ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:三井三池炭鉱

mitsuimiiketankou001
 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、福岡県の三井三池炭鉱が閉山し、124年の歴史を閉じた日です。
 三井三池炭鉱(みついみいけたんこう)は、福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていました。
 明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発します。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成しました。
 太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に三井三池争議が勃発して、大きな社会問題となります。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出しました。
 その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至ります。閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されました。
 また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されます。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されました。

〇三井三池炭鉱関係略年表

・1469年(応仁3) 農夫の伝治左衛門が三池郡稲荷(とうか)村の稲荷山(現在の大牟田市大浦町付近)で「燃ゆる石」(石炭)を発見したとされる
・1721年(享保6) 柳河藩家老、小野春信が藩主より土地を拝領し、平野鷹取山(高取山)にての石炭採掘が始まる
・1738年(天文3) 久留米藩の文書に稲荷山での石炭採掘に関する記述が見える
・1790年(寛政2) 三池藩が領内での採炭および販売に関する規則である、「石山法度」が発布される
・1853年(嘉永6) 三池藩が生山を開坑する
・1857年(安政4) 平野山のほぼ南側に位置する生山と、平野山の間部(坑道)がつながってしまうという事件が起こり、両坑(両藩)の境界争いがはじまる
・1873年(明治6) 明治政府の官営事業となり、鉱山寮三池支庁を設置する
・1876年(明治9) 三井物産会社が設立され、官営三池炭鉱の輸送・販売を一手に取り扱かう
・1878年(明治11)11月21日、大浦坑で斜坑運搬に、従来は人力であったのを汽力曳揚機を使用する
・1883年(明治16) 三池集治監開庁。囚人労働が本格化する
・1888年(明治21) 払い下げにおける競争入札で三菱と激しく争った結果、三井組(三井財閥)が落札する
・1889年(明治22) 三井組の経営となり、團琢磨(団琢磨)が最高責任者(事務長)に任命される
・1891年(明治24) 三池横須浜 - 七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通(三池炭鉱専用鉄道)する
・1892年(明治25) 三井鉱山が創立され、團(団)のもとで炭鉱経営の近代化、合理化が進められる
・1894年(明治27) 三池勝立坑の第一立坑が完成する
・1898年(明治31) 宮原坑で操業開始する
・1908年(明治41) 三池港が開港する
・1913年(大正2) 三池ガス発電所が運転開始する
・1918年(大正7) 待遇改善を求める万田坑(熊本県玉名郡)作業員らの不満が米騒動(1918年米騒動)に発展。暴動が大牟田一帯の各炭鉱に飛び火し、鎮圧のために歩兵第48連隊が出動[10]。
・1923年(大正12) 三池炭鉱専用鉄道の電化が完成する
・1924年(大正13) 宮原坑の馬匹運搬を全廃(1930年末までに全鉱で廃止)する
・1925年(大正14) 宮ノ浦坑で採炭に火薬を使用、穿孔に手動ホーガーを使用する
・1930年(昭和5) 坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止する
・1931年(昭和6) 三池集治監が閉庁する
・1940年(昭和15) 三川坑が竣工する
・1949年(昭和24)5月29日 昭和天皇が行幸する
・1958年(昭和33) 日鉄鉱業が高田町で有明炭鉱の開発を開始する
・1960年(昭和35) 三池争議が起きる
・1963年(昭和38)11月9日 三川鉱炭じん爆発事故で、458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人を出す
・1967年(昭和42)7月 一酸化炭素中毒患者家族会の主婦66人が同月14日から20日にかけて三川鉱坑底で座り込みを行う
・1972年(昭和47) 三井鉱山が日鉄鉱業から有明炭鉱を取得する
・1973年(昭和48) 三井鉱山は、石炭採掘部門を分離独立する形で、全額出資の三井石炭鉱業を設立する
・1976年(昭和51) 開発再開により着炭(石炭層に到達)していた有明炭鉱から営業出炭を開始する
・1977年(昭和52) 有明炭鉱と三池炭鉱を結ぶ連絡坑道が開通し、両炭鉱を合併。有明炭鉱は三池炭鉱有明鉱となる
・1978年(昭和53)4月30日 四ツ山鉱で炭車が暴走して人車に激突、1人が死亡、103人が重軽傷を負う
・1984年(昭和59)1月18日 有明鉱坑内火災事故により83人死亡、一酸化炭素中毒患者16人を出す
・1997年(平成9)3月30日 三池炭鉱が閉山する
・2005年(平成17)4月 三池労組が解散する
・2015年(平成27)7月 宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1212年(建暦2)鴨長明が『方丈記』を書き上げる(新暦4月22日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1939年(昭和14)文部省は「大学教練振作ニ関スル件」を発して、大学での学校教練が必修化する詳細
1945年(昭和20)「翼賛政治会」を解散し「大日本政治会」が結成される詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

mitsuimiikesougi001
 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入した日です。
 三井三池争議(みついみいけそうぎ)は、三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)で起こった労働争議のことで、1953年(昭和28)にも大規模なものが有りましたが、一般的には、1959年(昭和34)から翌年にかけてのものを指します。石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景に、1955年(昭和30)に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになりました。
 1959年(昭和34)、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切ります。その中で、1959年(昭和34)1月19日、三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示し、同年8月29日には4,580人の人員削減案を発表しました。
 続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人に対し12月11日に指名解雇を通告します。しかし、そこには労働組合つぶしをねらった、約300人の職場活動家の解雇問題がありました。
 労働組合側はこれに強く反発し、日本労働組合総評議会(総評)、日本炭鉱労働組合 (炭労) の支援で白紙撤回を要求して対立し、会社側は翌年1月25日に、同鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入します。財界が三井鉱山を全面的に支援、一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援し、全国から応援されたので、この争議は“総資本対総労働の対決”などと呼ばれ、折からの安保反対闘争と結びついて大規模な闘いとなりました。
 しかし、1960年(昭和35)3月に三池労組内に第2組合が結成されるなど労働組合側の足並みが乱れ、中央労働委員会の斡旋も不調に終わります。最後は、三川坑のホッパー(貯炭槽)を巡っての対立となり死傷者も出ましたが、同年11月1日に、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件で、282日に及ぶストライキは中止され、終結に向かいました。

〇三井三池争議関係略年表

・1955年(昭和30) 「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになる
・1959年(昭和34) 石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切る
・1959年(昭和34)1月19日 三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示する
・1959年(昭和34)8月29日 4,580人の人員削減案を発表する
・1959年(昭和34)12月2日・3日 1,492人に退職を勧告する
・1959年(昭和34)12月11日 退職勧告に応じない1,278人に対し指名解雇を通告する
・1960年(昭和35)1月25日 会社側は三井鉱山鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入する
・1960年(昭和35)3月17日 三池労組内に第2組合(三池炭鉱新労働組合:三池新労)が結成される
・1960年(昭和35)3月18日 三井鉱山社員労組連合会(三社連)は炭労を脱退し、正式にストから離脱する
・1960年(昭和35)3月29日 ピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される
・1960年(昭和35)4月6日 中労委から出された斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱が分かれる
・1960年(昭和35)4月9日 炭労臨時大会では、強行に闘争完遂を訴える三池労組に対し、他の5労組(美唄、芦別、田川、砂川、山野)は、早期妥結を求めたため、対立する
・1960年(昭和35)4月18日 三池労組は三鉱連を脱退する
・1960年(昭和35)7月7日 石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下す
・1960年(昭和35)8月10日 中央労働委員会は、会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという斡旋案を発表する
・1960年(昭和35)11月1日 会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件でストライキが中止される

☆三池炭鉱(みいけたんこう)とは?

 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていたのです。明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発してきました。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成したのです。太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に「三井三池争議」が勃発して、大きな社会問題となりました。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出したことが知られています。その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至りました。閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されています。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されました。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されています。 

☆三井三池炭鉱三川鉱の爆発事故とは?

 昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した事故の事です。
 この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ