ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:京都

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 今日は、室町時代の1450年(宝徳2)に、細川勝元が京都に龍安寺を創建した日ですが、新暦では7月10日となります。
 龍安寺(りゅうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院です。室町時代の1450年(宝徳2)に、細川勝元が譲り受けた山荘敷地内に、妙心寺の義天玄詔を招いて創建しました。
 しかし、1468年(応仁2)に応仁の乱で焼失し、1488年(長享2)に勝元の子・細川政元が再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興され、1499年(明応8)に方丈が上棟されます。有名な石庭は、戦国時代(1500年頃)の作庭と伝えられていますが、1797年(寛政9)に火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失しました。
 明治維新後の廃仏毀釈で衰退し、1895年(明治28)には、狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されています。また、1929年(昭和4)に火災により一部を焼失し、1951年(昭和26)に、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊、濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出たものの、復興され、1954年(昭和29)には、「竜安寺方丈庭園」として、国の特別名勝となりました。
 この庭は、日本の伝統的な禅寺様式の枯山水庭園で、水も木も草もなく、掃き清められた砂の上に、いくつかの石が配置されていて、単純な中に奥深さがあります。その後、1977年(昭和52)に昭堂(開山堂)が建立され、1981年(昭和56)には、仏殿が再建されました。
 尚、1994年(平成6)には「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇龍安寺関係略年表

・平安時代末 藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とする
・1450年(宝徳2) 山荘を譲り受けた細川勝元が、敷地内に妙心寺の義天玄詔を招いて創建する
・1468年(応仁2) 応仁の乱で焼失する
・1488年(長享2) 勝元の子・細川政元が再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興される
・1499年(明応8) 方丈が上棟される
・1797年(寛政9) 火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失する
・1895年(明治28) 狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却される
・1929年(昭和4) 火災により一部を焼失する
・1951年(昭和26)7月11日 京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊、濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出る
・1954年(昭和29) 方丈庭園が国の特別名勝となる
・1975年(昭和50)5月10日 イギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、方丈庭園(石庭)に立ち寄る
・1977年(昭和52) 昭堂(開山堂)が建立される
・1981年(昭和56) 仏殿が再建される
・1994年(平成6) 「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録される
・2010年(平成22) 所在不明となっていた襖絵のうち「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻す
・2018年(平成30) 所在不明となっていた襖絵のうち「芭蕉図」9面を、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻す

☆細川 勝元(ほそかわ かつもと)とは?

 武将・守護大名・室町幕府管領です。室町時代の1430年(永享2)に守護大名で第14代室町幕府管領となった細川持之の嫡男(母は京極高光の娘)として生まれましたが、幼名は聡明丸と言いました。
 1442年(嘉吉2)の13歳の時、父・持之が亡くなり、細川家宗家・京兆家当主となり、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼任、従五位下右京大夫に叙任され、7代将軍足利義勝の名を一字を賜り、勝元と名乗ります。幼少のため叔父細川持賢がこれを後見し、1445年(文安2)の16歳の時、畠山持国(徳本)に代わって、室町幕府の第16代管領に就任しました。
 同年に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させ、1447年(文安4)には、調和を図って山名持豊(宗全)の養女を正室に迎えています。1449年(文安6)に従四位下に昇叙、武蔵守を兼任しましたが、同年に管領を辞任し、畠山持国に替わりました。
 一方、禅に傾倒し、1450年(宝徳2)に京都に竜安寺、1452年(享徳元)に丹波に竜興寺を創建しています。1452年(享徳元)に幕府の管領に再度就任し、翌年に伊予守護職問題に介入、1455年(享徳4)には一時伊予守護を兼任しました。
 持豊と結び、1460年(寛正元)に畠山義就を失脚させたりしたものの、赤松家再興問題で持豊と対立するようになり、1464年(寛正5)には、再び管領を辞任し、弟の政長と交替します。1466年(文正元)に実子政元の誕生後、養子の豊久(山名持豊の子)を廃嫡して仏門に入れたり、足利義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まりました。
 将軍家の跡目を巡って勝元が足利義視を、持豊が足利義尚を支援したことは、1467年(応仁元)に応仁の乱が起こる一因となります。将軍足利義政をはじめ後土御門天皇、後花園天皇を奉じ、主に京都東北に陣取り、十余万の兵を率いる東軍総帥となり、持豊の率いる西軍と戦いました。
 翌年に三度目の管領に就任しましたが、戦いは全国規模の長期戦となり、膠着状態が続き、1473年(文明5)の3月に山名持豊(宗全)が病死する中、同年5月11日に、陣中において、数え年44歳で亡くなっています。尚、和歌・書画・鷹狩・犬追物などを好み、医学に通じ医書『霊蘭集』を著すなど、多方面に長けていました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市)への行幸(福原遷都)を決行する(新暦6月26日)詳細
1582年(天正10)京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する詳細
1615年(慶長20)画家・海北派の祖海北友松の命日(新暦6月27日)詳細
1716年(享保元)画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日)詳細
1743年(寛保3)陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日)詳細
1859年(安政6)前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日)詳細
1907年(明治40)愛媛県の別子銅山で運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動)が始まる詳細
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 今日は、江戸時代中期の1730年(享保15)に、京都の「西陣焼け」が起こり、134町、3,810軒を焼失した日ですが、新暦では8月3日となります。
 西陣焼け(にしじんやけ)は、この日の昼八つ時(午後2時頃)に、京都の上立売通室町西入ル上立売町北側の大文字屋五兵衛宅台所から出火した大火でした。折からの烈風に煽られて、火は南北両方向へと燃え広がり、辺り一面が火の海となり、風が東風に変化すると、火は燃え盛って西方へと進んでいき、午後3時過ぎには、一条浄福寺と北野松梅院に飛び火したため、火の手は3ヶ所となります。
 1時間後の午後5時頃には、3つの火が一つに繋がり、5時過ぎには西陣を中心に室町通以西、北野神社以東、一条通以北、盧山寺通以南を焼き尽くし、ようやく、翌朝の八つ時(午前2時頃)に鎮火しました。『月堂見聞集』によれば、「町数百卅四町程、但し平均東西長さ十六町、南北長さ五町、家数三千七百九十八軒程、外に非人小屋十三軒、寺社数七十一ヶ所程、内社二ヶ所、北野松梅院一ヶ所、同祠官一ヶ所、同宮仕廿四ヶ所、堂上方抱屋敷五ヶ所、武家方屋敷一ヶ所」が罹災したとし、『西陣天狗筆記』では、「類焼町数134、家数3,797、寺社67ほか」を焼いたとしています。また、死者は八十人,負傷者は千数百人に達したとされ、特に、西陣は160余町のうち、108町、3千数百軒が被災し、織機約7,000台のうち3,012台を失って壊滅状態となりました。
 これに対し、幕府も救済の手を差し伸べ、公家衆にはただちに金子を送り、西陣108ヶ町には、拝借米5,000俵を下げ渡した他、中京や下京の町衆によって施行も行われています。尚、近郊農家からも穀物や野菜などの救援物資が次々と運び込まれました。

〇江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日) 江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日) 江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日) 京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日) 大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1730年(享保15年6月20日) 京都の「西陣焼け」134町、3,810軒を焼失、死者80人
・1760年(宝暦10年2月6日) 江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日) 江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日) 京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日) 江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日) 江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日) 大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、3,389軒を焼失、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日) 大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」3,733軒を焼失
・1864年(元治元年7月19日) 京都の「元治の大火(どんどん焼け)」27,517軒を焼失、死者340人

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1495年(明応4)飯尾宗祇ら編集による『新撰菟玖波集』が完成する(新暦7月12日)詳細
1654年(承応3)江戸市中に水を供給する玉川上水が完成する(新暦7月21日)詳細
1887年(明治20)二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行される詳細
1947年(昭和22)片山哲内閣によって、「新日本建設国民運動要領」が閣議決定される詳細
1963年(昭和38)「観光基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、794年(延暦13)に平安遷都され、桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京した日(平安遷都の日)ですが、新暦では11月22日となります。
 平安遷都(へいあんせんと)は、奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものでした。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められます。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km),東西32町(4.57km)に及びました。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされています。
 遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されました。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されています。
 以下に、『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分と『日本後紀』の平安京造営の停止の部分を抜粋しておきましたので、ご参照下さい。

〇平安京とは?

 桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところです。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられました。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移りました。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失します。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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