詩集』(1946年)
・『自叙伝』(1947~48年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
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