戦時下に於いては、不要不急な生活用品よりも戦争必需品を優先に製造せよということで、例えば金銀を使う織物(西陣織り・友禅など)、宝石類、そして一定金額以上の娯楽関係品(人形・レコード)、カメラ、シャープペンシル、果物(メロン・イチゴ)などが対象となりました。「ゼイタクは敵だ」がスローガンとして叫ばれ、製造・販売の面でも国民生活が統制されていくことになります。
さらに、同年8月16日に、「国民奢侈生活抑制方策要綱」と「贅沢全廃運動」が制定され、国民に「七・七禁令」の実践を呼びかけました。「奢侈不健全ナル生活ヲ刷新シ質実剛健ニシテ且明朗なる新生活様式」の達成に向け、新聞でも、すでに所持している贅沢品を使用してはならない、などと呼びかけられ、「パーマネントはやめませう」が流行語になり、「モンペ普及運動」として婦人会などでモンペが奨励されます。
その中で、「防空壕を作るモンペ部隊」、「大阪で、女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う」などの実践が示されました。
以下に、「奢侈品等製造販売制限規則」を掲載しておきますから、ご参照下さい。
1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されました。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されます。戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されました。
近衛文麿の側近の後藤隆之助、有馬頼寧、風見章らは,官僚や学者等を集めた「昭和研究会」をつくり、新しい国民組織をつくり上げて国民を統合し、新しい社会体制を建設する構想をまとめました。それに基づいて、1940年(昭和15)6月24日に、近衛文麿が枢密院議長を辞任し、記者会見において声明を出して、「新体制運動」が開始されます。
軍部も「米内内閣打倒、近衛内閣樹立」運動を行い、その結果、7月22日に発足した第2次近衛内閣は、これをうけて基本国策要綱で「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」をうたい、新体制準備会が結成されました。そして、各政党、労働組合も自発的に解散し、10月12日には、「大政翼賛会」が発足して、日本型のファシズム体制の確立へと向かいます。
この過程で、国民は隣組、部落会、町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という2つのルートを通じ、ファシズム体制に組織されていくことになりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1559年(永禄2) | 戦国時代の絵師狩野元信の命日(新暦11月5日) | 詳細 |
1831年(天保2) | 棋士・将棋十二世名人小野五平の誕生日(新暦11月9日) | 詳細 |
1920年(大正9) | 小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリスト黒岩涙香の命日 | 詳細 |
1933年(昭和8) | 「社会政策ニ関スル具体的方策案」が閣議決定される | 詳細 |
1938年(昭和13) | 北炭夕張炭鉱(天龍坑)で炭塵爆発が起こり、死者161人、負傷者21人が出る | 詳細 |
1942年(昭和17) | 「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」が閣議決定される | 詳細 |