
五山制度(ござんせいど)は、13世紀初頭の中国・南宋時代の制度をまねた禅宗(臨済宗)の寺格を定めたものでした。鎌倉幕府が鎌倉の臨済宗寺院において定めたのが、最初とされます。
鎌倉幕府の滅亡後は、鎌倉中心の五山をやめ、京都中心の五山が定められましたが、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は、天竜寺を建立し、これを五山に加えることを望みました。これに対して、北朝の光厳上皇は1341年(暦応4)に院宣を出して、尊氏に五山の決定を一任します。そして、翌年4月23日に尊氏は、五山を①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺とし、凖五山を浄智寺と定めました。
1358年(延文3)に、第二代将軍となった足利義詮は、①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とします。さらに、第三代将軍足利義満は、1386年(至徳3年7月10日)に、五山の上に南禅寺をおき、京都五山は①天龍寺、②相国寺、③建仁寺、④東福寺、⑤万寿寺、鎌倉五山は①建長寺、②円覚寺、③寿福寺、④浄智寺、⑤浄妙寺とし、初めて京都五山優位の位次が決定されました。
また、五山の下に十刹(じっせつ、じっさつ)が設けられ、その下に諸山を置いて、禅宗(臨済宗)の寺格制度とされます。これらの禅宗寺院を五山派と総称し、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能しました。
また、五山文学(禅僧による漢詩文学)、五山版(禅の経典・漢詩文集の出版)などが発展し、中世文化の中心として、宋学普及の温床となり、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えています。
鎌倉幕府の滅亡後は、鎌倉中心の五山をやめ、京都中心の五山が定められましたが、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は、天竜寺を建立し、これを五山に加えることを望みました。これに対して、北朝の光厳上皇は1341年(暦応4)に院宣を出して、尊氏に五山の決定を一任します。そして、翌年4月23日に尊氏は、五山を①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺とし、凖五山を浄智寺と定めました。
1358年(延文3)に、第二代将軍となった足利義詮は、①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とします。さらに、第三代将軍足利義満は、1386年(至徳3年7月10日)に、五山の上に南禅寺をおき、京都五山は①天龍寺、②相国寺、③建仁寺、④東福寺、⑤万寿寺、鎌倉五山は①建長寺、②円覚寺、③寿福寺、④浄智寺、⑤浄妙寺とし、初めて京都五山優位の位次が決定されました。
また、五山の下に十刹(じっせつ、じっさつ)が設けられ、その下に諸山を置いて、禅宗(臨済宗)の寺格制度とされます。これらの禅宗寺院を五山派と総称し、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能しました。
また、五山文学(禅僧による漢詩文学)、五山版(禅の経典・漢詩文集の出版)などが発展し、中世文化の中心として、宋学普及の温床となり、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えています。
〇五山制度の変遷
<1342年(康永元年4月23日)> 初代将軍足利尊氏制定
①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④ (京都)建仁寺
⑤ (京都)東福寺
凖(鎌倉)浄智寺
<1358年(延文3年9月)> 第二代将軍足利義詮制定
①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④ (京都)建仁寺
⑤(鎌倉)浄智寺・(京都)東福寺
浄妙寺 万寿寺
<1386年(至徳3年7月10日)> 第三代将軍足利義満制定
上(京都)南禅寺
①(京都)天龍寺・(鎌倉)建長寺
②(京都)相国寺・(鎌倉)円覚寺
③(京都)建仁寺・(鎌倉)寿福寺
④(京都)東福寺・(鎌倉)浄智寺
⑤(京都)万寿寺・(鎌倉)浄妙寺