ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:ラフカディオ・ハーン

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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、イギリスの文学者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がアメリカで『怪談(Kwaidan)』を刊行した日です。
 『怪談(Kwaidan)』は、イギリスの文学者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が著した怪奇文学作品集です。妻である小泉節子らから聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを英語で再話し、独自の解釈を加えて文学作品として、イギリスで刊行したものでした。
 「耳なし芳一ほういちの話」、「雪女」、「むじな」など17編の怪談と、虫に関する3編のエッセイを収録しています。日本語訳、英語教科書、映画などを通し、英語原文以上に日本人に知られることとなりました。

〇『怪談(Kwaidan)』所収の作品

<怪談>
・耳無芳一の話(The Story of Mimi-Nashi-Hoichi)
・おしどり(Oshidori)
・お貞のはなし(The Story of O-Tei)
・乳母ざくら(Ubazakura)
・かけひき(Diplomacy)
・鏡と鐘(Of A Mirror And A Bell)
・食人鬼(Jikininki)
・むじな(Mujina)
・ろくろ首(Rokuro-kubi)
・葬られた秘密(A Dead Secret)
・雪女(Yuki-Onna)
・青柳のはなし(The Story of Aoyagi)
・十六ざくら(Jiu-Roku-Zakura)
・安芸之助の夢(The Dream of Akinosuke)
・力ばか(Riki-Baka)
・日まわり
・蓬莱

<虫界>
・蝶
・蚊
・蟻

☆小泉八雲(こいずみ やくも)とは?

 アイルランド系・ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。英文学者です。本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれました。
 1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごします。フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行いました。
 1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきます。そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごしました。
 その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となります。1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じました。
 しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京において、54歳でで亡くなっています。この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1481年(文明13)公卿・古典学者一条兼良の命日(新暦4月30日)詳細
1879年(明治12)日本画家西山翠嶂の誕生日詳細
1880年〈明治13〉洋画家熊谷守一の誕生日詳細
1929年(昭和4)「救護法」が公布(施行は1932年1月1日)される詳細
1931年(昭和6)「労働者災害扶助法」(昭和6年法律第54号)が公布される詳細
1956年(昭和31)彫刻家・画家・詩人高村光太郎の命日詳細
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 今日は、1850年に新聞記者・小説家である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生まれた日です。
 小泉八雲の本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれました。
 1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごしたのです。フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行いました。
 1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきたのです。そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごしました。
 その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となります。
 1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じました。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京において、54歳で亡くなっています。
 この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しました。

〇小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の主要な著作
 『飛花落葉集』1884年
 『ゴンボ・ゼーブ』 1885年
 『クレオール料理』 1885年
 『中国怪談集』 1887年
 『チータ』 1889年
 『ユーマ』 1890年
 『仏領西インドの二年間』 1890年
 『知られざる日本の面影』 1894年
 『東の国より』 1895年
 『心』 1896年
 『仏陀の国の落穂』 1897年
 『異国風物と回想』 1898年
 『霊の日本にて』 1899年
 『影』 1900年
 『日本雑録』 1901年
 『骨董』 1902年
 『怪談』 1904年
 『日本―一つの解明』 1904年
 『天の河綺譚その他』 1905年
 以下に、『怪談』の中の「耳なし芳一の話」の冒頭部分を引用しておきます。

☆「耳なし芳一の話」戸川明三訳の冒頭部分
 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮もがいていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。
 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
 芳一には出世の首途かどでの際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

(後略)
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