ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:三筆

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 今日は、平安時代前期の835年(承和2)に、平安時代の僧・真言宗の開祖空海(弘法大師)の亡くなった日ですが、新暦では4月22日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細


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 今日は、平安時代前期の842年(承和9)に、第52代の天皇とされる嵯峨天皇の亡くなった日ですが、新暦では8月24日となります。
 嵯峨天皇(さがてんのう)は、奈良時代の786年(延暦5年9月7日)に、第50代の天皇とされる桓武天皇の第2皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、名は神野(かみの)と言いました。799年(延暦18)に元服、幼いころから聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父に寵愛され、806年(大同元)に兄平城天皇の皇太弟となります。
 809年(大同4年4月1日)に兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位しますが、翌年3月9月に平城上皇が藤原仲成、藤原薬子にそそのかされて復位を企てる薬子(くすこ)の変が起こり、これを鎮圧しました。また、蔵人所や検非違使を設置し、律令制を修正・補足した弘仁格式を施行します。
 823年(弘仁14)に異母弟の淳和天皇に譲位、その後も仁明天皇(嵯峨皇子)の代に没するまで、上皇として朝廷を抑えました。政治的安定期を出現させ、宮廷を中心に唐風の文化が栄え、賀茂斎院をはじめ白馬節会などの儀礼、年中行事が整えられます。
 自身も詩文・書道をよくし、空海、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられましたが、842年(承和9年7月15日)に、数え年57歳で亡くなりました。

〇嵯峨天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・786年(延暦5年9月7日) 第50代の天皇とされる桓武天皇の第2皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・799年(延暦18年) 元服する
・806年(大同元年) 兄平城天皇の皇太弟となる
・809年(大同4年4月1日) 兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位する
・810年(弘仁元年3月) 蔵人所を設置し、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任命する
・810年(弘仁元年9月) 平城上皇が藤原仲成、藤原薬子にそそのかされて復位を企てる薬子の変が起こる
・810年(弘仁2年11月) 六衛府を改制する
・816年(弘仁7年) 検非違使を設置する
・820年(弘仁11年)、弘仁格式が成立する
・822年(弘仁13年) 最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認める
・823年(弘仁14年) 空海に東寺を賜う
・823年(弘仁14年4月16日) 異母弟の淳和天皇に譲位する
・833年(天長10年2月) 『令義解』が撰上される  
・833年(天長10年) 淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する
・842年(承和9年7月15日) 数え年57歳で亡くなる
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 今日は、平安時代前期の842年(承和9)に、貴族・官僚・書家橘逸勢の亡くなった日ですが、新暦では9月24日となります。
 橘逸勢は、生年ははっきりしませんが、参議・橘奈良麻呂の孫、右中弁・橘入居の末子として生まれました。
 その官歴はつまびらかではありませんが、804年(延暦 23)に、遣唐使の一員の留学生として、空海、最澄らと入唐しています。その才能から唐人たちに「橘秀才」と呼ばれ、801年(大同元)に帰国しました。
 その後、従五位下に叙せられ、840年(承和7 )には但馬権守となりました。しかし、842年(承和9年7月)嵯峨上皇が死の床にあったときに、皇太子恒貞親王を擁して東国入りを謀った事件(承和の変)において、伴健岑と共に首謀者とされます。
 それによって捕らえられ、伊豆へ流される途中に、遠江国板築の宿(現在の静岡県浜松市三ヶ日町)で非業の死を遂げました。
 8年後の850年 (嘉祥3) に、罪を許されて正五位下を、さらに3年後に従四位下を追贈されています。
 能書家で、後年空海、嵯峨天皇とともに三筆と称されるようになりました。
 平安京の大内裏の安嘉(あんか)・偉鑒(いかん)・達智(たっち)の三門の額は彼の筆に成るといわれ、また「伊都内親王願文」(御物)、「興福寺南円堂銅灯籠銘」の筆者と伝称されています。

〇三筆とは?

 日本の書道史上の優れた3人の能筆家のことをいい、一般的には、平安時代初期の嵯峨天皇、空海、橘逸勢の3人を指します。
 この初見は、江戸時代中期に書かれた貝原益軒編の『和漢名数』であると言われ、そんなに古いものではありません。
 空海と橘逸勢は、783年(延暦2)遣唐使にしたがって留学生として入唐し、唐文化と書法の修得に努めました。三筆の個性あふれる書の根底には、中国書法、とくに王羲之の影響が強くみられ、日本書道史の基礎を築いたとされています。
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