ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:万朝報

saitouryokuu01
 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、小説家・評論家斎藤緑雨の生まれた日ですが、新暦では1868年1月24日となります。
 斎藤緑雨(さいとう りょくう)は、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれましたが、本名は賢(まさる)と言いました。1876年(明治9)に、8歳の時一家で上京し、東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進みましたが、弟たちのために中途で学業を断念し、文筆で立つことを決意します。
 1884年(明治17)に仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表しました。1885年(明治18年)に自由之燈に入社して記者となりましたが、翌年には退社し、今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表します。
 1889年(明治22)に東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューし、翌年には、大同新聞に入社し、『大夢』を連載しました。1891年(明治24)に小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められ、翌年には森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねるようになります。
 1894年(明治27)に両親を相次いで亡くしたものの、翌年には、「時論日報」という新聞の編輯主幹を任されました。1896年(明治29)に森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始めるようになります。
 1897年(明治30)に小説『あま蛙』を博文館から刊行、翌年には、万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水に知遇を得ました。1899年(明治32)に『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受けましたが、翌年には肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養することとなり、万朝報を辞めています。
 1901年(明治34)に東屋の女中頭だった金澤タケと結婚し、翌年に小唄『おもかげ草』を「明星」に発表しました。1903年(明治36)に小説『みだれ箱』を博文館から刊行、同年に東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなります。
 しかし、病状は悪化し、1904年(明治37年)4月13日に東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなり、翌日の「万朝報」に自身が口述筆記させた死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」が掲載されました。

〇斎藤緑雨の主要な著作

・小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』(1886年)
・戯作評論『小説八宗』(1889年)
・『初学小説心得』(1890年)
・小説『油地獄』(1891年)
・小説『かくれんぼ』(1891年)
・『新体詩見本』(1894年)
・小説『門三味線』(1895年)
・小説『あま蛙(がえる)』(1897年)
・随筆『おぼえ帳』(1897年)
・小説『あられ酒』(1898年)
・『眼前口頭』(1898~99年)
・小説『わすれ貝』(1900年)
・随筆集『青眼白頭』(1900年)
・小説『みだれ箱』(1903年)

☆斎藤緑雨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年1月24日(慶応3年12月30日) 伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれる
・1876年(明治9年) 8歳の時一家で上京する
・1884年(明治17年) 仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表する
・1885年(明治18年) 自由之燈に入社して記者となる
・1886年(明治19年) 今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表する
・1889年(明治22年) 東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューする
・1890年(明治23年) 大同新聞に入社し、『大夢』を連載する
・1891年(明治24年) 小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められる
・1892年(明治25年) 森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねる
・1894年(明治27年) 両親を相次いで亡くす
・1895年(明治28年)9月 「時論日報」という新聞の編輯主幹を任される
・1896年(明治29年) 森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始める
・1897年(明治30年)5月 小説『あま蛙(がえる)』を博文館から刊行する 
・1898年(明治31年) 万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水を知る
・1899年(明治32年) 『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受ける
・1900年(明治33年)10月23日 肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養する
・1900年(明治33年)11月 万朝報を辞める
・1901年(明治34年)4月13日 東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある神奈川県小田原に移り、タケと結婚する
・1902年(明治35年)3月 小唄『おもかげ草』を「明星」に発表する
・1903年(明治36年)5月 小説『みだれ箱』を博文館から刊行する
・1903年(明治36年)10月 東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓する
・1903年(明治36年)11月 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなる
・1904年(明治37年)4月13日 東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなる
・1904年(明治37年)4月14日 「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告が「万朝報」に掲載される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

koutokushyuusui005

 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載された日です。
 『自由党を祭る文(じゆうとうをまつるぶん)』は、憲政党(旧自由党系)が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成しようとしていることを批判した論文でした。その内容は、20数年前の明治10年代には、旧自由党は自由民権運動の旗手として、「自由平等」や「文明進歩」のため闘ってきたものの、現在では党の主流は挙げて、専制政治の張本人である仇敵伊藤博文の政友会に馳せ参じようとしているとし、これは自由党の死であり、自由の死だと断じたものです。
 旧自由党系の自由民権運動以来の光栄ある歴史に背をむけ、藩閥勢力の前に屈したことに憤慨したもので、秋水一代の名文と言われてきました。しかし、翌月憲政党はみずから解党して、伊藤博文の立憲政友会の結成することとなっています。
 以下に、『自由党を祭る文』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『自由党を祭る文』(全文)「万朝報」1900年(明治33)8月30日付

 歳は庚子[1]に在り八月某夜、金風淅瀝[2]として露白く天高きの時、一星忽焉[3]として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す[4]矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ。
 嗚呼汝自由党の事、吾人[5]之を言うに忍びんや、想うに二十余年前、専制抑圧の惨毒[6]滔々四海[7]に横流[8]し、維新中興の宏謨[9]は正に大頓挫[10]を来すの時に方って、祖宗[11]在天の霊は赫[12]として汝自由党を大地に下して、其呱々の声を揚げ[13]其円々[14]の光を放たしめたりき、而して汝の父母は実に我乾坤[15]に磅はく[16]せる自由平等の正気なりき、実に世界を振蘯[17]せる文明進歩の大潮流なりき。
 是を以て汝自由党が自由平等の為めに戦い、文明進歩の為め闘うや、義を見て進み正を蹈で懼れず[18]、千挫[19]屈せず百折撓まず[20]、凛乎[21]たる意気精神、真に秋霜烈日[22]の慨ありき、而して今安くに在る哉。
 汝自由党の起るや、政府の圧抑は益々甚しく迫害は愈よ急也、言論は箝制[23]せられたり、集会は禁止せられたり、請願は防止せられたり、而して捕縛、而して放逐[24]、而して牢獄、而して絞頸台[25]、而も汝の鼎钁[26]を見る飴の如し、幾万の財産を蘯尽[27]して悔いざる也、幾百の生命を損傷して悔いざる也、豈是れ汝が一片の理想信仰の牢として千古渝う可らざる者[28]ありしが為にあらずや、而して今安くに在る哉。
 汝自由党は如此にして堂々たる丈夫[29]となれり、幾多志士[30]仁人[31]の五臓[32]を絞れる熱涙と鮮血とは、実に汝自由党の糧食[33]なりき、殿堂[34]なりき、歴史なりき、嗚呼彼れ田母野[35]や、村松[36]や、馬場[37]や、赤井[38]や、其熱涙鮮血を濺げる志士[30]仁人[31]は、汝自由党の前途光栄[39]洋々たるを想望[40]して、従容[41]笑を含んで其死に就けり、当時誰か思わん彼等死して即ち自由党の死せんとは、彼等の熱涙鮮血が他日其仇敵[42]たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは、嗚呼彼熱涙鮮血や丹沈碧化今安くに在る哉。
 汝自由党や、初めや聖賢[43]の骨、英雄の胆、目は日月の如く、舌は霹靂[44]の如く、攻めて取らざるなく、戦いて克ざるなく、以て一たび立憲代議の新天地を開拓し、乾坤[15]を斡旋するの偉業を建てたり、而も汝は守成[45]の才に非ざりき、其傾覆[46]は建武の中興より脆くして、直ちに野蛮専制の強敵の為めに征服せられたり、而して汝が光栄[39]ある歴史、名誉なる事業今安くに在る哉。
 更に想う、吾人[5]年少にして林有造[47]君の家に寓す、一夜寒風凛冽[48]の夕薩長政府は突如として林君等と吾人[5]を捕えて東京三里以外に放逐[23]せることを、当時諸君が髪指[49]の状突然目に在り忘れざる所也、而して見よ今や諸君は退去令[50]発布の総理伊藤侯、退去令[50]発布の内相山県侯の忠実なる政友として、汝自由党の死を視る路人[51]の如く、而して吾人[5]独り朝報[52]の孤塁[53]に拠って、尚ほ自由平等文明進歩の為めに奮闘しつつあることを、汝自由党の死を吊し霊を祭るに方って、吾人[5]豈に追昔撫今[54]の情なきを得んや、陸游[55]曾て剣閣[56]の諸峯を望んで、慨然[57]として賦して曰く、「陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人[58]」嗚呼専制主義者の窮冦[59]禦ぎ[60]難からんや、而も光栄ある汝の歴史は今や全く抹殺せられぬ、吾人[5]唯だ此句を吟じて以て汝を吊するあるのみ、汝自由党若し霊あらば髣髴[61]として来り饗けよ。

    「万朝報」1900年(明治33)8月30日付より

【注釈】

[1]庚子:こうし=1900年(明治33)の干支。
[2]金風淅瀝:きんぷうせきれき=秋風のきびしい音のさま。
[3]一星忽焉:いっせいこつえん=にわかに。たちまち。
[4]自由党死す:じゆうとうしす=自由民権運動を闘ってきた自由党の歴史が立たれるという意味。
[5]吾人:ごじん=一人称。われわれ。われら。
[6]惨毒:さんどく=むごたらしい害毒。
[7]四海:しかい=国内。世の中。天下。また、世界。
[8]横流:おうりゅう=水が勝手な方向に流れたり、あふれ出して流れたりすること。転じて、よくない物事が盛んに行なわれるようになること。
[9]宏謨:こうぼ=広大な計画。宏図(こうと)。
[10]頓挫:とんざ=事業・計画などが途中で急に駄目になること。
[11]祖宗:そうそ=君主の始祖と中興の祖。また、ひろく歴代の君主やある系統を伝える人の称。
[12]赫:かく=光が輝くさま。明るく強烈な感じを表わす。転じて、人間の名誉の輝くさまにも用いる。
[13]呱々の声を揚げ:ここのこえをあげ=新しく物事がはじまる。発足する。
[14]円々:つぶつぶ=肥えふとっているさま。
[15]乾坤:けんこん=天地の間。人の住むところ。国、また、天下。
[16]磅はく:ほうはく=広がり満ちること。満ちふさがること。
[17]振蘯:しんとう=激しく振り動かすこと。また、揺れ動くこと。
[18]蹈で懼れず:とうでおそれず=実行することを恐れない。
[19]千挫:せんざ=度重なる困難。
[20]百折撓まず:ひゃくせつたゆまず=何度失敗して挫折ざせつ感を味わっても、くじけずに立ち上がること。
[21]凛乎:りんこ=りりしく勇ましいさま。毅然としているさま。凜然。
[22]秋霜烈日:しゅうそうれつじつ=刑罰・権威・意志などが非常にきびしく、またおごそかであることのたとえ。
[23]箝制:かんせい=束縛。自由にさせないこと。
[24]放逐:ほうちく=1887年(明治30)の「保安条例」による追放のこと。
[25]絞頸台:こうけいだい=紐などで絞める台。絞首台。
[26]鼎钁:ていかく=中国の戦国時代に極刑の罪人を煮殺すために用いた道具。
[27]蘯尽:とうじん=すっかり使ってしまうこと。すべてなくしてしまう。
[28]千古渝う可らざる者:せんこかうべからざるもの=固く永遠に変えることがない者。
[29]丈夫:じょうふ=りっぱな男。ますらお。
[30]志士:しし=高い志を持った人。また、国家、社会のため自分の身を犠牲にして力をつくそうとする人。
[31]仁人:じんじん=思いやりの心を備えた人。仁者。
[32]五臓:ごぞう=からだ。また、からだじゅう。全身。
[33]糧食:りょうしょく=食料。かて。
[34]殿堂:でんどう=広大で立派な建物。また、ある分野の中枢となる建物・施設。殿宇。堂宇。
[35]田母野:たもの=自由民権運動家の田母野秀顕のこと、1882年(明治15)の福島事件に連座し、軽禁獄6年の刑を受け、獄死した。
[36]村松:むらまつ=自由民権運動家の村松愛蔵のこと、1885年(明治18)の飯田事件に連座し、軽禁獄7年の刑に処せられた。
[37]馬場:ばば=自由民権運動家の馬場辰猪のこと、1886年(明治19)の横浜での爆裂弾事件に巻込まれ、爆発物取締罰則違反の容疑で半年間拘留され、その後アメリカへ渡り、客死した。
[38]赤井:あかい=自由民権運動家の赤井景韶のこと、1883年(明治16)の高田事件で内乱陰謀予備罪で重禁固9年の判決をうけ、脱獄後捕縛されて処刑された。
[39]光栄:こうえい=栄えかがやくこと。さかえること。栄誉とすること。  
[40]想望:そうぼう=心に思い描くこと。また、思い描いて待ち望むこと。
[41]従容:しょうよう=ゆったりと落ち着いているさま。
[42]仇敵:きゅうてき=憎んでいる相手。かたき。
[43]聖賢:せいけん=聖人と賢人。また、知識・人格にすぐれた人物。
[44]霹靂:へきれき=かみなりがなること。また、大きな音が響きわたること。
[45]守成:しゅせい=創業を受け継ぎ、事業の基礎を固めること。
[46]傾覆:けいふく=ひっくりかえること。また、ひっくりかえすこと。転覆。転倒。
[47]林有造:はやしゆうぞう=高知生まれの政治家で、板垣退助らと立志社を創立した。
[48]寒風凛冽:かんぷうりんれつ=寒風が吹いて、寒さが厳しく身にしみいるさま。
[49]髪指:はっし=髪が逆立つこと。
[50]退去令:たいきょれい=1887年(明治20)の「保安条例」のこと。
[51]路人:ろじん=通行人。傍観者。
[52]朝報:ちょうほう=「万朝報」のこと。
[53]孤塁:こるい=孤立した根拠地。ただ一つ残って助けのないとりで。
[54]追昔撫今:ついせきぶこん=昔を思い今をいつくし
[55]陸游:りくゆう=中国,南宋の詩人(1125~1209年)。
[56]剣閣:けんかく=中国、四川省剣閣県の北にある山の名。長安方面から蜀にはいる通路にあたり、要害として知られる。
[57]慨然:がいぜん=いきどおり、なげくさま。また、うれいなげくさま。
[58]陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人=陸游の七言絶句『劍門城北回望劍關諸峰青入雲漢感蜀亡事慨然有賦』の3句目と4句目で、「隠平から追い詰めてきた敵は難なく防御できたはずだが、これほど険阻な江山を、やすやすと敵に明け渡すとは。」という意味。
[59]窮冦:きゅうかん=追い詰められること。
[60]禦ぎ:ふせぎ=防御し。
[61]髣髴:ほうふつ=ありありと眼前に見えること。はっきりと脳裏に浮かぶこと。また、そのさま。

<現代語訳>

 年は1900年(明治33)の8月のある夜、秋風のきびしい音が聞こえ、露が白く、天高き時、にわかに墜ちて声がした、「ああ自由党は死んだ、そしてその光栄ある歴史は全く抹殺されてしまった。」と。
 ああ、あなたたち自由党のことを、私がこのように言うのは忍ばれるのだが。想うに20余年前、専制抑圧のむごたらしい害毒がとうとうと世の中に勝手に流れ出し、明治維新中興の広大な計画は正に大きく頓挫しようとする時にあたって、始祖の天にあった霊は光輝かんとしてあなたたち自由党を大地に下し、それが新しく発足し、その成長していく光を放たたせた。そして、あなたたちの父母は実に我国に広がり満ちる自由平等の正しい気風であり、本当に世界を激しく振り動かし、また明らかに進歩の大潮流であった。
 それゆえに、あなたたち自由党が自由平等のために戦い、文明進歩のために闘い、義を見て進み、正しきを実行することを恐れず、度重なる困難にも屈せず、くじけずに立ち上がり、りりしく勇ましい気風や精神で、真に非常に厳しく、おごそかのうれえがあった。そして、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党が結成されると、政府の抑圧はますます甚しくなり、迫害はいよいよ急となり、言論は束縛させられ、集会は禁止させられ、請願は防止させられ、そして捕まえられ、そして「保安条例」による追放、そして牢獄へ入れられ、そして絞首台に上らされた。しかも、あなたたちは、釜茹でさえ飴の如く甘いと思い、幾万の財産をすべてなくしてしまっても悔いなかった。幾百の生命を損傷しても悔いなかった。どうして、これあなたたちの一片の理想信仰は変えたりすることができないくらい固く、永遠に変えることがない者であったためではなかったのか、そして、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党は、このようにして堂々たる立派な存在となった。多くの高い志を持った人、思いやりの心を備えた人の全身から絞り出した熱涙と鮮血とは、実にあなたたち自由党の糧であり、中枢のものであり、歴史である、ああ彼の田母野秀顕や、村松愛蔵や、馬場辰猪や、赤井景韶や、その熱涙鮮血をそそげる多くの高い志を持った人、思いやりの心を備えた人は、あなたたち自由党の前途光栄で洋々であるを思い描き待ち望んで、ゆったりと落ち着いた笑いを含んでその死に就いた。当時の誰か思うだろうか、彼等が死をささげたのに、すなわち自由党が死ぬとは、彼等の熱涙や鮮血が後日、その憎んでいる相手であった専制主義者の唯一の装飾に供せられようとは、ああ彼の熱涙や鮮血は、丹として沈殿し、碧と化して、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党は、初めは聖人と賢人の骨、英雄の胆、目は太陽や月のごとく、舌は雷が鳴るがごとく、攻めて取らなかったことはなく、戦って打ち勝たなかったことはなく、そして一たび憲法確立と代議制度の新天地を開拓し、国をとりもつ偉業を建てたのである。それなのにあなたたちは、創業を受け継ぎ、事業の基礎を固める才能がなく、そのひっくり返り方は建武の中興より危うくて、ただちに野蛮で専制の強敵のために征服させられてしまった、そうしてあなたたちの光り輝く歴史、名誉ある事業は今どこにあるのであろうか。
 さらに想う、私が年少の時に林有造君の家に仮住まいしていた時、一夜に寒風が吹いて、寒さが厳しく身に染み入る夕刻に、薩長藩閥政府は突如として林君等と私を捕えて(「保安条例」により)東京の12kmより外に追放したことを、当時諸君が髪が逆立つ状態で突然目に在り忘れられないことである、そして見よ、今や諸君は「保安条例」発布の総理伊藤侯、「保安条例」発布の内相山県侯の忠実な政友として、あなたたち自由党の死を視る傍観者のごとくである。そして、私は独り「万朝報」の孤立した根拠地に依拠して、なお自由平等、文明進歩のために奮闘しつつあることを、あなたたち自由党の死骸を吊るし、霊を祭る方法として、私はどうして昔を思い今をいつくしむの情がないのを得れるのか。陸游はかつて剣閣の諸峰を眺望して、憤って漢詩を作って言った、「隠平から追い詰めてきた敵は難なく防御できたはずだが、これほど険阻な江山を、やすやすと敵に明け渡すとは。」と、ああ専制主義者に追い詰められて防御し難かったのであろうか、その上に、光栄あるあなたたちの歴史は今や全く抹殺されてしまった、私はただこの句を吟じて、あなたたちを吊るすことがあるだけで、あなたたち自由党は、もし魂があるならば、ありありと眼前に見える姿として現れて、もてなしてくれよ。

☆幸徳秋水とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1941年(昭和16)金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

sakaitoshihiko01

 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の亡くなった日です。
 堺利彦(さかい としひこ)は、明治時代前期の1871年1月15日(明治3年11月25日)に、旧小笠原藩士だった貧乏士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれました。自由民権思想の感化を受けて育ち、福岡県立豊津中学校(現在の育徳館高等学校)を首席で卒業後、上京して第一高等中学校に入学しましたが、放蕩生活で学費を滞納し、除籍処分を受けます。
 1889年(明治22)に大阪に出て英語教員をしながら、枯川の名で小説を発表、実業新聞、福岡日日新聞などを経て、同郷の末松謙澄に招かれて上京し、毛利家編集所で『防長回天史』の編纂に従事しました。1899年(明治32)に「万朝報」に入社、1901年(明治34)には社主黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水らと社会正義を求めて「理想団」を結成、非戦論を主張しましたが、1903年(明治36)に主戦論に転換した「万朝報」を幸徳秋水・内村鑑三と共に退社します。
 1903年(明治36)に幸徳秋水と二人で平民社を創立、週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義の立場から日露非戦論を展開、翌年の週刊「平民新聞」第53号に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載しました。その後「直言」や「光」によって、旺盛な論陣を張り、1906年(明治39)に日本社会党を結成し評議員・幹事となります。
 1908年(明治41)の赤旗事件で入獄中に、大逆事件が起こりましたが、連座を免れ、1910年(明治43)に出獄しました。1910年(明治43)に日本初の翻訳会社である売文社を大杉栄らと始め、1914年(大正3)に戯文と随筆を主とした雑誌「へちまの花」を創刊、翌年には「新社会」と改題して再出発を宣言、社会主義思想の紹介や研究を行います。
 1920年(大正9)に日本社会主義同盟結成の発起人となりましたが、翌年禁止されると、1922年(大正11)には日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加、初代委員長となりました。しかし、翌年の第一次共産党事件で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れます。
 1927年(昭和2)に山川均らと政治雑誌「労農」を創刊、社会民主主義左派の立場をとり、翌年には鈴木茂三郎らと無産大衆党を結成、1929年(昭和4)に合同後の日本大衆党から出馬し、東京市会議員に当選しました。無産政党の結集に全力を注ぎ、1931年(昭和6)の満州事変勃発に対しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦の姿勢を貫きます。
 ところが、同年に脳出血で倒れ、療養生活に入り、1933年(昭和8)1月23日に様態が悪化し、東京麹町の自宅において、64歳で亡くなりました。

〇堺利彦の主要な著作

・『家庭の新風味』(1904年)
・訳書『共産党宣言』幸徳秋水と共訳(1904年)
・『文章速達法』(1915年)
・『猫のあくび』(1919年)
・『唯物史觀の立場から』(1919年)
・『恐怖・闘争・歓喜』(1920年)
・『男女関係の発達』(1922年)
・『現代社会生活の不安と疑問』(1925年)
・『堺利彦伝』(1926年)  
・『監獄学校』(1926年)
・『貧富戦と男女戦』(1930年)
・『売文集』

☆堺利彦関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1871年1月15日(明治3年11月25日) 旧小笠原藩士の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれる
・1889年(明治22) 大阪に出て英語教員をしながら、小説を発表する
・1899年(明治32) 「万朝報」に入社する
・1901年(明治34) 社主黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水らと社会正義を求めて「理想団」を結成する
・1903年(明治36)10月 日露戦争時に主戦論を取った「万朝報」を幸徳秋水・内村鑑三と共に退社する
・1903年(明治36)11月 幸徳秋水と二人で平民社を創立、週刊「平民新聞」を創刊する
・1904年(明治37) 週刊「平民新聞」第53号に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載する
・1905年(明治38) 社会主義機関誌「直言」にエスペラントに関する記事を掲載
・1906年(明治39) 発足した日本エスペラント協会の評議員に就任する
・1906年(明治39)2月 日本社会党を結成して評議員・幹事となる
・1907年(明治40) 直接行動派と議会政策派の対立では折衷派として両者の調停に努める
・1908年(明治41) 赤旗事件により2年の重禁固刑を受ける
・1910年(明治43)9月 出獄する
・1910年(明治43) 日本初の翻訳会社である売文社を大杉栄らと始め、
・1914年(大正3)1月 戯文と随筆を主とした雑誌「へちまの花」を創刊する
・1915年(大正4)9月 雑誌を「新社会」と改題して再出発を宣言、社会主義思想の紹介や研究を行う
・1918年(大正7) 黎明会の立ち上げに関わる
・1919年(大正8) 山川均と「社会主義研究」を発刊する
・1920年(大正9) 日本社会主義同盟結成の発起人となる
・1921年(大正10) 日本社会主義同盟が禁止される
・1922年(大正11) 日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加、初代委員長となる
・1923年(大正12)6月 第一次共産党事件で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れる
・1927年(昭和2) 山川均らと「労農」を創刊、社会民主主義左派の立場をとる
・1928年(昭和3) 鈴木茂三郎らと無産大衆党を結成する、
・1929年(昭和4) 合同後の日本大衆党から出馬し、東京市会議員に当選する
・1931年(昭和6)9月 満州事変勃発に対しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦の姿勢を貫く
・1931年(昭和6)12月 脳出血で倒れ、療養生活に入る
・1932年(昭和7)7月 病状が悪化し、青山脳病院に入院する
・1932年(昭和7)8月 青山脳病院を退院する
・1933年(昭和8)1月23日 様態が悪化し、東京麹町の自宅において、64歳で亡くなる
・1960年(昭和35) 生誕90周年を記念して「堺利彦顕彰記念碑」が豊津下本町に建立される
・1973年(昭和48) 記念碑の横に「堺利彦顕彰記念館」が建設される
・2012年(平成24) 老朽化により記念館が取り壊され、遺品・遺作は「みやこ町歴史民俗博物館」に移される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ