ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:三世一身法

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 今日は、奈良時代の748年(天平20)に、第44代の天皇とされる元正天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月22日となります。
 元正天皇(げんしょうてんのう)は、680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。
 しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。

<代表的な歌>

・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)

〇元正天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・680年(天武天皇9年) 飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれる
・682年(天武天皇11年8月28日) 病により、罪人198人が恩赦される
・683年(天武天皇12年) 3歳下の同母弟・珂瑠(後の文武天皇)が誕生する
・689年(持統天皇3年4月13日) 父・草壁皇子が即位しないままに亡くなる
・697年(文武天皇元年8月1日) 持統天皇から譲位されて同母弟・珂瑠皇子が即位(文武天皇)する
・702年(大宝2年12月22日) 祖母・持統太上天皇が亡くなる
・707年(慶雲4年6月15日) 文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が即位(元明天皇)する
・710年(和銅3年3月10日) 平城京に遷都される
・714年(和銅7年1月20日) 二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる
・715年(和銅8年1月10日) 一品に昇叙する
・715年(霊亀元年9月2日) 皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位する
・715年(霊亀元年10月7日) 陸田での麦・粟奨励する
・717年(養老元年4月23日) 行基ら僧尼の活動を非難する詔を出す
・717年(養老元年5月17日) 諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出についての詔を出す
・717年(養老元年) 藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始める
・717年(養老元年11月17日) 美濃国の醴泉によって養老と改元する
・719年(養老3年7月13日) 11名の国司が初めて按察使に任命される
・720年(養老4年3月4日) 隼人反乱に際し大伴旅人を征隼人持節第将軍に任命する
・720年(養老4年5月21日) 『日本書紀』が完成し奏上される
・720年(養老4年8月3日) 藤原不比等が亡くなると舎人親王を知太政官事に任命する
・721年(養老5年1月5日) いとこの長屋王を右大臣に任命し、事実上政務を任せる
・721年(養老5年12月7日) 母・元明上皇が亡くなる
・722年(養老6年2月23日) 衛士・役民の逃亡についての詔を出す
・722年(養老6年閏4月25日) 「百万町歩開墾計画」を出す
・723年(養老7年4月17日) 田地の不足を解消するために「三世一身法」を制定する
・724年(神亀元年2月4日) 皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる
・728年(天平元年2月12日) 長屋王の変が起き、長屋王が自害する
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱が起きる
・741年(天平13年3月24日 聖武天皇によって国分寺建立の詔が出される
・743年(天平15年5月5日) 皇太子(阿倍内親王)が五節舞を舞う
・743年(天平15年) 聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇によって大仏造立の詔が出される
・744年(天平16年2月26日) 聖武天皇の紫香楽行幸に際しては、左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を出させる
・744年(天平16年11月14日) 紫香楽に行幸する
・747年(天平19年) 暮れに発病する
・748年(天平20年4月21日) 奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬される
・750年(天平勝宝2年) 奈保山西陵に改葬される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細


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 今日は、奈良時代の723年(養老7)に、開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布された日ですが、新暦では5月25日となります。
 これは、律令制の下で、班田収授法に関わって、出された田地開墾の奨励法です。口分田不足が生じてきている中で、自力で池溝(灌漑施設)を造って田地を開墾した者に三世の間、また古くからの池溝(灌漑施設)を利用して田地を開墾した者は、その身一代の間はその墾田の占有を許したものでした。
 しかし、収公の期限が近づくと耕作の意欲が低下し、それによって荒廃する田地もでてきます。そこで、743年(天平15)に「墾田永年私財法」を定め、墾田はいつまでも私財として収公しないことになり、荘園を発生させ、徐々に班田収授法が崩れていくことになりました。

〇三世一身法 (全文) 723年(養老7年4月17日)

養老七年四月辛亥
太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狭。望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。

                        『続日本紀』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

養老七年四月辛亥
太政官奏すらく[1]、『頃者百姓漸く多く、田池搾狭[2]なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇[3]を開闢かしめむ[4]。其れ新たに溝池[5]を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世[6]に伝へしめむ。若し旧き溝池を逐はば[7]、其の一身に給せむ』と。奏してこれを可そす。

【注釈】
[1]太政官奏すらく:だじょうかんそうすらく=太政官の合議を奏上して天皇の裁可を求めること。
[2]窄狭:さくきょう=せまいこと。
[3]田疇:でんちゅう=田地。
[4]開闢かしめむ:ひらかしめむ=開墾させたい。
[5]溝池:こうち=用水路やため池などの灌漑施設。
[6]三世:さんぜ=三代目のこと。
[7]旧き溝池を逐はば:ふるきこうちをおはば=既設の灌漑施設を利用したならば。

<現代語訳> 三世一身法

養老七年四月辛亥(十七日)
太政官から次のように元正天皇に奏上された。「近頃,人口がしだいに増え、班給する田や池が不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を奨励したいと思います。その場合、新しく灌漑用の溝や池を造って開墾をした者があれば、その面積の多少にかかわらず、三代の間の所有を認めたいと思います。もし、既設の灌漑用の溝や池を利用して開墾した者については、本人一代に限って所有を認めたいと思います。」この上奏は許可された。
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