ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:京都大学教授

okadatokindo01
 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の亡くなった日です。
 岡田節人(おかだ ときんど)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)2月4日に、兵庫県伊丹市で、国文学者(元伊丹市長)であった、父・岡田利兵衞の子として生まれました。伊丹尋常高等小学校を経て、甲南高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学理学部へ進みます。
 1950年(昭和25)に同大学理学部動物学科を卒業後、1954年(昭和29)に同大学理学部動物学科助手(動物学第三講座)となりました。1957年(昭和32)に、エジンバラ大学動物遺伝学研究所へ留学、1959年(昭和34)に帰国後、京都大学より、「両生類の消化器官分化に関する実験形態学的研究 」で理学博士を得ます。
 1960年(昭和35)に京都大学理学部動物学科(動物学第三講座)講師となり、続いて1961年(昭和36)には同助教授となりました。1964年(昭和39)に米国カーネギー発生学研究所へ留学し、帰国後の1967年(昭和42)に京都大学理学部動物学科教授(発生生物学講座)となります。
 1977年(昭和52)に日本発生生物学会会長(1983年まで)、1981年(昭和56)に国際発生生物学会(英語版)会長(1985年まで)となり、1984年(昭和59)には、岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所所長に転任しました。1985年(昭和60)に京都大学名誉教授となり、1986年(昭和61)に中日文化賞を受賞、1989年(平成元)には、岡崎国立共同研究機構長となります。
 同年に、アルコン賞(眼科学、米)、国際発生生物学会ハリソン賞(日本人初)を受章、1990年(平成2)に紫綬褒章受章、スペイン王立科学アカデミー会員、インド科学アカデミー会員となるなど数々の栄誉に輝きました。退官後、1991年(平成3)に国際生物科学連合副総裁、1993年(平成5)にはJT生命誌研究館館長(2003年3月まで)となります。
 さらに、1995年(平成7)に文化功労者、1999年(平成11)に勲二等旭日重光章受章、2002年(平成14)にJT生命誌研究館名誉顧問、2005年(平成17)に京都府文化賞特別功労賞受賞、2007年(平成19)に文化勲章受章、2008年(平成20)には、伊丹市名誉市民、京都市名誉市民となりました。眼の水晶体細胞の培養に成功、また細胞どうしの親和力を解明、細胞分化と細胞同士の結合の仕組みを分子レベルで追究してきましたが、2017年(平成29)1月17日に京都府京都市において、肺炎により89歳で亡くなり、従三位を追贈されています。
 尚、クラシック音楽にも造詣が深く,『アルマ・マーラーに恋した生物学者――生命の響き』(2000年)を著し、京都市音楽芸術文化振興財団理事長も務めました。

〇岡田節人の主要な著作

・『細胞の社会』(1972年)
・『学問の周辺』(1991年)
・『からだの設計図』(1994年)
・『生物学個人授業』(1996年)
・『アルマ・マーラーに恋した生物学者――生命の響き』(2000年)

☆岡田節人関係略年表

・1927年(昭和2)2月4日 兵庫県伊丹市で、国文学者(元伊丹市長)であった、父・岡田利兵衞の子として生まれる 
・1950年(昭和25)3月 京都大学理学部動物学科を卒業する
・1954年(昭和29) 京都大学理学部動物学科助手(動物学第三講座)
・1957年(昭和32) エジンバラ大学動物遺伝学研究所へ留学する(1959年まで)
・1959年(昭和34) 京都大学より、「両生類の消化器官分化に関する実験形態学的研究 」で理学博士を得る
・1960年(昭和35) 京都大学理学部動物学科(動物学第三講座)講師となる
・1961年(昭和36)12月 京都大学理学部動物学科(動物学第三講座)助教授となる
・1964年(昭和39) 米国カーネギー発生学研究所へ留学する
・1967年(昭和42)8月 京都大学理学部動物学科教授(発生生物学講座)となる
・1968年(昭和43)4月 京都大学理学部生物物理学科教授(原形質物性学講座 動物学科発生生物学講座教授兼任(1971年5月まで))
・1977年(昭和52) 日本発生生物学会会長となる(1983年まで)
・1981年(昭和56) 国際発生生物学会(英語版)会長となる(1985年まで)
・1984年(昭和59)10月 岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所所長に転任する
・1985年(昭和60)4月 京都大学名誉教授となる
・1986年(昭和61) 中日文化賞を受賞する
・1989年(平成元) 岡崎国立共同研究機構長となる、アルコン賞(眼科学、米)、国際発生生物学会ハリソン賞を受賞(日本人初)する
・1990年(平成2) 退官する、紫綬褒章受章、スペイン王立科学アカデミー会員、インド科学アカデミー会員となる
・1991年(平成3) 国際生物科学連合副総裁となる
・1993年(平成5)4月 JT生命誌研究館館長(2003年3月まで)
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・1999年(平成11) 勲二等旭日重光章を受章する
・2002年(平成14)4月 JT生命誌研究館名誉顧問となる
・2005年(平成17)1月 京都府文化賞特別功労賞を受賞する
・2007年(平成19)11月 文化勲章を受章する
・2008年(平成20) 伊丹市名誉市民、京都市名誉市民となる
・2017年(平成29)1月17日 京都府京都市において、肺炎により89歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
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fukuikenichi01

 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の亡くなった日です。
 福井謙一(ふくい けんいち)は、大正時代の1918年(大正7)10月4日に、奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれました。旧制今宮中学校、旧制大阪高等学校を経て、1938年(昭和13)に京都帝国大学工学部工業化学科に入学します。
 1941年(昭和16)に卒業後、大学院へ入学すると共に、短期将校として燃料研究所へ入所して軍務につき、航空添加燃料イソオクタンの製造研究に従事しました。1943年(昭和18)に、京都帝国大学工学部燃料化学科講師となり、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に助教授となります。
 1948年(昭和23)に「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」によって工学博士となり、1951年(昭和26)には教授となりました。翌年に有機化学反応に関与する電子のふるまいを解明した「フロンティア電子理論」を発表して注目を集め、1954年(昭和29)に第2報が発表されます。
 1962年(昭和37)に「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞、1964年(昭和39)に「HOMO-LUMO相互作用の理論」、1970年(昭和45)に化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表しました。1970年(昭和45)に京都大学評議員、1971年(昭和46)には工学部長となり、1981年(昭和56)には米国科学アカデミー外国人客員会員にも選ばれます。
 1981年(昭和56)に文化功労者となり、文化勲章も受章、同年12月には、「フロンティア電子理論」により、日本人初のノーベル化学賞(ノーベル賞としては日本人6人目)をロアルド・ホフマン博士と共同受賞しました。1982年(昭和57)に京都大学退官後、名誉教授となると共に、京都工芸繊維大学学長となります。
 1990年(平成2)に学術審議会会長、1995年(平成7)には日本学術振興会会長ともなりましたが、1998年(平成10)1月9日に京都において、満79歳で亡くなりました。

〇福井謙一の主要な著作

・『量子化学』(1968年)朝倉書店
・『化学反応と電子の軌道』(1976年)丸善
・『学問の創造』(1984年)佼成出版社
・『教育への直言』(1985年)パンリサーチインスティテュート
・『21世紀日本の選択』(1994年)ダイヤモンド社 
・『哲学の創造』梅原猛との共著(1996年)PHP研究所
・『複雑系の経済学』(1997年)ダイヤモンド社 

☆福井謙一の関係略年表

・1918年(大正7)10月4日 奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれる
・1930年(昭和5)3月 大阪市玉出第二尋常小学校を卒業する
・1935年(昭和10)3月 旧制今宮中学校を卒業する
・1938年(昭和13)3月 旧制大阪高等学校を卒業する
・1941年(昭和16)3月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として燃料研究所へ入所する
・1943年(昭和18)8月 京都帝国大学工学部燃料化学科講師(1966年 石油化学科に改組)となる
・1943年(昭和18)12月 正七位となる
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学工学部燃料化学科助教授となる
・1948年(昭和23)6月 工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)となる
・1951年(昭和26)4月 京都大学工学部燃料化学科教授(高温化学講座)となる
・1952年(昭和27) フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表
・1954年(昭和29) フロンティア軌道理論の第2報を発表する
・1962年(昭和37)5月 「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞する
・1964年(昭和39) HOMO-LUMO相互作用の理論を発表する
・1966年(昭和41) 高圧化学講座が炭化水素物理化学講座に改称される
・1970年(昭和45) 化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表する
・1970年(昭和45)11月 京都大学評議員となる
・1971年(昭和46)4月 京都大学評議員を辞める
・1971年(昭和46)4月 京都大学工学部長となる
・1973年(昭和48)3月 京都大学工学部長を退任する
・1981年(昭和56) 米国科学アカデミー外国人客員会員に選ばれる
・1981年(昭和56)11月 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)12月 ノーベル化学賞を受賞する
・1982年(昭和57)4月 京都大学退官 京都大学名誉教授となる
・1982年(昭和57)6月 京都工芸繊維大学学長となる
・1988年(昭和63)5月 京都工芸繊維大学学長を退任する
・1988年(昭和63)6月 京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長となる
・1988年(昭和63)11月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1989年(平成元)6月 ロンドン王立協会外国人会員となる
・1990年(平成2)2月 学術審議会会長となる
・1995年(平成7)9月 日本学術振興会会長となる
・1998年(平成10)1月9日 京都において、満79歳で亡くなる
・1998年(平成10)1月 従二位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細


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