
今日は、安土桃山時代の1585年(天正13)に、天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見した日ですが、新暦では3月23日となります。
天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、宣教師バリニャーノの勧めによって、九州のキリシタン大名大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとに派遣された少年使節団でした。織田信長の晩年に来日したイエズス会日本巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは、インド、ローマへの帰還に当たり、日本人少年をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを勧めます。
島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じました。1582年(天正10)1月28日に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴア、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13)2月にローマ入りします。
同年3月23日(天正13年2月22日)に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功しました。その後、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途に着きます。
1587年(天正18)6月20日に使節団が帰国し、長崎港に到着しました。前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきています。
しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しました。正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去します。
この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きく、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれてきました。
島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じました。1582年(天正10)1月28日に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴア、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13)2月にローマ入りします。
同年3月23日(天正13年2月22日)に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功しました。その後、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途に着きます。
1587年(天正18)6月20日に使節団が帰国し、長崎港に到着しました。前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきています。
しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しました。正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去します。
この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きく、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれてきました。
〇天正遣欧使節関係略年表
<1579年(天正7)>
・7月25日(新暦8月17日) アレッサンドロ・バリニャーノが口之津港へ来日する
<1581年(天正9)>
・2月23日(新暦3月27日) アレッサンドロ・バリニャーノとルイス・フロイスが織田信長に謁見する
<1582年(天正10)>
・1月28日(新暦2月20日) 天正遣欧使節が長崎港を出港する
・2月15日(新暦3月9日) マカオに到着し、風を待つ
<1583年(天正11)>
・11月7日(12月20日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに到着する
<1584年(天正12)>
・7月5日 (新暦8月10日) ポルトガルの首都リスボンに到着し、サン・ロッケ教会が宿舎となる
・10月23日(新暦11月25日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける
<1585年(天正13)>
・1月30日(新暦3月1日) スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
・2月1日(新暦3月2日) ピサに到着し、ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見する
・2月5日(新暦3月6日) カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する
・2月6日(新暦3月7日) フィレンツェに到着し、シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する
・2月10日(新暦3月11日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす
・2月22日(新暦3月23日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる
・4月2日(新暦5月1日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席する
・5月6日(新暦6月3日) ローマを出発し、以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問する
<1586年(天正14)>
・2月25日(新暦4月13日) ポルトガルのリスボンを出港し、帰途につく
<1587年(天正15)>
・4月23日(新暦5月29日) インドのゴアに到着し、ヴァリニャーノに再会、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる
・5月6日(新暦6月11日) 豊後において大友宗麟が死去する
・5月18日(新暦6月23日) 長崎で大村純忠が死去する
・6月19日(新暦7月24日) 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布する
<1587年(天正18)>
・6月20日(新暦7月21日) 天正遣欧使節が帰国し、長崎港に到着する
<1587年(天正19)>