桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、江戸幕府の大老井伊直弼が、水戸浪士等18名により、江戸城の桜田門外で暗殺された事件でした。井伊直弼が勅許を得ずに、「日米修好通商条約」に調印したことと安政の大獄で、尊皇派を弾圧したことに水戸浪士等が憤激して起こっています。
この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まりました。
この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まりました。
〇安政の大獄(あんせいのたいごく)とは?
幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなります。
〇井伊直弼(いい なおすけ)とは?
幕末の大老・彦根藩第15代藩主です。江戸時代後期の1815年(文化12年10月29日)に、近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれましたが、幼名は鉄之介、のち鉄三郎と言いました。
1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷派と対峙しました。
老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買います。さらに、同年10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功しました。
この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。
1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷派と対峙しました。
老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買います。さらに、同年10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功しました。
この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。
☆井伊直弼関係略年表(日付は旧暦です)
・1815年(文化12年10月29日) 彦根城下屋敷の槻御殿において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)として生まれる
・1819年(文政2年) 5歳の時、母お富の方が亡くなる
・1827年(文政10年) 13歳の頃から、清凉寺で禅学などを学び始める
・1831年(天保2年5月) 17歳の時、父・直中が亡くなる
・1831年(天保2年11月) 弟直恭(なおやす)と尾末町の北の御屋敷(埋木舎)に移る
・1834年(天保5年7月) 20歳の時、延岡藩主内藤家の養子候補となり、江戸に行くが、弟直恭が選ばれる
・1834年(天保5年冬) 『うもれぎのやの言葉』を記し、埋木舎で文武の道に生きる決意をする
・1842年(天保13年11月) 長野義言(ながのよしとき)と初めて対面し、国学・和歌の弟子となる
・1843年(天保14年) 29歳の時、長浜大通寺より、直弼を住職の跡継ぎとする話が持ち上がるが、成立せず
・1845年(弘化2年10月) 31歳の月、『入門記』を著し、石州流茶道の一派を立てることを宣言する
・1846年(弘化3年1月) 32歳の時、彦根藩世子直元(直弼の兄)が死去し、彦根藩の世継となる
・1846年(弘化3年2月) 初めて江戸城へ登城し、将軍に対面する
・1847年(弘化4年2月) 33歳の時、海防のため相模国三浦半島の警備につく(相州警衛)
・1850年(嘉永3年11月21日) 36歳の時、彦根藩主となる
・1850年(嘉永3年12月) 先代藩主直亮の遺金15万両を家臣や領民に分配する
・1851年(嘉永4年3月) 37歳の時、相州警衛地を巡見する
・1851年(嘉永4年6月) 藩主として初めて彦根に入る
・1851年(嘉永4年9月) 領内巡見を開始、安政4年まで9度に分けて領内全域をめぐる
・1852年(嘉永5年8月) 38歳の時、丹波亀山藩主松平信篤の妹昌子を正室に迎える
・1853年(嘉永6年3月) 39歳の時、日光東照宮参拝の帰途に彦根藩領の下野国佐野を巡見する
・1853年(嘉永6年6月) アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率いて浦賀に来航する
・1853年(嘉永6年7月) 39歳の時、ペリー来航の知らせを受けて、江戸へ向かう
・1853年(嘉永6年8月) 2度にわたり幕府へ意見書「初度存寄書(しょどぞんじよりがき)」「別段存寄書(べつだんぞんじよりがき)」を提出する
・1853年(嘉永6年11月) 彦根藩、相模から江戸湾(羽田・大森)へ警衛地が変わる
・1854年(安政元年4月) 彦根藩が京都守護を命じられる
・1854年(安政元年10月) 40歳の時、京都・淀を巡見する
・1856年(安政3年8月) 42歳の時、アメリカ総領事ハリスが着任。通商条約締結を求める
・1857年(安政4年7月頃) 43歳の時、茶の湯論の集大成『茶湯一会集』を完成させる
・1858年(安政5年) 44歳の頃、将軍継嗣・条約調印の問題で、一橋派と南紀派が対立する
・1858年(安政5年2月) 老中堀田正睦が上洛するが、孝明天皇より条約調印の勅許得られず
・1858年(安政5年4月23日) 大老職に就任する
・1858年(安政5年6月19日) 「日米修好通商条約」に調印する
・1858年(安政5年8月8日) 孝明天皇が幕府の条約調印を非難する勅諚を幕府と水戸藩に下す(戊午の密勅)
・1858年(安政5年9月) 「戊午の密勅」など反幕府行動に関わった者を逮捕する(安政の大獄)
・1858年(安政5年12月24日) 孝明天皇、条約調印を了解する勅諚を出す
・1858年(安政5年12月26日) 将軍家茂より、功績をたたえられて鞍・小刀を拝領する
・1859年(安政6年8月) 戊午の密勅に関わった咎で、徳川斉昭や水戸藩士らを処罰する
・1860年(安政7年) 46歳の頃、御用絵師に自分の画像を描かせて、井伊家菩提寺の清凉寺に納める
・1860年(安政7年3月3日) 登城途中に襲われ暗殺される(桜田門外の変)
・1860年(万延元年3月30日) 大老職を免じられる