
和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。