ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:事件

イメージ 1

 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、松川事件の起きた日です。
 第二次世界大戦後続いた、一連の国鉄ミステリー事件(下山事件、三鷹事件など)の一つで、昭和時代中期の1949年(昭和24)8月17日未明、何者かによって当時の国鉄東北本線の旅客列車が福島県信夫郡金谷川村(現在の福島県福島市松川町)で転覆させられ、機関車の乗務員3人が死亡しました。
 それに関連して、東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の労働組合員等合計20名が、不当逮捕・起訴されたのです。一審、二審判決では、有罪(死刑含む)とされましたが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、全国的な支援活動もあって、1963年(昭和38)に、最高裁で被告全員の無罪が確定しました。
 作家の松本清張は「日本の黒い霧」の中で、アメリカ軍防諜部隊の関与を唱えています。事件現場には殉職の碑が、近くには、松川記念塔が立てられています。

〇当時の国鉄ミステリー事件の一覧

・庭坂事件(1948年4月27日) 奥羽線赤岩~庭坂間で発生
 脱線地点付近の線路継目板2枚、犬釘6本、ボルト4本が抜き取られていて、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・予讃線事件(1949年5月9日) 予讃線浅海 - 伊予北条駅間で発生
 脱線地点で、継ぎ目板2カ所4枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・下山事件(1949年7月6日) 常磐線北千住~綾瀬駅間で発生
 当時の国鉄総裁下山定則が失踪し、翌日に国鉄常磐線北千住駅~ 綾瀬駅間(東京都足立区綾瀬)で汽車に轢断された遺体となって発見された事件です。しかし半年後、警視庁は他殺説・自殺説ともに決め手のないままで捜査本部を閉じ、真相不明のまま1964年(昭和39)の時効成立で迷宮入りとなりました。

・三鷹事件(1949年7月15日) 中央本線三鷹駅で発生
 中央本線三鷹駅構内で、無人列車が暴走して車止めに激突し、脱線転覆、突っ込んだ線路脇の商店街などで、6名が車両の下敷となって即死し、負傷者も20名出る大惨事となりました。国鉄労働組合員11人が共同謀議による犯行として逮捕・起訴されましたが、結局は元運転士の単独犯として死刑判決が言い渡され、獄死しました。しかし、冤罪ではなかったかとも言われ、その後長男による再審請求がなされています。

・松川事件(1949年8月17日) 東北本線松川~金谷川駅間で発生

・まりも号脱線事件(1951年5月17日) 根室本線新得~落合駅間で発生
 脱線地点では、レールの継ぎ目板を外し、レールを4 cmずらされていて、蒸気機関車が線路外に逸脱して宙吊りとなり、軽傷者1人を出しましたが、真相は不明です。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1808年(文化5)に、フェートン号事件の起きた日ですが、新暦では10月4日となります。
 この事件は、鎖国政策をとっていた日本の長崎港で勃発したイギリス軍艦による狼藉事件でした。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダとイギリスは交戦国の関係にあり、東インド総督ミントーの政策を受けて、イギリス軍艦フェートン号が、偽ってオランダ国旗を掲げて長崎港へ入港しました。そして、オランダ商館員2名を逮捕し、長崎奉行に飲料水と薪、食糧などを供給するよう要求したのです。当時、長崎警固にあたっていた佐賀藩兵は実質100余名にすぎず、まともに対処することができず、翌日に長崎奉行は要求を受け入れて、フェートン号は退去したのです。
 その責任を取って、長崎奉行松平康英は切腹自殺し、幕府に大きな衝撃を与えました。
 その後、蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要性を上申しましたが容れられず、逆に、江戸幕府は1825年(文政8) に「異国船打払令」を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐ契機となったのです。

〇「異国船打払令」とは?
 江戸幕府が、江戸時代後期に1825年(文政8)に出した外国船追放令で、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じたもので、「無二念打払令」または「文政の打払令」ともいいます。江戸幕府は、1806年(文化3)に漂流船には薪水を給与すると同時に、江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じていました。しかし、1808年(文化5)にフェートン号事件が起こり、日本近海にイギリスとアメリカの捕鯨船が頻繁に出没し始め、さらに1818年 (文政元) 、イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求したり、1824年(文政7)には常陸、薩摩などで外国船員が上陸するという事態も起こったのです。そこで、1825年(文政8)に、この法令によって、日本の沿岸に近づく外国船に対し、無差別に砲撃を加えて撃退することを命じました。そして、1837年(天保8)にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えたりしたのです。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられた情報が伝わると、急いで水野忠邦らがこれについて評議した末、老中真田幸貫の意見を容れて、同年にこれを廃止し、.元の薪水供給令に戻りました。
 以下に、全文を掲載しておきます。

 文政八酉年二月十八日
異国船渡来の節取計方、前々より数度仰出されこれ有り、おろしや船の儀に付いては、文化の度改めて相触れ候次第も候処、いきりすの船、先年長崎において狼籍に及び、近年は所々へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞、其上邪宗門に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮・西洋の儀は御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方におゐても異国船乗寄候を見請候はゞ、其所に有合候人夫を以て有無に及ばず一図に打払い、迯延候はゞ追船等差出に及ばず、其侭に差置き、若し押して上陸致し候はば、搦捕又は打留候ても苦しからず候。本船近寄り居り候はば、打潰し候共、是又時宜次第取計らるべき旨、浦方末々の者迄申含み、追て其段相届け候様、改て仰出され候間、其意を得、浦浦手立の儀は土地相応、実用専一に心掛け、手重過ぎ申さざる様、又怠慢もこれ無く、永続致すべき便宜を考へ、銘々存分に申付けらるべく候。
尤唐・朝鮮・琉球などは船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分けも相成かね申すべく、右等の船万一見損い、打誤り候共、御察度は之有間敷候間、二念無く打払いを心掛け、図を失わざる様取計らい候処、専用の事に候条、油断無く申付けらるべく候

『御触書天保集成』より
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、1918年(大正7)に富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こし、「米騒動」の始まりとされる日です。
 「米騒動」は、大正時代の1918年(大正7)に米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件です。
 第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰しました。
 その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。
 それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
 軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で寺内内閣は総辞職に追い込まれ、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。
 これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われています。
 以下に、当時の「米騒動」を報じた新聞記事の一部を掲載しておきます。

〇「米騒動」を報じた新聞記事

・「北陸タイムス」1918年(大正7)7月24日付
「下新川郡魚津町大字上下新猟師町民は主に漁を以て生命を繋ぎ居る者なるが此頃は漁の切れ目で左程収入がなく一方出稼の主人及家族よりも送金がないので,留守宅の妻子等は物価騰貴の影響を受けて糊口に困難する所より誰言ふとなく一つ党を与して役場へ救助方を迫らうでないかと発起したが何れもソレは良策なりと忽ち附和雷同し二十日未明同海岸に於て女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを逸早く魚津警察署に於て探知し巡査数名を同所へ派遣し其不心得を説諭して解散せしめ……」

・「富山日報」1918年(大正7)7月25日付
「下新川郡魚津町の漁民は近来の不漁続きに痛く困憊し、生活難を訴ふる声日に高まり、果ては不穏の形勢を醸すに至りしは昨報の如くなるが、二十三日も汽船伊吹丸が北海道行きの米を積み取る為入港し、艀船にて積込みの荷役中、かくと聞きし細民等は、そは一大事也、さなきだに価格騰貴せる米を他国へ持ち行かれては、品不足となり益々暴騰すべしとの懸念より、群を成して海岸に駆け付け米を積ませじと大騒動に及びし為、仲仕人夫も其気勢に恐れを懐き遂に積込みを中止したり、依って伊吹丸乗組員も此上群集せる細民と争うは危険なりと考え、目的の積込みを中止し早々に錨を抜いて北海道に向け出帆せり。」

・「東京朝日新聞」1918年(大正7)8月5日付
「富山県中新川郡西水橋町町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて、帰路の路銀にも差支ふる有様にて、生活頻る窮迫し、加ふるに昨今の米価暴騰にて、困窮愈其極に達し居れるが、三日午後七時漁夫町一帯の女房二百名は海岸に集合して三隊に分れ、一は浜方有志、一は町有志、一は浜地の米屋及び米所有者を襲い、所有米は他に売らざること及び此際義挾的に廉売を嘆願し、之を聞かざれば家を焼払ひ、一家を鏖殺すべしと脅迫し、事態頻る穏かならず。斯くと聞き東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるに、漸く午後十一時頃より解散せるも、一部の女達は米屋の附近を徘徊し米を他に売るを警戒し居れり。」

・「大阪毎日新聞」1918年(大正7)8月5日付
「高岡市内の十石以上米所有者の二日正午迄に届出たるもの六百七十八石にして三日締切り間際には三千石に達する見込みなるが案外在石の少きに当局も驚き居れり一方市内の米小売業者の少数の除き其大多数は持米の欠乏甚だしく売渡しを差し留め居るものあり四日以後は全く底ざらいとなるべし、一日来市内袋町平野五兵衛(多額納税者)が千三百石を所有せるより当業者一同平野方に詰め掛け売渡しを迫りつつあるも応ぜず憤慨の余り高岡警察に出頭平野に説諭を懇請し居れるが此の儘応ぜざれば由々敷大事発生せんとするやも知れず(高岡来電)」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、北海道の開拓使長官だった黒田清隆が、官有の施設・設備を安値で払い下げる決定を行ない、「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった日です。
 この事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が、1,400万円余を投じて得た船舶、工場、農園、倉庫、鉱山などの官有物を、開拓使上級官僚の結社や鹿児島出身の政商五代友厚らの関西貿易商会に38万7千余円、無利子30年賦で払い下げようとして政治問題化しものです。
 これに対し、薩摩閥が結託して公の財産を私するものだという世論のはげしい非難がおこりました。自由民権派の攻撃も鋭く、政府内では意見対立も深まったのです。
 その結果、追い詰められた政府は払下げを中止し、「国会開設の詔勅」を発するとともに、国会早期開設を唱えた筆頭参議大隈重信らの官吏を罷免し、政府部内の結束を固めました。
 この政府の変動を「明治十四年の政変」といい、薩長藩閥体制が確立することになります。またその後、黒田清隆も開拓使長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退くことになりました。
 そして、1882年(明治15)2月8日には、開拓使が廃止されることになり、これに伴って、函館県、札幌県、根室県が設置されることになります。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、1949年(昭和24)に下山事件の起きた日です。
 この事件は、第二次世界大戦後続いた、一連の国鉄ミステリー事件(三鷹事件、松川事件など)の一つで、昭和時代中期の1949年(昭和24)7月5日、当時の国鉄総裁下山定則が失踪し、翌日に国鉄常磐線北千住駅~ 綾瀬駅間(東京都足立区綾瀬)で汽車に轢断された遺体となって発見された事件です。
 失踪当時は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、職員62万3千余名の内12万413名の大規模な人員整理に着手し、前日に第1次整理3万700名の解雇通告を行ったばかりでした。
 この事件発生によって、左翼勢力による他殺説が流され、ストを含む反対闘争を決定していた国鉄労組の出鼻をくじき、さらには、民間企業の人員整理を有利に進めさせるという重大な影響を与えたのです。
 しかし半年後、警視庁は他殺説・自殺説ともに決め手のないままで捜査本部を閉じ、真相不明のまま1964年(昭和39)の時効成立で迷宮入りとなりました。
 作家の松本清張は『日本の黒い霧』で、当時の朝日新聞記者矢田喜美雄は著書『謀殺・下山事件』の中で、アメリカ軍防諜部隊の関与を唱えるなど、これに関する書物がいろいろと出されています。

〇当時の国鉄ミステリー事件の一覧

・庭坂事件(1948年4月27日) 奥羽線赤岩~庭坂間で発生
 脱線地点付近の線路継目板2枚、犬釘6本、ボルト4本が抜き取られていて、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・予讃線事件(1949年5月9日) 予讃線浅海 - 伊予北条駅間で発生
 脱線地点で、継ぎ目板2カ所4枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・下山事件(1949年7月6日) 常磐線北千住~綾瀬駅間で発生

・三鷹事件(1949年7月15日) 中央本線三鷹駅で発生
 中央本線三鷹駅構内で、無人列車が暴走して車止めに激突し、脱線転覆、突っ込んだ線路脇の商店街などで、6名が車両の下敷となって即死し、負傷者も20名出る大惨事となりました。国鉄労働組合員11人が共同謀議による犯行として逮捕・起訴されましたが、結局は元運転士の単独犯として死刑判決が言い渡され、獄死しました。しかし、冤罪ではなかったかとも言われ、その後長男による再審請求がなされています。

・松川事件(1949年8月17日) 東北本線松川~金谷川駅間で発生
 何者かによって当時の国鉄東北本線の旅客列車が転覆させられ、機関車の乗務員3人が死亡しました。それに関連して、東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の労働組合員等合計20名が、不当逮捕・起訴されたのです。一審、二審判決では、有罪(死刑含む)とされましたが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、全国的な支援活動もあって、1963年(昭和38)に、最高裁で被告全員の無罪が確定しました。しかし、真犯人は不明のままです。

・まりも号脱線事件(1951年5月17日) 根室本線新得~落合駅間で発生
 脱線地点では、レールの継ぎ目板を外し、レールを4 cmずらされていて、蒸気機関車が線路外に逸脱して宙吊りとなり、軽傷者1人を出しましたが、真相は不明です。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ