ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:万福寺

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 今日は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、明の禅僧・隠元隆琦一行が長崎に到着した日ですが、新暦では8月17日となります。
 隠元隆琦(いんげん りゅうき)は、江戸時代前期に明から渡来した禅僧でした。1592年、明国福建省福州府福清県に生まれます(俗姓は林氏、母は龔氏)。
 21歳の時、消息不明の父を浙江に捜すため旅に出、23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役となって仏道修行し、29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家しました。33歳より臨済宗の密雲円悟に就いて参禅し、43歳のときに費隠の法を嗣ぎ、46歳で古黄檗の住持に請ぜられます。
 1652年(承応元)より長崎・興福寺の逸然性融(明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年(承応3年7月5日)に一行30名が鄭成功の仕立てた船で来日、長崎に着きました。1658年(万治元)には、江戸に赴き、第四代将軍徳川家綱に謁見、永住を決意して幕府から山城の宇治(現在の京都府宇治市)に寺地を与えられます。
 そして、1661年(寛文元)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創し、日本の黄檗宗の開祖となりました。能書家で、黄檗三筆の一人とされ、著署として『黄檗語録』、『普照国師広録』などを残しましたが、1673年(寛文13)に、山城国宇治において、82歳で亡くなっています。

<隠元隆琦の主要な著作>

・『黄檗清規』
・『黄檗山志』
・『黄檗語録』
・『普照国師広録』

☆隠元隆琦関係略年表

・1592年12月7日(文禄元年11月4日) 明国福建省福州府福清県において、父・林徳龍の3人兄弟の末っ子として生まれる
・1597年(慶長2年) 6歳の時、父の林徳龍は湖南・湖北方面に赴き、消息を絶つ
・1612年(慶長17年) 21歳の時、消息不明の父を浙江に捜すため旅に出る
・1614年(慶長19年) 23歳の時、寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役となって仏道修行する
・1619年(元和5年) 28歳の時、母が亡くなる
・1620年(元和6年) 29歳の時、地元の黄檗山萬福寺の鑑源興寿について出家する
・1624年(寛永元年) 33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行する
・1627年(寛永4年) 35歳の時、黄檗山の費隠通容から印可を受ける
・1630年(寛永7年) 38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残る
・1634年(寛永12年) 43歳の時、費隠の法を嗣ぐ
・1637年(寛永15年) 46歳の時、晋山して、黄檗山の主を務める
・1646年(正保3年) 再度晋山し、黄檗山の主を務める
・1652年(承応元年) 長崎・興福寺の逸然性融(明僧)らの来日の懇請がある
・1654年(承応3年7月5日) 一行30名が鄭成功の仕立てた船で長崎へ来港し、興福寺に入る
・1655年(明暦元年) 長崎の崇福寺を経て、摂津国富田の普門寺に入る
・1658年(万治元年) 江戸に赴き、第四代将軍徳川家綱に謁見する
・1660年(万治3年) 山城国宇治郡大和田に約9万坪の寺地を賜る
・1661年(寛文元年) 一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創し、日本の黄檗宗開祖となる
・1663年(寛文3年) 完成したばかりの万福寺法堂で祝国開堂を行なう
・1664年(寛文4年9月) 後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、寺内の松隠堂に退隠する
・1673年(寛文13年4月2日) 後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡される
・1673年(寛文13年4月3日) 山城国宇治において、82歳で亡くなる

☆黄檗宗(おうばくしゅう)とは?

 臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本の三禅宗の一つで、江戸時代前期に始まりました。開祖は、1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で、江戸幕府4代将軍徳川家綱に謁見して、信頼を作り、幕府の許可を得て、1661年(寛文元)に、山城国宇治(現在の京都府宇治市)に黄檗山万福寺を創建します。
 宗風はほとんど臨済禅に一致しますが、明朝の念仏禅を伝えているのが特徴で、伽藍様式や読経、法要様式、法具法服などが明風でした。弟子の木庵性が普及し、江戸に瑞聖寺を建立して、関東地方にも伝えました。一時衰退したものの、1851年(嘉永4) に良忠が出て復興に努めます。
 明治時代前期の1874年(明治7)に、一時臨済宗に合併されましたが、1876年(明治9)にふたたび独立し、1952年(昭和27)には、「宗教法人法」による認証を受けました。2000年(平成12)現在で、寺院463、信徒35万人を擁しているとされています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1141年(建保3)僧侶・臨済宗の開祖栄西の命日(新暦8月1日)詳細
1590年(天正18)北條氏直が小田原城を開城して豊臣秀吉に降伏し、秀吉の天下統一が完成する詳細
1639年(寛永16)江戸幕府が「寛永十六年七月令」(第五次鎖国令)を布告、ポルトガル船の入港を禁止(新暦8月5日)詳細
1881年(明治14)岩倉具視の「岩倉具視の意見書ー憲法構想」が明治天皇へ上奏される詳細
1949年(昭和24)下山事件が起こる詳細
2008年(平成20)東海北陸自動車道の飛驒清見IC~白川郷IC間開通(2車線)により、全線開通する詳細
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 今日は、日本黄檗宗の開祖隠元隆琦の亡くなった日ですが、新暦では5月19日となります。
 隠元隆琦は、江戸時代前期に明から渡来した禅僧で、1592年に明国福建省福州府福清県に生まれました(俗姓は林氏、母は龔氏)。
 21歳のとき旅に出、23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役となって仏道修行し、29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家したのです。
 33歳より臨済宗の密雲円悟に就いて参禅しま、43歳のときに費隠の法を嗣ぎ、46歳で古黄檗の住持に請ぜられました。
 1652年(承応元)より長崎・興福寺の逸然性融(明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年(承応3)に一行30名が鄭成功の仕立てた船で来日、長崎に着いたのです。
 1658年(万治元)には、江戸に赴き、第四代将軍徳川家綱に謁見、永住を決意して幕府から山城の宇治(現在の京都府宇治市)に寺地を与えられました。
 そして、1661年(寛文元)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創し、日本の黄檗宗の開祖となったのです。能書家で、黄檗三筆の一人とされ、著署として「黄檗語録」「普照国師広録」などを残しましたが、1673年(寛文13年4月3日)に、82歳で亡くなりました。

〇黄檗宗(おうばくしゅう)とは?

 臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本の三禅宗の一つで、江戸時代前期に始まりました。開祖は、1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で、江戸幕府4代将軍徳川家綱に謁見して、信頼を作り、幕府の許可を得て、1661年(寛文元)に、山城国宇治(現在の京都府宇治市)に黄檗山万福寺を創建します。
 宗風はほとんど臨済禅に一致しますが、明朝の念仏禅を伝えているのが特徴で、伽藍様式や読経、法要様式、法具法服などが明風です。
 弟子の木庵性が普及し、江戸に瑞聖寺を建立して、関東地方にも伝えました。一時衰退したものの、1851年(嘉永4) に良忠が出て復興に努めます。
 明治時代前期の1874年(明治7)に、一時臨済宗に合併されましたが、1876年(明治9)にふたたび独立し、1952年(昭和27)には、「宗教法人法」による認証を受けました。
 2000年(平成12)現在で、寺院463、信徒35万人を擁しているとされています。
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