ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:三島通庸

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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、酒田県(現在の山形県庄内地方)で農民1万人が過納租税の返還を求める運動(ワッパ騒動)を起こした日です。
 ワッパ騒動(わっぱそうどう)は、1874年(明治7)に、酒田県(現在の山形県庄内地方)で起きた旧税法反対の農民運動です。1872年(明治5年8月)に、明治新政府は年貢米や雑税の石代納(金納)を全面的に許可しましたが、酒田県はこれを布達せず、農民に従来どおりの現物納を強制し、用達商人に換金させました。これに農民が反発し、一部の士族・商人が加わり、庄内地方全体を巻き込んで、1874年(明治7)9月の指導者100余人の逮捕から、農民ら1万数千人が県庁に押しかけ、大規模な一揆に拡大します。「納めすぎた額は農民一人当たりワッパ(曲げ物の弁当箱)1杯分のカネになる」の合言葉になりました。しかし、抜刀した開墾士族らによって鎮圧され、明治政府は酒田県令に三島通庸を任命し、弾圧を行ないます。農民側は戦術を転換し、森藤右衛門を中心に政府・元老院への建白書提出を繰り返し、さらに過納金返還等の14ヶ条の訴えをもって裁判闘争を展開しました。大審院の鶴岡での臨時裁判の末、1878年(明治11)6月3日、児島惟謙による判決で、農民側は6万3652円の還付金を獲得したものの、弾圧政策が続き、農民の成果は少なかったと言われています。

〇ワッパ騒動関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

<1871年(明治4)>
・第二次酒田県が成立し、県官のすべてが旧庄内藩士族に占められる

<1872年(明治5)>
・8月 明治新政府は年貢米や雑税の石代納(金納)を全面的に許可したが、酒田県はこれを布達せず、農民に従来どおりの現物納を強制し、用達商人に換金させる

<1873年(明治6)>
・3月 松平・菅等の横暴、開墾の強制、藩兵の維持等を司法省に訴える
・5月 酒田県上層部に批判的な士族金井質直・本多允釐等が県官の『奸悪十ヶ条』を司法省に訴える
・年末 農民は石代納許可を願い出、さらに過納金返還、雑税廃止要求、役人の不正を追及し、県政に批判的な金井質直などの改良派士族や森藤右衛門などの商人、地主が支援して独自の石代会社を設立し、金井県と称して酒田県と対抗しようとする

<1874年(明治7)>
・1月 最初に片貝村の上層農民で酒造業を営む鈴木弥右衛門が石代納嘆願書を提出する
・9月 指導者100余人が捕縛され、その奪回を求めて農民は酒田襲撃を企てて蜂起する
・10月 左院に建白書を提出して酒田県の改革を訴える
・11月 左院に建白書を提出して酒田県の改革を訴える
・12月 明治新政府は三島通庸を酒田県令に任命し、騒動の鎮圧、処理をさせるとともに酒田県政の確立をはかろうとする

<1875年(明治8)>
・1月 森藤右衛門は15ヶ条の建白書を三島に提出したが、拒否される
・2月 森藤右衛門は5名の農民とともに上京し、酒田県を被告として司法省に訴える
・5月~6月 森藤右衛門は3回にわたり元老院に建白活動を行なう
・7月 元老院が森の建白について垂問を開始する
・10月 元老院権大書記官沼間守一が鶴岡に派遣される
・11月 元老院の権限が縮小されたが、報告書は正院・司法省に引き渡される

<1876年(明治9)>
・4月中旬 司法省は沼間の調査報告書について審判するため、児島惟謙による司法省臨時出張裁判が鶴岡で開かれる

<1878年(明治11)>
・6月3日 児島惟謙による判決で、農民側は6万3652円の還付金を獲得する

<1879年(明治12)>
・酒田裁判所での組村費不正問題でも、村役人が1万5000円を農民に弁償する判決を得る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1552年(天文21)萱津の戦いが行われる(新暦9月4日)詳細
1622年(元和8)儒学者・軍学者・山鹿流兵法及び古学派の祖山鹿素行の誕生日(新暦9月21日)詳細
1868年(慶応4)長岡藩家老河井継之助の命日(新暦10月1日)詳細
1938年(昭和13)ナチの青年団であるヒトラー・ユーゲント訪日団が横浜港に到着する詳細
1940年(昭和15)東京市下で隣組を通じた回覧板による文書の回覧が始まる詳細
1943年(昭和18)東京都が上野動物園に猛獣の処分を指令する詳細
2017年(平成29)「水銀に関する水俣条約」が発効する詳細
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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、「保安条例」が公布・施行された日です。
 「保安条例(ほあんじょうれい)」は、自由民権運動の弾圧を意図した治安維持のための勅令(明治20年勅令第67号)でした。第一次伊藤博文内閣の井上馨外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で1887年(明治20)にいちおうの妥結をみましたが、日本の法権を侵害する屈辱的なものとして、自由民権派の政府攻撃が高まります。
 その中で、大同団結運動(自由民権運動各派による統一運動)がおこり、三大事件建白(言論集会の自由、地租軽減、外交挽回)運動が展開され、倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋内相、三島通庸警視総監の下で突如、この勅令が制定されました。全7条からなり、 (1) 秘密結社や秘密集会の禁止、(2) 屋外での集会に対する警察官の集会禁止権、(3) 内乱陰謀、治安妨害に供される文書・図書の出版用機器の全般的没収、(4) 内乱を陰謀、教唆し、または治安を妨害するおそれのある者の皇居ないしは行在所外3里 (11.8km) の地への退去、(5) 一定地域での全般的な集会禁止、旅行、移動の自由を制限する権限を警察官に与えることなどを規定しています。
 これが公布・施行された日から数日間に、星亨、尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、林有造ら自由民権派の論客570名に退去命令が出て、片岡ら抵抗者は投獄されました。これらのことから、「治安警察法」や「治安維持法」と共に、戦前日本における弾圧法の一つとされています。
 その後も発動されましたが、1898年(明治31)6月25日の「保安条例廃止法律」(明治31年法律第16号)により廃止となりました。
 以下に、「保安条例」全文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「保安条例」 (全文) 1887年(明治20)12月25日裁可、翌日公布・施行 全7条

朕惟フニ今ノ時ニ当リ大政ノ進路ヲ開通シ臣民ノ幸福ヲ保護スル為ニ妨害ヲ除去シ安寧ヲ維持スルノ必要ヲ認メ茲ニ左ノ条例ヲ裁可シテ之ヲ公布セシム

第一条 凡ソ秘密ノ結社又ハ集会ハ之ヲ禁ス犯ス者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其首魁及教唆者ハ二等ヲ加フ
2 内務大臣ハ前項ノ秘密結社又ハ集会又ハ集会条例第八条ニ載スル結社集会ノ聯結通信ヲ阻遏スル為ニ必要ナル予防処分ヲ施スコトヲ得其処分ニ対シ其命令ニ違犯スル者罰前項ニ同シ

第二条 屋外ノ集会又ハ群集ハ予メ許可ヲ経タルト否トヲ問ハス警察官ニ於テ必要ト認ムルトキハ之ヲ禁スルコトヲ得其命令ニ違フ者首魁教唆者及情ヲ知リテ参会シ勢ヲ助ケタル者ハ三月以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其附和随行シタル者ハ二円以上二十円以下ノ罰金ニ処ス
2 集会者ニ兵器ヲ携帯セシメタル者又ハ各自ニ携帯シタル者ハ各本刑ニ二等ヲ加フ

第三条 内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ目的ヲ以テ文書又ハ図書ヲ印刷又ハ板刻シタル者ハ刑法又ハ出版条例ニ依リ処分スルノ外仍其犯罪ノ用ニ供シタル一切ノ器械ヲ没収スヘシ
2 印刷者ハ其情ヲ知ラサルノ故ヲ以テ前項ノ処分ヲ免ルルコトヲ得ス

第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得
2 退去ノ命ヲ受ケテ期日又ハ時間内ニ退去セサル者又ハ退去シタルノ後更ニ禁ヲ犯ス者ハ一年以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ仍五年以下ノ監視ニ付ス
3 監視ハ本籍ノ地ニ於テ之ヲ執行ス

第五条 人心ノ動乱ニ由リ又ハ内乱ノ予備又ハ陰謀ヲ為ス者アルニ由リ治安ヲ妨害スルノ虞アル地方ニ対シ内閣ハ臨時必要ナリト認ムル場合ニ於テ其一地方ニ限リ期限ヲ定メ左ノ各項ノ全部又ハ一部ヲ命令スルコトヲ得
 一 凡ソ公衆ノ集会ハ屋内屋外ヲ問ハス及何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラス予メ警察官ノ許可ヲ経サルモノハ総テ之ヲ禁スル事
 二 新聞紙及其他ノ印刷物ハ予メ警察官ノ検閲ヲ経スシテ発行スルヲ禁スル事
 三 特別ノ理由ニ因リ官庁ノ許可ヲ得タル者ヲ除ク外銃器短銃火薬刀剣仕込杖ノ類総テ携帯運搬販売ヲ禁スル事
 四 旅人ノ出入ヲ検査シ旅券ノ制ヲ設クル事

第六条 前条ノ命令ニ対スル違犯者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮又ハ五円以上二百円以下ノ罰金ニ処ス其刑法又ハ其他特別ノ法律ヲ併セ犯シタルノ場合ニ於テハ各本法ニ照シ重キニ従ヒ処断ス

第七条 本条例ハ発布ノ日ヨリ施行ス

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、自由民権運動の激化事件の一つ加波山事件が起きた日です。
 加波山事件(かばさんじけん)は、福島県令三島通庸(みしまみちつね)と政府高官の暗殺を計画して、自由党急進派が茨城県加波山に蜂起した事件でした。1882年(明治15)以来のいわゆる松方デフレ政策よによる米価の暴落と増税による、中・貧農層の急激な没落を背景に、福島県令三島通庸の自由民権運動弾圧を契機としています。
 1882年(明治15)の福島事件で弾圧された後、翌年4月に釈放された河野広体(こうのひろみ)、小針重雄(こばりしげお)、三浦文治(みうらぶんじ)ら若き福島自由党員は、宿敵の福島県令三島通庸を暗殺しようと計画して上京、政府転覆を企てていた栃木県自由党員鯉沼九八郎らと結び大臣顕官の暗殺を計画しました。9月に栃木県庁落成時に集まる予定となっていた、三島通庸県令や太政大臣三条実美らを爆殺する計画でしたが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆して、計画が明らかになります。
 そこで、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、9月23日に「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げて16名が決起、下山して警察署を襲撃、次いで宇都宮の県庁を襲う途中警官と交戦、多数が検挙され、数日で鎮圧されました。その後の裁判の結果、小針、三浦ら7名が死刑、河野ら7名が無期徒役(他に戦死1名、公判前死去1名)となっています。

〇自由民権運動とは?

 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まりました。それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細


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