ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:ホトトギス

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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、俳人橋本多佳子の亡くなった日です。
 橋本多佳子(はしもと たかこ)は、明治時代後期の1899年(明治32)1月15日に、東京市本郷区龍岡町(現在の文京区本郷)において、官僚だった父・山谷雄司、母・津留の子として、生まれましたが、本名は多満(たま)と言いました。菊坂女子美術学校(後の女子美術大学)日本画科を病弱のため中退、1917年(大正6) 橋本豊次郎と結婚し、大阪へ転居します。
 1920年(大正9)に、夫の赴任地である北九州小倉市中原の高台に櫓山荘を新築し移り住み、1922年(大正11)には、小倉での高浜虚子を迎えての句会を契機に杉田久女を知り、俳句を志しました。1924年(大正13)に、樺太、北海道を北原白秋と共に夫妻で旅行、1925年(大正14)に「ホトトギス」に投句するようになり、1927年(昭和2)には、雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選します。
 1929年(昭和4)に大阪・帝塚山に転居、1935年(昭和10)には、山口誓子に師事、水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となりました。1937年(昭和12)に、一家で、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区中井浜)の櫓山荘へ移るものの、夫・豊次郎が亡くなり、1939年(昭和14)には、櫓山荘を手放します。
 1941年(昭和16)に、第1句集『海燕(うみつばめ)』が刊行されましたが、1944年(昭和19)には、太平洋戦争の空襲を避けるため、奈良市あやめ池に疎開しました。戦後の1946年(昭和21)に、西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始め、第2句集『信濃』が刊行されます。
 1948年(昭和23)に、山口誓子主宰の「天狼(てんろう)」が創刊され、同人として参加、1950年(昭和25)には、榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、主宰しました。1951年(昭和26)に第3句集『紅絲(こうし)』、1957年(昭和32)に第4句集『海彦』が刊行され、1958年(昭和33)から読売新聞俳壇選者を務め、1959年(昭和34)には、奈良県文化賞を受賞しています。
 戦後の代表的女流俳人と評価されたものの、1963年(昭和38)5月29日に、大阪において、肝臓、胆嚢癌により、64歳で亡くなり、1965年(昭和40)には、第5句集『命終』が刊行されました。

<橋本多佳子の代表的な句>

・「わが行けば露とびかかる葛の花」(海燕)
・「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」
・「白桃に入れし刃先の種を割る」
・「ひとところくらきをくゞるおどりの輪」
・「乳母車夏の怒濤によこむきに」
・「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」
・「蛍籠昏(くら)ければ揺り炎えたゝす」
・「さびしさを日々のいのちぞ雁わたる」

〇橋本多佳子の主要な著作

・第1句集『海燕(うみつばめ)』(1941年)
・第2句集『信濃』(1946年)
・第3句集『紅絲(こうし)』(1951年)
・第4句集『海彦』(1957年)
・第5句集『命終』(1965年)

☆橋本多佳子関係略年表

・1899年(明治32)1月15日 東京市本郷区龍岡町(現在の文京区本郷)において、生まれる
・1917年(大正6) 橋本豊次郎と結婚し、大阪へ転居する
・1920年(大正9) 夫の赴任地である北九州小倉市中原の高台に櫓山荘を新築し移り住む
・1922年(大正11) 小倉での高浜虚子を迎えての句会を契機に杉田久女を知り、俳句を志す
・1924年(大正13) 樺太、北海道を北原白秋と共に夫妻で旅行する
・1925年(大正14) 「ホトトギス」に投句する
・1927年(昭和2) 「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 大阪・帝塚山に転居する
・1935年(昭和10) 山口誓子に師事、水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となる
・1937年(昭和12) 一家で、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区中井浜)の櫓山荘へ移るが、夫・豊次郎が亡くなる
・1939年(昭和14) 櫓山荘を手放す
・1941年(昭和16) 第1句集『海燕』が刊行される
・1944年(昭和19) 奈良市あやめ池に疎開する
・1946年(昭和21) 西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始め、第2句集『信濃』が刊行される
・1948年(昭和23) 山口誓子主宰の「天狼(てんろう)」が創刊され、同人として参加する
・1950年(昭和25) 榎本冬一郎と「七曜」を創刊し、主宰する
・1951年(昭和26) 第3句集『紅絲(こうし)』が刊行される
・1957年(昭和32) 第4句集『海彦』が刊行される
・1958年(昭和33) 読売新聞俳壇選者を務める
・1959年(昭和34) 奈良県文化賞を受賞する
・1963年(昭和38)5月29日 大阪において、肝臓、胆嚢癌により、64歳で亡くなる
・1965年(昭和40) 第5句集『命終』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1908年(明治41)言語学者服部四郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1945年(昭和20)横浜大空襲により、死者・行方不明3,959人、重軽傷者10,198人、罹災者311,218人を出す詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)が日本の加盟を承認する詳細
国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認する詳細
1961年(昭和36)青森県八戸市で白銀大火が起きる詳細
1981年(昭和56)日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する詳細
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、俳人川端茅舎が生まれた日です。
 川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)は、明治時代後期の1897年(明治30)8月17日に、東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれましたが、本名は信一(のぶかず)と言いました。1903年(明治36)に、私立有隣代用小学校へ入れられ、1909年(明治42)には、獨逸学協会学校(後の獨協中学校)へ入学します。在学中より句作を始め、1914年(大正3)に中学を卒業した頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始めます。1915年(大正4)に「ホトトギス」に初入選、1919年(大正10)に岸田劉生の画学生となり、1922年(大正13)には、洋画を春陽会に出品して2点入選しました。1924年(大正15)に「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得、1931年(昭和3)には、脊椎カリエスのため画業を断念します。1932年(昭和4)の岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念し、1933年(昭和5)には、傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になりました。1934年(昭和9)に「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行、1939年(昭和11)には、第2句集『華厳』を刊行しました。格調高雅な美的境地の句風を示し、高浜虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」の称を与えられたりしたものの、1941年(昭和16)7月17日に、東京市大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなっています。

<代表的な句>

・「金剛の 露ひとつぶや 石の上」(川端茅舎句集)
・「一枚の 餅のごとくに 雪残る」
・「ぜんまいの のの字ばかりの 寂光土」
・「約束の 寒の土筆を 煮て下さい」
・「咳き込めば 我火の玉の ごとくなり」
・「朴散華 即ちしれぬ 行方かな」

〇川端茅舎の主要な著書

・第1句集『川端茅舎句集』 (1934年)
・第2句集『華厳』(1939年)
・『春水光輪』(1940年)
・『白痴』(1941年)

☆川端茅舎関係略年表

・1897年(明治30)8月17日 東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれる
・1903年(明治36) 私立有隣代用小学校へ入れられる
・1909年(明治42) 獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学する
・1914年(大正3) 独逸協会学校中学を卒業、この頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始める
・1915年(大正4) 「ホトトギス」に初入選する
・1919年(大正10) 岸田劉生の画学生となる
・1922年(大正13) 洋画を春陽会に出品して2点入選する
・1924年(大正15) 「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得る
・1931年(昭和3) 脊椎カリエスのため画業を断念する
・1932年(昭和4) 岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念する
・1933年(昭和5) 傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になる
・1934年(昭和9) 「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行する
・1939年(昭和11) 第2句集『華厳』を刊行する
・1941年(昭和16)7月17日 大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃する(新暦9月8日)詳細
1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1943年(昭和18)「第2次食糧増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
1963年(昭和38)みどり丸沈没事故が起き、死者・行方不明者112名を出す詳細
1965年(昭和40)小説家・詩人高見順の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、俳人・医師(医学博士)高野素十の亡くなった日です。
 高野 素十(たかの すじゅう)は、明治時代後期の1893年(明治26)3月3日に、茨城県北相馬郡山王村大字神住(現在の藤代町)で農家の長男として生まれましたが、本名は与巳(よしみ)と言いました。1905年(明治38)に、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し、新潟県立長岡中学校に入学、第一高等学校を経て、1913年(大正2)に東京帝国大学医学部に進みます。
 1918年(大正7)に卒業後、法医学教室に入局し、法医学および血清学を専攻しました。同じ教室の先輩水原秋桜子の勧めで1923年(大正12)より句作を開始し、高浜虚子に師事しました。東大俳句会に所属し、句誌「ホトトギス」12月号において初投句にして4句が入選、1926年(大正15)には、同誌の初巻頭を取ります。
 写生俳句に独自の風格を備えてたちまち頭角を現し、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝と共に「ホトトギス」4Sの一人として知られるようになりました。1932年(昭和7)に新潟医大助教授となってドイツへ留学、1934年(昭和9)に帰国して教授となり、1936年(昭和11)には医学博士号も取得します。
 太平洋戦争後、1949年(昭和22)に句集『初鴉(はつがらす)』を刊行、1949年(昭和24)には新潟医大学長、改組して新潟大学医学部教授・学部長となりました。1952年(昭和27)に句集『雪片(せっぺん)』を刊行、1953年(昭和28)には、奈良医大教授となり、「桐の葉」雑詠選担当ともなります。
 1954年(昭和29)に大阪毎日俳壇選者となり、1957年(昭和32)に「芹」を創刊し主宰、1960年(昭和35)に奈良県立医科大学退職後は俳句に専念しました。1970年(昭和45)に軽い脳溢血により入院、1972年(昭和47)には神奈川県相模原市に移住します。
 1976年(昭和51)8月に前立腺肥大症のため入院、同年10月4日に神奈川県相模原市の自宅において、83歳で亡くなりました。

<高野素十の代表的な句>

・「方丈の大庇より春の蝶」(初鴉)
・「くもの糸ひとすぢよぎる百合の前」
・「ひつぱれる糸まつすぐや甲虫」
・「甘草の芽のとびとびのひとならび」
・「翅わつててんたう虫の飛びいづる」
・「づかづかと来て踊子にささやける」
・「空をゆく一とかたまりの花吹雪」(雪片)
・「わが星のいづくにあるや天の川」(「芹」昭和51年11月号)

〇高野素十の代表的著作

・句集『初鴉(はつがらす)』(1947年)
・句集『雪片(せっぺん)』(1952年)
・句集『野花(やか)集』(1953年)

☆高野素十関係略年表

・1893年(明治26)3月3日 茨城県北相馬郡山王村大字神住(現在の藤代町)で農家の長男として生まれる
・1905年(明治38) 新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学する
・1913年(大正2) 東京帝国大学医学部に入学する
・1918年(大正7) 東京帝大医科大学を卒業する
・1923年(大正12) 高浜虚子に師事する
・1926年(大正15) 「ホトトギス」の初巻頭を取る
・1932年(昭和7) 新潟医大助教授となり、ドイツへ留学する
・1934年(昭和9) ドイツより帰国して教授となる
・1936年(昭和11) 論文「パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清(独文) 」 により医学博士となる
・1949年(昭和22) 句集『初鴉(はつがらす)』を刊行する
・1949年(昭和24) 新潟医大学長、改組して新潟大学医学部教授・学部長となる
・1952年(昭和27) 句集『雪片(せっぺん)』を刊行する
・1953年(昭和28) 奈良医大教授となり、「桐の葉」雑詠選担当となる
・1954年(昭和29) 大阪毎日俳壇選者となる
・1957年(昭和32)5月 「芹」を創刊し主宰となる
・1960年(昭和35) 奈良県立医科大学を退職する
・1970年(昭和45)5月 軽い脳溢血により入院する
・1972年(昭和47) 神奈川県相模原市に移住する
・1976年(昭和51)8月 前立腺肥大症のため入院する
・1976年(昭和51)10月4日 神奈川県相模原市の自宅において、83歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4)宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1872年(明治5)官営模範工場富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1876年(明治9)言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す詳細


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yamaguchiseison01

 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の亡くなった日です。
 山口青邨(やまぐち せいそん)は、1892年(明治25)5月10日 岩手県盛岡市仁王小路にて旧盛岡藩士の父・山口政徳、母・千代の4男として生まれましたが、本名は吉朗(きちろう)と言いました。5歳の時に母を失い、母方の叔父笹間家に引き取られ育てられ、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を経て、1910年(明治43)に仙台市の第二高等学校へ入学、ドイツ語教授の戸張一郎から文学上の影響を受けます。
 卒業後、東京帝国大学工科大学へ進学し、1916年(大正5)に採鉱科を卒業、古河鉱業(現在の古河機械金属)に入社したものの、1918年(大正7)には、古河鉱業を退社し、農商務省技師として鉱山省に勤務しました。1919年(大正8)に、シベリア炭鉱を調査、翌年には、文芸誌「玄土」を創刊、シュトルムの「湖」を日本で初めて訳し、「蜜蜂の湖」の題で発表します。
 1921年(大正10)に東京帝国大学工学部助教授となり、翌年結婚、高浜虚子に師事し「山会」に参加、随筆の妙手と評されました。また、水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成し、清純、高雅な作風で知られます。
 1923年(大正12)に「芸術運動」を発刊、1927年(昭和2)からドイツのベルリンに留学、1929年(昭和4)に帰国後、東京帝国大学工学部教授となり、「ホトトギス」同人にも加わりました。1930年(昭和5)に出身地盛岡市で「夏草」を創刊、翌年に工学博士となり、東京・杉並区和田本町に転居、1934年(昭和9)には、東大ホトトギス会を興し学生を指導、第一句集『雑草園』を出します。
 1942年(昭和17)に、第二句集『雪国』を出し、1953年(昭和28)には、東大教授を定年退官し名誉教授となりました。1968年(昭和43)に勲三等旭日中綬章を受章、1983年(昭和58)には岩手日報文化賞を受賞するなどしています。
 1987年(昭和62)には、「ホトトギス」名誉会長となりましたが、翌年12月15日に78歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「みちのくの 山たゝなはる 花林檎」
・「みちのくの 町はいぶせき 氷柱かな」
・「祖母山も 傾山も 夕立かな」
・「たんぽぽや 長江濁る とこしなへ」
・「銀杏散る まつただ中に 法科あり」
・「みちのくの 雪深ければ 雪女郎」(山口青邨句集)
・「外套(がいとう)の 裏は緋(ひ)なりき 明治の雪」(露団々)
・「本を読む 菜の花明り 本にあり」(雑草園)
・「藤垂れて わが誕生日 むらさきに」(雪国)

〇山口青邨の主要な著作

・第一句集『雑草園』(1934年)
・第二句集『雪国』(1942年)
・句集『乾燥花』
・句集『露団々』
・句集『粗餐(そさん)』(1973年)
・句集『花宰相』
・句集『庭にて』
・句集『冬青空』
・句集『不老』
・句集『寒竹風松』
・随筆『花のある随筆』(1934年)
・随筆『草庵(そうあん)春秋』(1943年)
・随筆『回想の南瓜』(1965年)
・随筆『春籠秋籠』
・随筆『わが庭の記』
・随筆『三艸書屋雑記』

☆山口青邨関係略年表

・1892年(明治25)5月10日 岩手県盛岡市仁王小路にて旧盛岡藩士の父・山口政徳、母・千代の4男として生まれる
・1910年(明治43) 第二高等学校へ入学する
・1916年(大正5) 東京帝国大学工科大学採鉱科を卒業、古河鉱業(現在の古河機械金属)に入社する
・1918年(大正7) 古河鉱業を退社し、農商務省技師として鉱山省に勤務する
・1919年(大正8) シベリア炭鉱を調査する
・1920年(大正9) 文芸誌「玄土」を創刊、シュトルムの「湖」を日本で初めて訳し、「蜜蜂の湖」の題で発表する
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1922年(大正11) 結婚、高浜虚子に師事し「山会」に参加、水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成する
・1923年(大正12) 「芸術運動」を発刊する
・1927年(昭和2)2月 ドイツのベルリンに留学する
・1929年(昭和4)4月 ベルリン留学から帰国する
・1929年(昭和4)6月 東京帝国大学工学部教授となり、「ホトトギス」同人となる
・1930年(昭和5) 盛岡市で「夏草」を創刊する
・1931年(昭和6) 工学博士となる、東京・杉並区和田本町に転居する
・1934年(昭和9) 東大ホトトギス会を興し学生を指導、第一句集『雑草園』を出す
・1942年(昭和17) 第二句集『雪国』を出す
・1953年(昭和28) 東大教授を定年退職し名誉教授となる
・1968年(昭和43) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1983年(昭和58) 岩手日報文化賞を受賞する
・1987年(昭和62) 「ホトトギス」名誉会長となる
・1988年(昭和63)12月15日 78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
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murakamikijyou01

 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、俳人村上鬼城の亡くなった日で、「鬼城忌」とも呼ばれています。
 村上鬼城(むらかみ きじょう)は、幕末の1865年(慶応元年5月17日)に、江戸小石川の鳥取藩邸において、鳥取藩士(350石)だった小原平之進の長男として生まれましたが、名は荘太郎(しょうたろう)と言いました。1872年(明治5)の8歳の時、明治維新後、父が県庁官吏の職を得たことにより、群馬県高崎に移り住み、1875年(明治8)の11歳の時、母方村上源兵衛の養子となり、村上姓を名乗るようになります。
 1884年(明治17)に上京して、軍人を志しましたが耳疾のために断念、司法官を志して、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法官を志すものの果たすことができず中退、法律の知識を生かして、30歳の頃に高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。1897年(明治30)に俳誌「ホトトギス」が創刊されると、投句に専念するようになり、1913年(大正2)には高浜虚子に認められ「ホトトギス」の同人活動を始めます。
 1916年(大正5)の52歳の時、耳の疾病の悪化から一時代書人の職を追われましたが、翌年には法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、復職することができ、同年に大須賀乙字編『鬼城句集』を出版、広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。1918年(大正7)に自身の作品が「ホトトギス」で入選を果たし、渡辺水巴・飯田蛇笏・前田普羅らと並んで「ホトトギス」における代表的俳人として活躍、1926年(大正15)には『鬼城句集』を出します。
 1927年(昭和2)の64歳の時、高崎鞘町の鬼城庵が全焼したものの、翌年には、高浜虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、高崎並榎町に新居が完成、「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。1933年(昭和8)に『続鬼城句集』を出しましたが、1938年(昭和13)9月17日に、群馬県高崎市の自宅において、胃癌のため数え年74歳で亡くなっています。
 尚、旧居は「村上鬼城記念館」として公開されるようになりました。

<代表的な句>

・「冬蜂の死にどころなく歩きけり」
・「闘鶏の眼つぶれて飼われけり」
・「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」
・「生きかはり死にかはりして打つ田かな」
・「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」
・「蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな」
・「治聾酒(じろうしゅ)の酔ふほどもなくさめにけり」

〇村上鬼城の主要な著作

・句集『鬼城句集』大須賀乙字編(1917年)
・句集『鬼城句集』(1926年)
・句集『続鬼城句集』(1933年)
・『鬼城俳句俳論集』(1947年)

☆村上鬼城関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1865年(慶応元年5月17日) 江戸の鳥取藩邸において、鳥取藩士だった小原平之進の長男として生まれる
・1872年(明治5年) 8歳の時、父が県庁官吏の職を得て、群馬県高崎に移り住む
・1875年(明治8年) 11歳の時、母方村上源兵衛の養子となり、村上姓となる
・1884年(明治17年) 上京して、軍人を志したが耳疾のために断念、司法官を志す
・1888年(明治21年) 24歳の時、スミと結婚する
・1894年(明治25年) 30歳の頃、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となる
・1897年(明治30年) 「ホトトギス」が創刊されると、投句に専念する
・1913年(大正2年) 高浜虚子に認められ「ホトトギス」の同人活動を始める
・1916年(大正5年) 52歳の時、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われる
・1917年(大正6年) 法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、復職することができる
・1917年(大正6年) 大須賀乙字編『鬼城句集』を出版、広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらす
・1918年(大正7年)  自身の作品が「ホトトギス」で入選する
・1926年(大正15年) 『鬼城句集』を出す
・1927年(昭和2年) 64歳の時、高崎鞘町の鬼城庵が全焼する
・1928年(昭和3年) 虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、高崎並榎町に新居が完成する
・1933年(昭和8年) 『続鬼城句集』を出す
・1938年(昭和13年)9月17日 群馬県高崎市の自宅において、胃癌のため数え年74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
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