ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:五山制度

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 今日は、南北朝時代の1342年(康永元)に、室町幕府初代将軍の足利尊氏が禅寺の寺格を制定(五山制度)した日ですが、新暦では5月28日となります。
 五山制度(ござんせいど)は、13世紀初頭の中国・南宋時代の制度をまねた禅宗(臨済宗)の寺格を定めたものでした。鎌倉幕府が鎌倉の臨済宗寺院において定めたのが、最初とされます。
 鎌倉幕府の滅亡後は、鎌倉中心の五山をやめ、京都中心の五山が定められましたが、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は、天竜寺を建立し、これを五山に加えることを望みました。これに対して、北朝の光厳上皇は1341年(暦応4)に院宣を出して、尊氏に五山の決定を一任します。そして、翌年4月23日に尊氏は、五山を①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺とし、凖五山を浄智寺と定めました。
 1358年(延文3)に、第二代将軍となった足利義詮は、①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とします。さらに、第三代将軍足利義満は、1386年(至徳3年7月10日)に、五山の上に南禅寺をおき、京都五山は①天龍寺、②相国寺、③建仁寺、④東福寺、⑤万寿寺、鎌倉五山は①建長寺、②円覚寺、③寿福寺、④浄智寺、⑤浄妙寺とし、初めて京都五山優位の位次が決定されました。
 また、五山の下に十刹(じっせつ、じっさつ)が設けられ、その下に諸山を置いて、禅宗(臨済宗)の寺格制度とされます。これらの禅宗寺院を五山派と総称し、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能しました。
 また、五山文学(禅僧による漢詩文学)、五山版(禅の経典・漢詩文集の出版)などが発展し、中世文化の中心として、宋学普及の温床となり、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えています。

〇五山制度の変遷

<1342年(康永元年4月23日)> 初代将軍足利尊氏制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤        (京都)東福寺
凖(鎌倉)浄智寺

<1358年(延文3年9月)> 第二代将軍足利義詮制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤(鎌倉)浄智寺・(京都)東福寺
     浄妙寺     万寿寺

<1386年(至徳3年7月10日)> 第三代将軍足利義満制定

上(京都)南禅寺
①(京都)天龍寺・(鎌倉)建長寺
②(京都)相国寺・(鎌倉)円覚寺
③(京都)建仁寺・(鎌倉)寿福寺
④(京都)東福寺・(鎌倉)浄智寺
⑤(京都)万寿寺・(鎌倉)浄妙寺

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 今日は、室町時代の1408年(応永15)に、室町幕府第3代将軍足利義満の亡くなった日ですが、新暦では5月31日となります。
 足利義満(あしかが よしみつ)は、1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。
 しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。
 1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。
 さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇足利義満関係略年表(日付は旧暦です)

・1358年(延文3/正平13)8月22日 室町幕府第2代将軍足利義詮の長男として、京都で生まれる
・1361年(康安元/正平16) 南軍の入京で一時赤松則祐の播磨白旗城に避難する
・1362年(康安2/正平17) 幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京する
・1366年(貞治5/正平21) 後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられる
・1367年(貞治6/正平22) 父義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託す
・1368年(応安元/正平23) 応安半済令が出される
・1368年(応安元/正平23) 室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(応安4/建徳2)以降 今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3) 判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領とする
・1382年(弘和2/永徳2) 左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2) 開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3) 准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3) 天橋立の景勝遊覧に出かける
・1386年(元中3/至徳3) 五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2) 東国の景勝遊覧に出かける
・1389年(元中6/観応元) 安芸厳島の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行を鎮圧する
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清を鎮圧する
・1392年(元中9/明徳3) 南北朝の合一を実現する
・1394年(応永元) 子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となる
・1395年(応永2) 太政大臣を辞して出家し、道義と号する
・1397年(応永4) 北山に金閣を建てる
・1398年(応永5) 三管領・四職の制を定める
・1399年(応永6) 応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼす
・1401年(応永8) 明に入貢し、倭寇の取りしまりを約する
・1402年(応永9) 明使の詔書に「日本国王源道義」と記され、明の冊封を受ける
・1404年(応永11) 勘合貿易が始まる
・1408年(応永15)5月6日 咳病を患って、49歳で京都の北山第で急逝する
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