
四条天皇(しじょうてんのう)は、京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれましたが、名は秀仁(みつひと)と言いました。同年4月11日に親王宣下され、10月28日には、後堀河天皇の皇太子に立てられます。
1232年(貞永元)に鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まった時で、同年に数え年2歳で、第87代とされる天皇として即位し、九条教実が摂政となり、父・後堀河上皇が院政を敷きました。1233年(天福元)に母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなり、翌年には父・後堀河上皇も亡くなります。
1235年(文暦2)に外祖父の九条道家が摂政となり、その舅の西園寺公経と共に、事実上の政務を行うこととなりました。1237年(嘉禎3)に近衛兼経が摂政となりましたが、1241年(仁治2に)に天皇が元服すると、近衛兼経が太政大臣となります。
同年に、九条彦子(九条道家の孫娘)を女御としたものの、1242年(仁治3年1月9日)に、京都において、数え年12歳で亡くなり、陵墓は京都の月輪陵(京都市東山区今熊野)とされました。
1232年(貞永元)に鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まった時で、同年に数え年2歳で、第87代とされる天皇として即位し、九条教実が摂政となり、父・後堀河上皇が院政を敷きました。1233年(天福元)に母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなり、翌年には父・後堀河上皇も亡くなります。
1235年(文暦2)に外祖父の九条道家が摂政となり、その舅の西園寺公経と共に、事実上の政務を行うこととなりました。1237年(嘉禎3)に近衛兼経が摂政となりましたが、1241年(仁治2に)に天皇が元服すると、近衛兼経が太政大臣となります。
同年に、九条彦子(九条道家の孫娘)を女御としたものの、1242年(仁治3年1月9日)に、京都において、数え年12歳で亡くなり、陵墓は京都の月輪陵(京都市東山区今熊野)とされました。
〇四条天皇関係略年表
・1231年(寛喜3年2月12日) 京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれる
・1231年(寛喜3年4月11日) 親王宣下される
・1231年(寛喜3年10月28日) 後堀河天皇の皇太子に立てられる
・1232年(貞永元年8月10日) 鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まる
・1232年(貞永元年10月4日) 2歳の時、父・後堀河天皇の譲位に伴って践祚、九条教実が摂政となる
・1232年(貞永元年12月5日) 第87代とされる天皇として即位したが、父・後堀河上皇が院政を敷く
・1233年(天福元年9月18日) 母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなる
・1234年(天福2年8月6日) 父・後堀河上皇が亡くなる
・1235年(文暦2年3月28日) 九条道家が摂政となる
・1237年(嘉禎3年) 近衛兼経が摂政となる
・1241年(仁治2年1月5日) 元服し、近衛兼経が太政大臣となる
・1241年(仁治2年12月13日) 九条彦子を納れて女御とする