
2月29日に東京に着き、日本政府、軍部、実業界などの代表者と接触ののち、中国へ向かい、3月13日に上海に着き、その後、1ヶ月にわたり上海、南京、漢口、北京などを視察し、4月19日満州へ向かいました。10月に理事会に報告書(リットン報告書)を提出し、10月1日に日本政府に報告書を通達し、10月2日には、外務省が公表しています。
その中で孤立に陥った日本は国際連盟事務総長ドラモントJ.E.Drummondのすすめで、現地への調査委員会派遣を提案し、12月10日の理事会でこれが可決されます。翌年1月に委員長にリットンV.A.G.R.Lytton(イギリス)、委員にマッコイF.R.McCoy(アメリカ)、クローデルH.Claudel(フランス)、シュネーH.Schnee(ドイツ)、アルドロバンディL.Aldrovandi(イタリア)が任命され、米・仏・独・伊各国委員計5名の調査団が編成されました。
そして、2月の来日後、3~4月に中国、4~6月に満州を調査し、10月2日に報告書が公表されます。この中で、満州(現在の中国東北部)における日本の軍事行動を侵略とみなし、中国の主権を認めながら、日本の特殊権益をも認める妥協的結論を示し、日中間に新条約締結を勧告しました。
しかし、すでに満州国を承認していた日本はこれを全く受け付けなかったものの、国際連盟は1933年(昭和8)3月24日の総会で42対1(反対は日本のみ)で報告書を採択します。日本はこれを不満として、松岡洋右全権以下の日本代表団は総会から退場し、次いで同年3月27日に日本国政府は連盟事務局に脱退の通告を行うとともに、同日脱退の声明を発表するに至りました。
以後日本は、国際社会から孤立化することとなり、やがてドイツ・イタリアと提携の道を歩むことになります。