ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:事件

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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起きた日です。
 この事件は、東京で国家改造を目指す「皇道派」青年将校22名が、1,500名弱の陸軍部隊を率いて起こしたクーデター未遂事件です。
 軍内部では、「統制派」(統制経済による国家改造を計画する軍首脳幹部を中心とするグループ)と「皇道派」(特権階級を廃して天皇親政の実現を目指す青年将校グループ)の二大派閥が激しく対立していました。
 その中で、「皇道派」青年将校によって、2月26日未明に行動が起こされ、首相・蔵相官邸、警視庁はじめ、政府首脳や重臣の官・私邸、朝日新聞社などを襲撃し、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、教育総監渡辺錠太郎らを殺害、東京・永田町一帯を占拠しました。しかし、翌日東京市に戒厳令が公布され、28日に反乱部隊は「騒擾部隊」とされ、原隊復帰の奉勅命令が出されて、29日には鎮圧されます。
 その後、将校の大半は死刑となり、以後、統制派を中心とする軍部の発言権が強化されました。
 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が「思想犯保護観察法」を成立させ、軍部の政治的発言力が強まっていくことになります。

〇二・二六事件の経過

<2月26日>
・未明に将校たちは兵士約1480名を率い、武器弾薬を奪って蹶起する。
・岡田啓介内閣総理大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長など内閣の有力政治家や高級官僚達の邸宅を襲撃し、多くが殺害される。
・警視庁や朝日新聞社も襲撃し、永田町・霞ヶ関・赤坂など政治中枢部が占拠される。
・川島義之陸相に将校たちから蹶起趣意書が渡され、臨時内閣が発足して決起を認める陸軍大臣告示が出される。
・昭和天皇は、事件発生時から彼らを「暴徒」や「反乱軍」と見なし、早期の鎮圧を望み、軍部は鎮圧に動き出す。
・東京に戒厳令が命ぜられ(翌日施行)、石原莞爾が戒厳参謀に就く。

<2月27日>
・枢密院の審査を経て、東京に戒厳令が施行される
・夕方、弘前の第八師団にいた秩父宮は急遽上京し、高円宮とともに参内し、皇族は一致結束して天皇を支えることを誓う。

<2月28日>
・午前0時に反乱部隊に対して原隊復帰の奉勅命令が下る。
・赤坂周辺に鎮圧部隊の戦車隊が、東京湾には日本海軍の戦艦長門などの艦隊が集結する。

<2月29日>
・飛行機から投降を呼びかけるビラが撒かれる。
・午前前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した放送がされ、反乱部隊の武装解除が促がされる。
・「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンが挙げられる。
・将校たちは兵士を原隊に帰還させると共に、一部自決を図ったが、ほとんどは逮捕される。

<3月4日>
・東京陸軍軍法会議設置の緊急勅令が出される。

<3月10日>
・「統制派」が事件を利用し、林銑十郎ら「皇道派」指導格の4大将を追放(予備役に編入)して、発言権を強める。

<4月28日>
・一審制、非公開、弁護人なしの東京陸軍軍法会議が特設される。

<7月5日>
・主謀者の青年将校ら17名に死刑が言い渡される。

<7月12日>、
・磯部浅一、村中孝次を除く15名の死刑が執行される。

<8月14日>
・北一輝、西田税に死刑が言い渡される。

<8月19日>
・北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次の死刑が執行される。
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 今日は、1867年(慶応3)に、幕末の志士坂本龍馬が京都で暗殺(近江屋事件)された日ですが、新暦では12月10日となります。
 坂本龍馬は、江戸時代後期の1836年1月3日(天保6年11月15日)に、土佐の高知城下(現在の高知県高知市)で、町人郷士の父坂本直足と母幸の次男としてに生まれましたが、本名は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)でした。
 1848年(嘉永元)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、1853年(嘉永6)には、1年間江戸に遊学し、北辰一刀流千葉道場の門人となります。
 帰国してから、1861年(文久元)に、武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画しますが、あきたらず翌年に脱藩し、諸国を放浪したのち江戸に出て勝海舟の門に入りました。その中で、神戸海軍操練所開設に尽力し、塾頭をつとめたものの挫折します。
 その後、紆余曲折を経て、1865年(慶応元)年に土佐脱藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成しました。船を運用しての商業活動を進める一方、討幕のために対立する薩摩と長州を結びつける政治活動を行い、翌年1月には京都で薩長同盟を結ばせることに成功します。
 後藤象二郎と共に練った「船中八策」により、前藩主山内容堂を説いて大政奉還建白を引き出し、1867年(慶応3)10月の徳川慶喜の大政奉還に結実しました。
 そして、「船中八策」を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の構築を構想したものの、同年11月15日に京都近江屋で中岡慎太郎(2日後に死亡)と共に襲われ、33歳の若さで亡くなったのです。

〇「新政府綱領八策」(全文)1867年(慶応3年11月)

新政府綱領八策  

第一義
天下有名ノ人材ヲ招致シ 顧問ニ供フ
第二義
有材ノ諸侯ヲ撰用シ 朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ 現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義
外国ノ交際ヲ議定ス
第四義
律令ヲ撰シ 新ニ無窮ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ 諸侯会盟ノ日ヲ待ッテ云々○○○自ラ盟主ト為リ 此ヲ以テ朝廷ニ奉リ 始テ天下万民ニ公布云々 強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス 権門貴族モ貸借スル事ナシ
 慶応丁卯十一月
     坂本直柔

                      国立国会図書館デジタルコレクション「石田英吉関係文書」より

<現代語訳>

新政府綱領八策

第一義
 世の中のすぐれた人材を招いて、顧問にする
第二義
 すぐれた人材の大名を撰んで用い、朝廷の官爵を授け、今となっては有名無実となっている官を除く
第三義
 外国との外交・貿易を取り決める
第四義
 今までの律令を検討し、新しく国家の基本となる法律(憲法)を定める。律令が定まったならば、諸大名は皆これに従って家来を引率する
第五義
 二院制の議会          
第六義
 海陸軍局
第七義
 護衛兵
第八義
 日本の現在の金銀の交換比率や物価を外国と同じようにする

右あらかじめ二三の有識者と会議を開いて決定し、諸侯が集まって盟約を結ぶ日を待つてという話である。○○○自ら同盟の主催者といつわって、これを以て朝廷に献上し、はじめて天下萬民に公布したという話である。強く抗い非礼な者、公平な議論に違う者は、きっぱりと征伐する。権力・勢力のある家や身分や家柄の尊い人も容赦する事はない。

慶応丁卯十一月 坂本直柔

【注釈】
 [1]議定:ぎてい=会議を開いて事を決定すること。
 [2]無窮:むきゅう=きわまりのないこと。永遠。無限。
 [3]大典:たいてん=国の根本的法律。憲法。
 [4]上下議政局:じょうげぎせいきょく=上院・下院、つまり二院制議会のこと。
 [5]親兵:しんぺい=君主などの護衛として、その身近に置く兵。
 [6]皇国:こうこく=天皇の治める国、つまり日本のこと。
 [7]明眼士:みょうがんし=物事の真実を明らかに見通せる人。有識者。
 [8]諸侯会盟:しょこうかいめい=諸侯または各国の使臣などが集まって盟約を結ぶこと。
 [9]盟主:めいしゅ=同盟の主宰者。同盟の中で中心となる人。
 [10]強抗非礼:きょうこうひれい=強く抗い、非礼なこと。
 [11]公議:こうぎ=公平な議論。
 [12]権門貴族:けんもんきぞく= 官位が高く権力・勢力のある家や身分や家柄の尊い人。
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、いわゆる自由民権運動における激化諸事件の一つである秩父事件が起きた日です。
 埼玉県秩父地方では、松方デフレ政策の影響を受けて、米や生糸相場が暴落し、高利貸からの多額の負債のため、生活がとても困窮しました。
 そこで、旧自由党左派の指導の下に井上伝蔵らを幹部として1884年(明治17)8月に困民党を結成します。そして、田代栄助を総裁として、高利貸への返済延長や村民税の減税などを要求し、陳情、請願を続けました。
 ところが、一向にらちが明かず、万策尽きた農民は、困民党のもとにやむにやまれず立ち上がることになったのです。
 1884年(明治17年)10月31日に、風布村琴平神社集会後、金崎村永保社の襲撃が起こり、「秩父事件」がはじまりました。翌日、下吉田村椋神社に約3,000名が終結し、大宮郷へ入って、郡役所を占拠し本陣とし、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を要求します。
 しかし、明治政府による警官隊と軍隊を使った徹底した弾圧によって押さえ込まれ、10日にわたる抵抗の後、鎮圧されました。この中で、30名以上が戦死し、警察官5名が殉職、その後の裁判の結果、死刑12名を含む計3,821名が処罰されたのです。
 秩父地方を巡ると音楽寺、椋神社、田代栄助の墓などにその足跡を見い出し、自由民権の先駆けになって処刑された人々のことを考えずにはおられませんでした。
 この事件については、2004年(平成16)公開の映画「草の乱」(神山征二郎監督)に描かれています。その撮影時に使用された、オープンセットの中の井上伝蔵邸が「秩父事件資料館」として、吉田町の「龍勢会館」に隣接して残されていて、貴重な資料を見ることができます。

〇秩父事件関係年表

<1883年(明治16)>
・12月 高岸善吉ら秩父郡役所に高利貸説諭方を請願する
<1884年(明治17)>
・2月 大井憲太郎が秩父を遊説(自由党へ多数が入党)
・8月 困民党の山野集会始まる
・9月6日 田代栄助が困民党に加わる
・9月30日 大宮警察署に高利貸説諭を請願
・10月4日 高利貸への集団交渉を開始する
・10月26日 困民党の武装蜂起を決定する
・10月30日 上日野沢村小前会議(戦術を練る)
・10月31日 風布村琴平神社集会後、金崎村永保社を襲撃(秩父事件はじまる)
・11月1日 下吉田村椋神社に約3,000名が終結し、夜小鹿野へ行く
・11月2日 大宮郷へ入り郡役所を占拠し本陣とする(総勢7千~1万名)
・11月3日 警察署・郡役所・裁判所を焼き、東京憲兵隊が出動し交戦
・11月4日 困民党軍は皆野本陣を解体、金屋の戦いで敗退する
・11月5日 軍隊・警官隊が大宮郷を奪還する
・11月6日 困民党軍数百名が長野県佐久地方へ進む
・11月9日 長野県佐久郡の東馬流の戦いで敗れて困民党軍は壊滅する
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺された日です。
 伊藤博文は、幕末から明治時代に活躍した政治家で、幼名は利助、のち俊輔、博文は諱です。
 1841年(天保11)に、周防(現在の山口県)の貧農の家に生まれました。後に、父が伊藤家を継いで、士分となりました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に挺身することになります。1863年(文久3)イギリスに留学しましたが、帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍しました。
 1871年(明治4)岩倉遣欧使節団の全権副使となり、大久保利通の没後は、内務卿となります。その後、大日本帝国憲法の立案に当たり、1885年(明治18)に内閣制度を創設して、初代総理大臣となりました。
 枢密院・貴族院の初代議長を歴任し、のち、立憲政友会を組織して、総裁に就任します。日露戦争後、初代韓国統監となりましたが、1909年(明治42)10月26日、69歳の時にハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺されました。

〇明治時代の内閣総理大臣一覧

1. 伊藤博文(第1次伊藤内閣) 1885年12月22日~1888年4月30日
2. 黒田清隆(黒田内閣) 1888年4月30日~1889年10月25日
3. 山縣有朋(第1次山縣内閣) 1889年12月24日~1891年5月6日
4. 松方正義(第1次松方内閣) 1891年5月6日~1892年8月8日
5. 伊藤博文(第2次伊藤内閣) 1892年8月8日~1896年8月31日
6. 松方正義(第2次松方内閣) 1896年9月18日~1898年1月12日
7. 伊藤博文(第3次伊藤内閣) 1898年1月12日~1898年6月30日
8. 大隈重信(第1次大隈内閣) 1898年6月30日~1898年11月8日
9. 山縣有朋(第2次山縣内閣) 1898年11月8日~1900年10月19日
10.伊藤博文(第4次伊藤内閣) 1900年10月19日~1901年5月10日
11.桂太郎(第1次桂内閣) 1901年6月2日~1906年1月7日
12,西園寺公望(第1次西園寺内閣) 1906年1月7日~1908年7月14日
13.桂太郎(第2次桂内閣) 1908年7月14日~1911年8月30日
14.西園寺公望(第2次西園寺内閣) 1911年8月30日~1912年12月21日
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 今日は、江戸時代末期の1862年(文久2)に、生麦事件の起きた日ですが、新暦では9月14日となります。
 この事件は、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。
 薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ,続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。
 
〇「薩英戦争」とは?
 江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘です。
 1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求しました。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めたのです。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となりました。
 戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰ったのです。
 同年11月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになりました。
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