そこで、文久遣欧使節団をヨーロッパへ派遣して交渉した結果、「ロンドン覚書」によって延期が決まり、5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)に、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった周辺を事実上の「兵庫港」として開港が実現したものでした。開港当初は、「兵庫港」と呼ばれていましたが、1872年(明治4年)に「神戸港」と改称されます。
その後、神戸港は、国際貿易港として発展し、1893年(明治26年)には、輸入額が全国第1位の港に成長しました。しかし、その後他の港に抜かれて、2021年(令和3年)の輸入額では、東京港、名古屋港、大阪港、横浜港に次いで第5位となっています。
尚、新暦換算日の1月1日も「神戸港記念日」とされてきました。
そこで、1862年1月21日(文久元年12月22日)に、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の文久遣欧使節を英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣します。最初にフランスに赴き、仏外相と交渉するものの、不調に終わり、その後、イギリスへと渡って英外相ラッセルとの交渉の末、開市・開港の延期を定めた「ロンドン覚書」(英國倫敦覺書)を締結しました。
さらに、使節団は、イギリスの働きかけもあって、他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰国します。この覚書では、新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を5年間延期すること、開港、開市延期の代償として、①安政条約に決められたとおり、貿易品の数量・価格の制限を撤廃する、②労役者(大工、船頭、人夫など)の雇い入れに関する制限を撤廃する、③大名が直接外国人と取引することを妨げない、④定められた関税以外の手数料を徴収しない、⑤開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない、⑥外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。こととしました。
また、使節が帰国後、(1)対馬の開港を建議する、(2)現行の酒税35%を低減する、(3)現行のガラス製品の関税20%を5%とする、(4)横浜、長崎に保税倉庫を設ける、ことも約しています。そして、これら代償が履行されない場合には延期の取り消しも定められる厳しいものとなりました。
「舊條約彙纂 第一卷第二部」外務省條約局編より