
映画『雨月物語』(うげつものがたり)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に製作された溝口健二監督、川口松太郎・依田義賢脚本による日本映画です。江戸時代の上田秋成著の読本『雨月物語』全9話の中から、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を元に、川口松太郎と依田義賢が脚色、出演は、京マチ子、森雅之、田中絹代ほかでした。
戦国時代の琵琶湖畔の陶工と農民の兄弟が戦国の動乱に巻込まれる悲劇で、貧しい陶工が死霊の女に迷ったり、亡妻の幻と再会する幻想が幽玄な雰囲気とリアルな描写で語られ、溝口監督の卓越した演出により映画の詩に昇華しています。国際的に評価され、第14回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、撮影の宮川一夫も第4回文部省芸術選奨に輝き、第8回毎日映画コンクール美術賞、録音賞を受賞、さらに、エディンバラ国際映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞も受賞しました。
戦国時代の琵琶湖畔の陶工と農民の兄弟が戦国の動乱に巻込まれる悲劇で、貧しい陶工が死霊の女に迷ったり、亡妻の幻と再会する幻想が幽玄な雰囲気とリアルな描写で語られ、溝口監督の卓越した演出により映画の詩に昇華しています。国際的に評価され、第14回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、撮影の宮川一夫も第4回文部省芸術選奨に輝き、第8回毎日映画コンクール美術賞、録音賞を受賞、さらに、エディンバラ国際映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞も受賞しました。
〇溝口健二(みぞぐち けんじ)とは?
大正時代から昭和時代に活躍した日本を代表する映画監督の一人です。明治時代後期の1898年(明治31)5月16日に、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)で、父・溝口善太郎と母・まさの長男として生まれました。
小学校卒業後、美術修行や新聞社勤務を経て、1920年(大正9)に日活向島撮影所に助監督として入社し、1923年(大正12)に、『愛に甦へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画します。関東大震災後、京都の日活大将軍撮影所に移り、『紙人形春の囁き』(1926年)などで下町情緒を描き、評価されるようになりました。
1929年(昭和4)の世界恐慌後は、傾向映画の『都会交響楽』(1929年)やトーキーの『ふるさと』(1930年)を撮るなど新たなチャレンジもします。1934年(昭和9)に、独立プロダクション第一映画に入って『浪華悲歌』(1936年)と『祇園の姉妹』(1936年)を製作、徹底したリアリズムによって名声を高めました。
太平洋戦争中は、『元禄忠臣蔵』(1941~42年)などの歴史ものを作りました。戦後は低迷期を経て、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)がベネチア映画祭で3年連続受賞し、海外での評価も一気に高まり、ヌーベル・バーグの監督をはじめ、多くの信奉者を得ます。徹底したリアリズムによる作風、カメラを長回しする「ワンシーン・ワンカット」の技法によっても知られましたが、1956年(昭和31)8月24日に、京都市内の病院において、58歳で亡くなりました。
小学校卒業後、美術修行や新聞社勤務を経て、1920年(大正9)に日活向島撮影所に助監督として入社し、1923年(大正12)に、『愛に甦へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画します。関東大震災後、京都の日活大将軍撮影所に移り、『紙人形春の囁き』(1926年)などで下町情緒を描き、評価されるようになりました。
1929年(昭和4)の世界恐慌後は、傾向映画の『都会交響楽』(1929年)やトーキーの『ふるさと』(1930年)を撮るなど新たなチャレンジもします。1934年(昭和9)に、独立プロダクション第一映画に入って『浪華悲歌』(1936年)と『祇園の姉妹』(1936年)を製作、徹底したリアリズムによって名声を高めました。
太平洋戦争中は、『元禄忠臣蔵』(1941~42年)などの歴史ものを作りました。戦後は低迷期を経て、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)がベネチア映画祭で3年連続受賞し、海外での評価も一気に高まり、ヌーベル・バーグの監督をはじめ、多くの信奉者を得ます。徹底したリアリズムによる作風、カメラを長回しする「ワンシーン・ワンカット」の技法によっても知られましたが、1956年(昭和31)8月24日に、京都市内の病院において、58歳で亡くなりました。
☆読本『雨月物語』(うげつものがたり)とは?
上田秋成著の読本作品で、江戸時代後期の1768年(明和5)に成立し、1776年(安永5)に刊行されました。5巻5冊からなり、日本・中国の古典・伝説から取材した、「白峰」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の淫」、「青頭巾」、「貧福論」の9編の怪異談を集めたものです。
☆上田秋成(うえだ あきなり)とぱ?
江戸時代の読本作者・歌人・国学者です。江戸時代中期の1734年(享保19年6月25日)に、大坂曾根崎において、母・松尾ヲサキの私生児(父は定かでない)として生まれましたが、幼名は仙次郎(通称は東作)と言いました。
1737年(元文2)、4歳のときに堂島永来町(現在の大阪市北区堂島1丁目)で、紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったものの、翌年に痘瘡にかかり生死をさまよいます。青年時代は遊蕩に耽ったとされますが、20歳前後から俳諧に親しみ、高井几圭に師事し、漁焉(ぞえん)の俳号で活躍しました。
1760年(宝暦10)に27歳で植山たまと結婚、翌年養父が死亡して嶋屋を継ぎます。その一方で、浮世草子『諸道聴耳世間猿 』(1766年)、『世間妾形気 』(1767年)、読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)などを書きながら、賀茂真淵一門の国学者・加藤宇万伎にも師事しました。
しかし、1771年(明和8)に嶋屋が火事で類焼して破産、加島稲荷の神職方に寄寓して医術を学び、1776年(安永5)に大坂尼崎で開業します。その傍らで、国学研究にも精進し、1786年(天明6)から翌年に、本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行いました。
この頃から大坂近郊の淡路庄村に隠遁し、著述活動を続けたものの、1790年(寛政2)に57歳で左眼を失明しました。晩年は京都に移って、貧苦の中で国学書や随筆集『胆大小心録』や読本『春雨物語』(ともに1808年)などを著しましたが、 1809年(文化6年6月27日)に京都において、数え年76歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1737年(元文2)、4歳のときに堂島永来町(現在の大阪市北区堂島1丁目)で、紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったものの、翌年に痘瘡にかかり生死をさまよいます。青年時代は遊蕩に耽ったとされますが、20歳前後から俳諧に親しみ、高井几圭に師事し、漁焉(ぞえん)の俳号で活躍しました。
1760年(宝暦10)に27歳で植山たまと結婚、翌年養父が死亡して嶋屋を継ぎます。その一方で、浮世草子『諸道聴耳世間猿 』(1766年)、『世間妾形気 』(1767年)、読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)などを書きながら、賀茂真淵一門の国学者・加藤宇万伎にも師事しました。
しかし、1771年(明和8)に嶋屋が火事で類焼して破産、加島稲荷の神職方に寄寓して医術を学び、1776年(安永5)に大坂尼崎で開業します。その傍らで、国学研究にも精進し、1786年(天明6)から翌年に、本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行いました。
この頃から大坂近郊の淡路庄村に隠遁し、著述活動を続けたものの、1790年(寛政2)に57歳で左眼を失明しました。晩年は京都に移って、貧苦の中で国学書や随筆集『胆大小心録』や読本『春雨物語』(ともに1808年)などを著しましたが、 1809年(文化6年6月27日)に京都において、数え年76歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1889年(明治22) | 政治学者で東京帝国大学の総長を務めた南原繁の誕生日 | 詳細 |
1905年(明治38) | 「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する | 詳細 |
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる | 詳細 | |
1933年(昭和8) | 小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日 | 詳細 |
1946年(昭和21) | 太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行される | 詳細 |
1966年(昭和41) | 第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測 | 詳細 |
1975年(昭和50) | 日本画家堂本印象の命日 | 詳細 |