
中御門天皇(なかみかどてんのう)は、京都において、東山天皇の第5皇子(母は藤原賀子)として生まれましたが、名は慶仁(やすひと)と言いました。1707年(宝永4)に儲君に治定されて、親王宣下し、1708年(宝永5)に立太子します。
同年6月21日に、父・東山天皇の譲りを受けて践祚し、翌年11月に数え年9歳で、第114代とされる天皇として即位式が行われましたが、霊元上皇、東山上皇が院政を行いました。閑院宮創設、朝儀再興にみられるように江戸幕府とは協調関係にあり、第6代将軍徳川家宣から第7代家継を経て第8代吉宗にわたって良好な関係が続きます。
1711年(正徳元)に元服の儀が行われ、1716年(享保元)には、近衛尚子(摂政関白太政大臣近衛家熙の娘)が入内し、女御宣下を受けました。1729年(享保14)に第8代将軍徳川吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けています。
朝儀に対する関心が深く、古記録から朝儀の記事を抄出、分類した『公事部類』などを著し、また多才で知られ、管絃(特に笛)、和歌、書道を能くしたものの、1735年(享保20)には、皇太子昭仁親王(桜町天皇)に譲位し、太上天皇となりました。しかし、1737年(元文2年4月11日)に京都において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都泉涌寺内月輪陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。
同年6月21日に、父・東山天皇の譲りを受けて践祚し、翌年11月に数え年9歳で、第114代とされる天皇として即位式が行われましたが、霊元上皇、東山上皇が院政を行いました。閑院宮創設、朝儀再興にみられるように江戸幕府とは協調関係にあり、第6代将軍徳川家宣から第7代家継を経て第8代吉宗にわたって良好な関係が続きます。
1711年(正徳元)に元服の儀が行われ、1716年(享保元)には、近衛尚子(摂政関白太政大臣近衛家熙の娘)が入内し、女御宣下を受けました。1729年(享保14)に第8代将軍徳川吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けています。
朝儀に対する関心が深く、古記録から朝儀の記事を抄出、分類した『公事部類』などを著し、また多才で知られ、管絃(特に笛)、和歌、書道を能くしたものの、1735年(享保20)には、皇太子昭仁親王(桜町天皇)に譲位し、太上天皇となりました。しかし、1737年(元文2年4月11日)に京都において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都泉涌寺内月輪陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。
<中御門天皇の代表的な歌>
・「わが代にも ところをえてや 民までも 心のどかに 春をたのしむ」(享保15年御会始)
・「時しあれは 人の国なる けたものも けふ九重に みるがうれしさ」
〇中御門天皇関係略年表
・1702年(元禄14年12月17日) 京都において、東山天皇の第5皇子(母は藤原賀子)として生まれる
・1707年(宝永4年3月) 儲君に治定される
・1707年(宝永4年4月) 親王宣下される
・1708年(宝永5年2月) 立太子する
・1708年(宝永6年6月21日) 父・東山天皇の譲りを受けて践祚する
・1709年(宝永7年) 閑院宮創設、朝儀再興が行われる
・1709年(宝永7年11月11日) 即位式が挙行される
・1710年(宝永6年12月17日) 父・東山上皇が亡くなる
・1711年(正徳元年1月1日) 元服の儀が行われたが、天皇元服の儀は近来稀なことであった
・1716年(享保元年11月13日) 近衛尚子(摂政関白太政大臣近衛家熙の娘)が入内し、女御宣下を受ける
・1720年(享保5年1月1日) 第1皇子昭仁親王(後の桜町天皇)が生まれる
・1729年(享保14年) 第8代将軍徳川吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受ける
・1732年(享保17年8月6日) 祖父・霊元上皇が亡くなる
・1735年(享保20年3月21日) 皇太子昭仁親王(後の桜町天皇)に譲位し、太上天皇となる