ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:万葉集

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 昭和時代前期、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌につぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達した日です。
 「海ゆかば」(うみゆかば)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、信時潔(のぶとききよし)が日本放送協会(NHK)の嘱託を受けて作曲した日本歌曲で、合唱曲として、NHKラジオで放送されました。歌詞は、『万葉集』巻十八の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の一節から採ったものです。
 国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲で、1942年(昭和17)12月15日には、大政翼賛会がこの歌を国歌「君が代」に次ぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達しました。また、NHKラジオ放送の戦果発表(大本営発表)や、部隊の玉砕を伝える際に冒頭に流されたことから、国民に広く知られることになります。
 戦時歌謡として強く意識されため、戦後は事実上の封印状態が続くこととなりました。

<歌詞>

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草(くさ)生(む)す屍
大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

<原歌>

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持作)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女めの童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

827年(天長5)空海が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設する(新暦828年1月23日)詳細
1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、皇族・公卿・歌人橘諸兄が亡くなった日ですが、新暦では1月30日となります。
 橘諸兄(たちばな の もろえ)は、684年(天武13)に、敏達天皇の玄孫で、従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、最初は葛城王と称しました。710年(和銅3)に無位から従五位下に叙され、翌年に馬寮監に任ぜられると、以後累進して、724年(神亀元)に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に昇叙されます。
 729年(神亀6)の「長屋王の変」後に行われたの叙位にて正四位下に昇叙され、続いて左大弁に任ぜられ、731年(天平3)には、藤原宇合、麻呂らと共に諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列しました。732年(天平4)に従三位に昇叙し、736年(天平8)には、弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改めます。
 737年(天平9)に天然痘の流行による藤原4卿(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) の急死によって、大納言に任ぜられ、翌年に正三位・右大臣、翌々年には従二位に昇叙され、唐から帰国した玄昉や吉備真備らを顧問に起用しました。740年(天平12)秋に、大宰少弐の藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こすと、鎮圧後に恭仁京を都と定められ、その遷都に尽力します。
 741年(天平13)に聖武天皇によって「国分寺建立の詔」が出され、743年(天平15)には、「墾田永年私財法」、「大仏造立の詔」が出され、それにあたりました。同年に従一位・左大臣に叙任されたものの、744年(天平15)に恭仁京の造営が中止され、翌年には難波宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出されましたが、745年(天平17)には、平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰します。
 749年(天平感宝元)の東大寺行幸に際し、正一位に昇叙されて、翌年に朝臣の姓を賜るなど全盛を極めたものの、藤原仲麻呂の台頭によって、しだいに実権を失っていきました。755年(天平勝宝7年11月)に祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴されると、翌年には辞職を申し出て致仕します。
 歌人としても知られ、『万葉集』に7首所載されましたが、757年(天平宝字元年1月6日)に失意のうちに、数え年74歳で亡くなりました。

<橘諸兄の代表的な和歌>

・「降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」(万葉集)
・「あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」(万葉集)
・「高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪」(万葉集)

〇橘諸兄関係略年表(日付は旧暦です)

・684年(天武13年) 敏達(びだつ)天皇の玄孫で従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・710年(和銅3年1月) 無位から従五位下に叙される
・711年(和銅4年12月) 馬寮監に任ぜられる
・717年(霊亀3年1月) 従五位上に昇叙される
・721年(養老5年1月) 正五位下に昇叙される
・723年(養老7年1月) 正五位上に昇叙される
・724年(神亀元年2月) 聖武天皇の即位後間もなく従四位下に昇叙される
・729年(神亀6年2月13日) 長屋王が自殺する(長屋王の変)
・729年(神亀6年3月) 長屋王の変後に行われたの叙位にて、正四位下に昇叙される
・729年(神亀6年9月) 左大弁に任ぜられる 
・731年(天平3年8月) 藤原宇合、麻呂らとともに諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列する
・732年(天平4年1月) 従三位に昇叙される
・736年(天平8年11月) 弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改める
・737年(天平9年9月) 天然痘の流行による藤原4卿の急死によって、大納言に任ぜられる
・738年(天平10年1月) 正三位に昇叙され、右大臣に任ぜられる
・739年(天平11年1月) 従二位に昇叙される
・740年(天平12年)秋 大宰少弐の)藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こす
・740年(天平12年12月15日) 恭仁京を都と定める 
・741年(天平13年3月24日) 聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される 
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が「大仏造立の詔」を出す 
・743年(天平15年5月) 従一位に昇叙され、左大臣に任ぜられる
・744年(天平15年12月26日) 恭仁京の造営を中止する 
・744年(天平16年2月26日) 難波(なにわ)宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出される
・745年(天平17年)頃 諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める
・745年(天平17年5月1日) 平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰する 
・749年(天平感宝元年4月) 東大寺行幸に際し、正一位に昇叙される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が譲位し、安倍内親王が孝謙天皇として即位する
・750年(天平勝宝2年1月) 朝臣の姓を賜る  
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が開催される 
・755年(天平勝宝7年11月) 祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴される
・756年(天平勝宝8年2月) 辞職を申し出て致仕する
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が崩御し、道祖王が立太子する 
・757年(天平宝字元年1月6日) 失意のうちに数え年74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、太平洋戦争下において、大政翼賛会が唱歌「みたみわれ」を発表し、この歌を中心に国民皆唱運動を展開し始めた日です。
 唱歌「みたみわれ」は、『万葉集』に掲載されている、734年(天平6)に海犬養岡麻呂が聖武天皇の詔に応へ奉つた和歌(「愛国百人一首」に選定)に、山本芳樹が曲を付け、日中戦争で右腕切断の負傷を負った東京音楽学校助教授伊藤武雄が独唱したものでした。この歌の解釈は、「天皇の民である私は生きている甲斐があることよ。天地が栄える時に生まれ合わせたと思うので。」という意味で、1943年(昭和18)に大政翼賛会により「国民の心を明るくのびのびとさせるような運動」として、国民皆唄運動が展開される中で、指定歌曲とされます。
 大政翼賛会は『海ゆかば』と並んで決戦下の国民が斉唱するにふさわしい国民歌を創ることとし、日本音楽文化協会と共催で、「愛国百人一首」の海太養岡麻呂作の「御民吾 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に 遇へらく念へば」の一首を選定して、作曲を募集することとしました。1943年(昭和18)2月20日締切で、国民の斉唱に適するピアノ伴奏つきの歌曲で、当選者一名に賞状および副賞として千円を出すとして応募します。
 その結果、山本芳樹の曲が採用されることになり、同年7月6日に発表されました。また、これにあわせた『皇民の舞(みたみのまい)』という、警視廳警察主事河田新吉が振り付けた体操も創作されます。
 この唱歌は、当時の国民学校(小学校)の教科書にも記載され、児童生徒が折節に唄わされました。
 参考までに、1943年4月刊行の軍歌集『楽譜 国民の歌』(大政翼賛会宣伝部選)に収載されている曲名の一覧を載せておきます。

〇軍歌集『楽譜 国民の歌』(大政翼賛会宣伝部選)1943年4月刊行の収載曲

・海ゆかば
・愛国行進曲
・大政翼賛の歌
・大詔奉戴日の歌
・靖国神社の歌
・産報青年隊歌
・大日本青少年団歌
・大日本婦人会会歌
・世紀の若人
・国民進軍歌
・少国民進軍歌
・軍艦行進曲
・敵は幾万
・来れや来れ
・雪の進軍
・太平洋行進曲
・興亜行進曲
・愛馬進軍歌
・この決意
・進め一億火の玉だ
・戦ひ抜かう大東亜戦
・必勝の歌
・アジヤの力
・アジヤの青雲
・大日本の歌
・大東亜決戦の歌
・大東亜戦争陸軍の歌
・大東亜戦争海軍の歌
・月月火水木金金
・英国東洋艦隊潰滅
・空の勇士
・燃ゆる大空
・荒鷲の歌
・空征く日本
・航空決死兵
・空襲なんぞ恐るべき
・露営の歌
・暁に祈る
・護れ太平洋
・南へ進む日の御旗
・南進男児の歌
・婦人従軍歌
・白百合
・忠霊塔の歌
・出征兵士を送る歌
・十億の進軍
・兵隊さんよ有難う
・さうだその意気
・めんこい仔馬
・進め少国民
・くろがねの力
・朝だ元気で
・今年の燕
・箱根千里
・胸を張つて
・愛国の花
・楽しい奉仕
・元気で皆勤
・子を頌ふ
・日本の母の歌
・有難うさん
・利鎌の光
・日本のあしおと
・僕等の団結
・村は土から
・朝
・椰子の実
・かどでの朝
・世界の果までも
・若い力
・われらをみなは
・日の出島
・娘田草船
・山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)古事記』の編者太安万侶の命日(新暦8月11日)詳細
1858年(安政5)江戸幕府第13代将軍徳川家定の命日(新暦8月13日)詳細
1940年(昭和15)奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される詳細
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 今日は、奈良時代の781年(天応元)に、公卿・文人石上宅嗣の亡くなった日ですが、新暦では7月19日となります。
 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)は、729年(天平元)に、中納言石上乙麻呂の子として生まれましたが、才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられてきました。751年(天平勝宝3)に従五位下に昇叙し、治部少輔となり、757年(天平勝宝9)には、従五位上に昇叙し、相模守となります。
 その後、759年(天平宝字3)に三河守、761年(天平宝字5)に上総守と地方官を歴任後、761年(天平宝字5)に遣唐副使となりましたが、翌年免ぜられ、藤原田麻呂と交替しました。763年(天平宝字7)に文部大輔となったものの、同年の藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画し失敗、翌年に大宰少弐に左遷されています。
 しかし、同年の藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると復権し、正五位上(越階)に昇叙、常陸守となりました。それからの道鏡政権下では順調に昇進し、765年(天平神護元)に従四位下に昇叙し、中衛中将となり、翌年に参議となって公卿に列し、同年正四位下、768年(神護景雲2)には従三位に昇叙します。
 770年(神護景雲4)に称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立するに功があり、同年、兼大宰帥、翌年には兼式部卿となりました。771年(宝亀2)に中納言となり、775年(宝亀6)に石上朝臣から物部朝臣に改姓、777年(宝亀8)には兼中務卿となります。
 779年(宝亀10)に宣勅使として唐使をもてなし、779年(宝亀10)に石上大朝臣の姓を賜わり、780年(宝亀11日)には、大納言にまで進みました。一方、詩文と書にすぐれ、淡海三船と並び称された文人で、漢詩が『経国集』に収められ、和歌は『万葉集』に採られています。
 また、晩年は私邸に阿閦寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設けて公開し、日本における公開図書館の発祥とされてきました。781年(天応元)には、正三位に昇叙したものの、同年6月24日に、奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られています。
 以下に、『続日本紀』巻第三十六の天応元年(781年)6月24日の条の石上宅嗣と芸亭院の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十六の天応元年6月24日の条の石上宅嗣の死去と芸亭院の記述

<原文>
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣従一位麻呂之孫。中納言従三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚経史。多所渉覧。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辞容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自宝字後。宅嗣及淡海真人三船為文人之首。所著詩賦数十首。世多伝誦之。捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。

<読み下し文>

大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り[1]。経史[2]を愛尚して渉覧[3]する所多し。好みて文を属り、草隷[4]を工にす。勝寳三年從五位下を授けられ、治部少輔に任す。稍く文部大輔に遷て、内外に歴居す[5]。景雲二年參議[6]從三位に至る。寳龜の初め、出て大宰の帥[7]と爲る。居ること幾も無くして式部卿[8]に遷る。中納言[9]を拜す。姓を物部朝臣と賜ふ。其の情願[10]を以てなり也。尋て皇太子の傅を兼ぬ。改めて姓を石上大朝臣と賜ふ。十一年、大納言[11]に轉し、俄に正三位を加へらる。宅嗣、辞容[12]閑雅[13]にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船[14]を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦[15]す。其の旧宅を捨して以て阿閦寺[16]となし、寺内の一偶に特に外典[17]の院を置く。名けて芸亭[18]と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式[19]を記して後に貽す。其の略に日く。「内外の両門[20]は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典[21]を足すけんがために外書[22]を加え置く。地は是れ伽藍[23]、事須く禁戒[24]すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有[25]に滞ること無くして兼ねて物我[26]を忘れ、異代[27]に来たらん者は、塵労[28]を超出して覚地[29]に帰せんことを」と。其の院今見に存せり。臨終に遺教[30]して薄葬[31]せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む[32]。

【注釈】

[1]姿儀有り:けいし=姿が整っている。風采が立派。
[2]経史:けいし=経書と史書。
[3]渉覧:しょうらん=いろいろと回って広く見る。多方面に通じる。
[4]草隷:そうれい=草書と隷書。転じて、書道。
[5]歴居す:そうれい=歴任する。
[6]參議:さんぎ=四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの。
[7]大宰の帥:だざいのそち=大宰府の長官。
[8]式部卿:しきぶきょう=式部省の長官。内外文官の名帳、考課、選叙、礼儀、版位、位記などをつかさどる。
[9]中納言:ちゅうなごん=令外の官。大納言に次ぎ、大臣と政事を議し、献替の任にあたる重職で、相当位は従三位。
[10]情願:じょうがん=実状を述べて願い出ること。心から願うこと。嘆願。懇願。
[11]大納言:だいなごん=太政官の次官にあたる要職で、天皇に近侍して庶政に参画し、大臣が参内しないときは代わって政務を行った。
[12]辞容:じよう=言葉や立ち居ふるまい。
[13]閑雅:かんが=しとやかで優雅なこと。また、そのさま。
[14]淡海真人三船:おうみのまひとみふね=奈良時代の文人(学者)で、大友皇子の曽孫、文章博士・大学頭などを歴任した。
[15]伝誦:でんしょう=代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること。
[16]阿閦寺:あしゅくじ=781年(天応元)に石上宅嗣が平城京付近にあった私邸を寺にしたもの。
[17]外典:げてん=仏教以外の教えを説く書籍。特に儒教の経典。
[18]芸亭:うんてい=日本最初の公開図書館で、石上宅嗣が私邸を阿閦寺とし、その一隅に図書を集め、好学の士に閲読させたもの。
[19]条式:じょうしき=規則。
[20]内外の両門:ないがいのりょうもん=仏教と儒教。
[21]内典:ないてん=仏教の典籍。
[22]外書:がいしょ=仏教以外の書籍。外典。
[23]伽藍:がらん=僧が集まり住んで、仏道を修行する、清浄閑静な場所。
[24]禁戒:きんかい=禁じ戒めること。また、おきて。法度。
[25]空有:くうう=実体のないことと、あること。
[26]物我:ぶつが=物と我。外物と自己。他者と自己。
[27]異代:いだい=異なった時代。別の世代。
[28]塵労:じんろう=俗世間での苦労。煩悩。
[29]覚地:かくち=迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。
[30]遺教:いきょう=死ぬときに残したことばや教訓。
[31]薄葬:はくそう=簡略にした葬儀。
[32]悼む:いたむ=人の死を悲しみ嘆く。

<現代語訳>

大納言正三位兼式部卿の石上大朝臣宅嗣が亡くなった。(光仁天皇)詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣・従一位麻呂の孫で、中納言従三位・弟麻呂の子である。賢明で悟りが早く、姿が整っている。経書と史書を愛読して、多方面に通じる所も多かった。好んで文章を作り、書道が巧みであった。天平勝宝3年(751年)に從五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。しばらくして文部大輔に遷り、内外の官職を歴任した。神護景雲2年(768年)に参議・従三位に至る。宝亀の初め、出向して大宰の帥となる。在任わずかにして式部卿に遷って、中納言を拝命した。その懇願によって、物部朝臣の姓を賜わった。次に皇太子の傅を兼任し、改めて石上大朝臣の姓を賜わった。宝亀11年(780年)に大納言に昇進し、ほどなくして正三位を加へられる。宅嗣、言葉や立ち居ふるまいがしとやかで優雅で、当時は有名であった。風景山水に出会う度に、筆を執って詩文などの主題と成した。天平宝字の頃より後、宅嗣および淡海真人三船を文人の首座となした。著作するところの漢詩や賦は数十首あり、世間の多くで口から口へと唱え伝えられている。その旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一偶に特別に仏教以外の教えを説く書籍のための院を設置し、芸亭と命名した。もし学問を志す者が有って、閲覧を欲したならば、自由にこれを許可し、そのために規則を決めて後世に残す。その概略として言っていることは、「仏教と儒教は根本は一つである。斬新的と極端の違いはあるといっても、よく導けば異なるものではない。自分の家を喜捨して寺とし、仏門に帰依してからも久しいが、仏教の典籍の理解を助けるために、仏教以外の書籍を加えて置いておく。この地は仏道を修行する、清浄閑静な場所であって、何事においても禁じ戒めるべきである。どうか、同じ志を持って入居した者は、実体のないこととあることを論じて滞ることなく、あわせて他者と自己を忘れ、別の世代として来た者は、俗世間での苦労を超越して真理をつかまんことを」と。その院は現在も存在している。臨終にあたって簡略にした葬儀にするようにと教え残した。亡くなったのは53歳であった。当時の人はこれを悲しみ嘆いた。

☆石上宅嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・729年(天平元年) 中納言石上乙麻呂の子として生まれる
・751年(天平勝宝3年1月25日) 従五位下に昇叙する
・751年(天平勝宝3年日付不詳) 治部少輔となる
・757年(天平勝宝9年5月20日) 従五位上に昇叙する
・757年(天平勝宝9年6月16日) 相模守となる
・757年(天平勝宝9年日付不詳) 紫微少弼となる
・759年(天平宝字3年5月17日) 三河守となる
・761年(天平宝字5年1月16日) 上総守となる
・761年(天平宝字5年10月22日) 遣唐副使となる
・762年(天平宝字6年3月1日) 遣唐副使罷ぜられ、藤原田麻呂と交替する
・763年(天平宝字7年1月9日) 文部大輔となる
・763年(天平宝字7年) 藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画する
・764年(天平宝字8年1月21日) 大宰少弐に左遷される
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚する
・764年(天平宝字8年10月3日) 正五位上(越階)に昇叙、常陸守となる
・765年(天平神護元年1月7日) 従四位下に昇叙する
・765年(天平神護元年2月8日) 中衛中将となる
・766年(天平神護2年1月8日) 参議となる
・766年(天平神護2年10月25日) 正四位下に昇叙する
・768年(神護景雲2年正月10日) 従三位に昇叙する
・768年(神護景雲2年10月24日) 綿4000屯を賜わる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立する
・770年(神護景雲4年9月16日) 兼大宰帥となる
・771年(宝亀2年3月13日) 兼式部卿となる
・771年(宝亀2年11月23日) 中納言となる
・775年(宝亀6年12月25日) 石上朝臣から物部朝臣に改姓する
・777年(宝亀8年10月13日) 兼中務卿となる
・779年(宝亀10年) 宣勅使として唐使をもてなす
・779年(宝亀10年11月18日) 物部朝臣から石上大朝臣の姓を賜わる
・780年(宝亀11年2月1日) 大納言となる
・781年(天応元年) 平城京付近にあった私邸を阿閦寺とする
・781年(天応元年4月15日) 正三位に昇叙する
・781年(天応元年6月24日) 奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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 今日は、奈良時代の735年(天平7)に、皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王が亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代の676年(天武天皇5)に、飛鳥(現在の奈良県)で、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれました。695年(持統天皇9)に浄広弐に叙せられ、701年(大宝元年)には、大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられます。
 718年(養老2)に一品に叙せられ、翌年には元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となり、内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられ、計2,000戸となりました。720年(養老4)に、かねてから勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上しています。
 720年(養老4)に藤原不比等(ふひと)がなくなると、知太政官事となって政務を総覧し、724年(神亀元年)には、聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられました。729年(神亀6)の長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問して自害させ、また、藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べています。
 しかし、735年(天平7年11月14日)に奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られました。歌人としても知られ、後に編纂された『万葉集』に短歌3首入集しています。
 尚、子の大炊王が淳仁天皇となったので、759年(天平宝字3)に崇道尽敬皇帝の称が追号されました。

<代表的な歌>

・「大夫(ますらを)や 片恋ひせむと 嘆けども 鬼(しこ)の大夫 なほ恋ひにけり」 (万葉集)
・「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」 (万葉集)
・「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」 (万葉集)

〇舎人親王関係略年表(日付は旧暦です)

・676年(天武天皇5年) 飛鳥において、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれる
・695年(持統天皇9年1月5日) 浄広弐に叙せられる
・701年(大宝元年) 大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられる
・704年(大宝4年1月11日) 封200戸を加えられる
・714年(和銅7年1月3日) 封200戸を加えられる
・718年(養老2年1月5日) 一品に叙せられる
・719年(養老3年) 元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となる
・719年(養老3年) 内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられる(計2,000戸となる)
・720年(養老4年5月) 勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上する
・720年(養老4年8月4日) 知太政官事となって政務を総覧する
・724年(神亀元年) 聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる
・729年(神亀6年2月) 長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる
・729年(神亀6年8月) 藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる
・735年(天平7年11月14日) 奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られる
・759年(天平宝字3年6月16日) 淳仁天皇より、崇道尽敬皇帝を追号される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細


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