ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:下関事件

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 今日は、幕末の1863年(文久3)に江戸幕府が攘夷実行日とし、諸藩に通達したことをもって、長州藩が外国船に対し砲撃を開始した(下関事件)日ですが、新暦では6月25日となります。
 下関事件(しものせきじけん)は、攘夷親征の朝旨を実現するため、江戸幕府の攘夷実行開始期日の5月10日に、長州藩が下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え、さらに同月23日にフランス軍艦、25日にオランダ軍艦にも砲撃した事件でした。この結果、同年6月5日に報復として、アメリカとフランスの軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃します。
 しかし、長州藩は攘夷の態度を続け、翌元治元年7月19日に兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される「禁門の変(蛤御問の変)」を起こしました。ところが、長州勢は完敗し、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃するなど急進的指導者の大半を失うこととなり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失します。
 これを機に、長州藩は朝敵となり、江戸幕府の第一次長州征伐が行われることになりました。尚、イギリス・フランス・オランダ・アメリカは再び報復のため、同年7月27日・28日に、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする4ヶ国連合艦隊を横浜から出港させ、関門海峡に至って、8月5日から砲撃を始めます。
 長州藩側も応戦したものの、戦力に大きな開きがあり、8日までに長州藩の砲台は破壊されたり、上陸した4ヶ国側の兵員に占拠される「四国連合艦隊砲撃事件」が起こりました。そこで、長州藩は8月8日に講和使節の使者に高杉晋作を任じ、4ヶ国連合艦隊との交渉を進め、同月18日に下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立します。
 これらの戦争を通じて列国の軍事力を目の当たりにした長州藩は、列国に接近しつつ、強力な統一国家建設を目指して、倒幕運動に向かうことになりました。

〇「下関事件」関係略年表(日付は旧暦です)

<1853年(嘉永6)>
・7月8日 ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る

<1854年(安政元)>
・3月31日 江戸幕府は「日米和親条約」を締結する

<1858年(安政5)>
・7月29日 アメリカの強い要求により、江戸幕府は「日米通商修好条約」を締結する
 以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ(安政五ヶ国条約)

<1860年(万延元)>
・3月3日 水戸・薩摩脱藩浪士によって、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

<1861年(文久元)>
・3月 直目付長井雅楽が藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として「航海遠略策」を建白する
 以後、公武合体策を藩論としようとする

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日(諸藩にも通達)とし、長州藩がアメリカ商船に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月23日 長州藩がフランス軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月25日 長州藩がオランダ軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する(下関事件)
・7月2~4日 薩英戦争が起きる

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1900年(明治33)鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
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 今日は、幕末の1866年(慶応2)に、英・米・仏・蘭の4ヶ国と「改税約書」(別名:江戸条約)が結ばれた日ですが、新暦では6月25日となります。
 この条約は、「安政五か国条約付属貿易章程」の改訂協約で、江戸において締結されたので、別名「江戸条約」とも呼ばれていました。
 1863年(文久3)に長州藩がアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃した下関事件に関連して、1865年(慶応元年9月)に、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英・仏・米・蘭) の威嚇により、1866年(慶応2年5月13日)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国との間に結ばれたものです。
 4ヶ国は、上京していた第14代将軍徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに、1858年(安政5)に結んだ「修好通商条約」の勅許、兵庫開港、関税率低減を要求しました。
 これに対し、幕府は兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ要求に応じるほかなくなります。そして、輸入税に関して、「修好通商条約」の5~35%の従価税を廃止し、4ヵ年平均価格を原価とする一律5%を基準とする従量税とされ、きわめて不利な関税率となります。
 これによって、安価な外国商品が日本市場に流入し、産業資本の発達が厳しく阻害されることとなりました。
 その他、無税倉庫の設置や外国向け輸出品の国内運送非課税、貿易制限の撤去などがあわせて規定されます。
 この後、明治時代における条約改正の主目標となり、ようやく1894年(明治27)に廃棄されました。
 尚、この条約第11条「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふへし」(灯明台規定)により、灯台を建設することを約束させられ、日本で初となる洋式灯台が8ヶ所(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)建設されることとなります。

〇「改税約書」(全文) 1866年(慶應2年5月13日)調印

慶應二年五月十三日(西曆千八百六十六年六月廿五日)英佛米蘭四公使ト於江戶各國文ヲ以テ五通ニ認メ各通ニ連名調印(日、佛、英、蘭文)

日本安政五戊午(西洋千八百五十八年)日本政府と大貌利太泥亞、佛蘭西、亞米利加合衆國、荷蘭、四箇國と取結ひ條約に添たる交易規則第七則に定め置し通り其輸入輸出の運上目錄を改むへき旨右四箇國の名代人夫々の政府より一樣の命令を受け且又日本慶應元年乙丑十月(西洋千八百六十五年第十一月)四箇國の名代人大坂に赴きし折日本政府より輸入輸出の諸品都て價五分の運上を基本とし右運上目錄を猶豫なく改むへき趣を約束し將日本政府は外國との交易を盛んにし和親の交際益篤からん事を欲するの證を更に顯はさんか爲め日本外國事務老中水野和泉守殿大貌利太泥亞の名代人シル、ハルリー、エス、パークス佛蘭西の名代人モツシュル、レオンロセス亞米利加合衆國の名代人エ、ル、シ、ポルトメン、エスクワイル荷蘭の名代人モツシュユル、ド、デ、ガラーフ、ファン、ポルスブルツク合議の上左の十二條を決定せり

 第一條

各政府の名代として此度約書を議定せし全權は此約書に添たる運上目錄を採用し各政府の臣民皆堅く之を遵奉すへき事とせり

其運上目錄は日本と右四箇國と取結たる條約に添たる元の運上目錄に代るのみならす又日本政府と大貌利太泥亞、佛蘭西、亞米利加合衆國政府、と是迄度々取結たる右運上目錄に關係せる別約にも代れるものとす右新運上目錄取行ふ事神奈川に於ては日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)より長崎箱館に於ては同六月廿一日(第八月一日)よりとす

 第二條

此度の約書に添たる運上目錄は調印の日より日本と右四箇國と取結たる條約の內に倂せたれは日本來壬申年中(西洋千八百七十二年第七月一日)に至り改むへしと雖も茶生絲運上の分は此度の約書調印より二箇年の後雙方の內何れの方よりなりとも六箇月前に告知し前三箇年中平均相場の五分に基き之を改る事を求むへし又材木の運上は此度の約書調印より六箇月後に告知して時相場に從ひ運上を納る事を改めて品物に從ひ運上高を定むる事を得へし

 第三條

元條約に添たる交易規則の第六則に從ひ是迄取立來れる免狀料は此度より相廢せり尤荷物陸揚船積に付ての免狀は是迄通りたるへしと雖も以後は其謝銀を出す事なかるへし

 第四條

神奈川於て日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)長崎箱館於て日本慶應二年丙寅八月二十三日(西洋千八百六十六年第十月一日)より日本政府輸入する者の求に應し運上を納る事なく其輸入品を藏に入置用意を爲すへし日本政府にて其品を預り置間は盗難並風雨の損害なき樣引受へし尤火難は政府にては引受すと雖も外國商人共右荷物火難の受合十分出來すへき樣堅固の土藏を取建へし就ては荷物を輸入する人又は荷主之を藏より引取んとする時は運上目錄通りの運上を拂ふへし其品物を再ひ輸出せんと欲する時は輸入運上を納むるに及はす荷物を引取る節は何れにも藏敷を拂ふへし右藏敷高並貸藏取扱向規則は雙方相談の上議定すへし

 第五條

日本の產物は運送の陸路水路修復の爲諸商賣に付て取立る通例の運上の外は別に運送運上を納むる事なく日本の內何れの地よりも外國交易の爲開きたる各港へ運送する事勝手たるへし

 第六條

日本と外國との條約中に外國貨幣は日本貨幣と同種同量の割合を以て通用すへしと取極たる箇條に從ひ是迄日本運上所にて墨是哥ドルラルを以て運上を納むる時は壹分銀の量目に比較しドルラル百枚を一分銀三百十一个の割合を以て請取來れり然る處日本政府に於て右仕來を改め總て外國の貨幣日本の貨幣と引替る事に障りなき樣にし又日本通用の貨幣を不足なき樣にし交易を便利にせん事を欲するにより日本金銀吹立所を盛大にせん事を旣に決せり然る上は日本人又は外國人より差出すへき總て外國金銀貨幣並地金は日本貨幣に吹替へ其諸雜費を差引其質の眞位を以て其爲め定めたる場所に於て引替んとす此處置を行ふ爲め日本と條約を取締ひし各國は其條約に書載たる貨幣通用に關係せる箇條を改むる事緊要なれは右箇條を改むる樣日本政府より申談し承諾の上日本來丁卯年十一月中(西洋千八百六十八年第一月一日)より其處置を取行へし

吹替の雜費として取立へき高の割合は向後雙方の全權協議の上定むへし

 第七條

運上所諸取扱向荷物の陸揚船積及ひ船人足小遣等雇方に付開港場に於て是迄訴出たる不都合を除かんか爲に各開港場の奉行速に外國のコンシュルと談判に及ひ雙方協議の上右の不都合決して無之樣規則を立て交易の道並各人の所務を可成丈容易くし且安全ならしむる樣雙方爰に議定せり

右規則の內には各港に於て外國人荷物陸揚船積の爲に用ふる波戶場の內にて荷物雨露に損せさる樣小屋掛を作ることを書入へし

 第八條

日本人身分に抅はらす日本開港場又は海外に於て旅客又は荷物を送るへき各種の帆前船蒸氣船共買入る〃事勝手たるへし尤軍艦は日本政府の免許なけれは買入るる事を得す

日本人買入たる諸外國船は蒸氣船は一噸に付一分銀三箇帆前船は一噸に付一分銀一箇の運上を定通り相納る時は日本の船として船藉に書載すへし尤其船の噸數を定むる爲め日本長官の需に應し其筯のコンシュルより本國の船目錄の寫を相示し其眞を證すへし

 第九條

日本と右四箇國と取結ひたる條約且日本政府の使節日本文久二年壬戍五月九日(西洋千八百六十二年第六月六日)大貌利太泥亞政府へ送れる覺書及ひ同𨳝八月十三日(第十月六日)佛蘭西政府へ送れる覺書に載せたる別約に從ひ日本人と外國人と交易又は交通する事の妨を全く除くへき趣を以て日本政府より旣に觸書を逹したり就ては日本の諸商人政府役人の立合なく相對に日本の開港場及ひ此約書中第十條に載せたる仕方にて海外へ出る許しを得れは各外國に於ても外國商人と交易する事勝手たるへく尤日本商人通例商賣に付て取立る運上より餘分は日本政府へ收むる事なし且諸大名並に其使用する人々現在取締の規則を守り定通の運上を納る時は日本役人の立合なく諸外國又は日本の諸開港場に赴き其場所にて交易する事右同樣勝手次第たるへし

 第十條

日本人身分に抅はらす日本の開港場又は各外國の港々より日本の開港場又は各外國の港々に赴くへき日本人所持の船又は條約濟外國船にて荷物を積入るゝ事勝手たるへし且旣に日本慶應二年丙寅四月九日(西洋千八百六十六年第五月廿三日)日本政府より觸書を以て布告せし如く其筋より政府の印章を得れは修行又は商賣する爲め各外國に赴く事並に日本と親睦なる各外國の船中に於て諸般の職事を勤むること故障なし外國人雇置く日本人海外へ出る時は開港場の奉行へ願出政府の印章を得る事妨けなし

 第十一條

日本政府は外國交易の爲め開きたる各港最寄船々の出入安全のため燈明臺浮木瀨印木等を備ふへし

 第十二條

此約書取行ふ以前雙方政府許允の沙汰を待に及はさる故日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)より取行ふへし

右約書を政府許允の上は雙方全權其段互に通逹すべし右通逹の書面は雙方

君主保證の代りとす

此證據として前文全權此約書に名を記し調印せり

日本慶應二年丙寅五月十三日(西洋千八百六十六年第六月廿五日)江戶に於て雙方全權各其國語を以てこれを記せり

  水野和泉守 花押

 佛國全權公使

  レオン、ロセス 印

 英國特派全權公使

  ハリー、エス、パークス 印

 合衆國代理公使

  ヱ、エル、シ、ポルトマン 印

 蘭國目代兼

  コンシュルゼネラール

   ドデグラーフ、ファン、ポルスブルック 印


         『舊條約彙纂、第一卷第一部』外務省條約局編より
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