
映画『羅生門』(らしょうもん)は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に封切りされた大映映画です。芥川龍之介の短編小説『藪の中』を橋本忍と黒澤明が脚色し、黒澤明が監督したもので、三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実、上田吉二郎、加東大介ほかが出演しました。
平安の乱世を舞台に、武士の死をめぐり、妻や盗賊等の告白が一つ一つ食違う多義的な真実を映画化した異色時代劇です。第12回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第1回ブルーリボン賞で脚本賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞しました。
本作の受賞は、国際的にはほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめ、日本映画産業が国際市場に進出する契機となります。
平安の乱世を舞台に、武士の死をめぐり、妻や盗賊等の告白が一つ一つ食違う多義的な真実を映画化した異色時代劇です。第12回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第1回ブルーリボン賞で脚本賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞しました。
本作の受賞は、国際的にはほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめ、日本映画産業が国際市場に進出する契機となります。
〇黒澤明(くろさわ あきら)とは?
昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家です。明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
☆黒澤明の監督作品一覧
・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1561年(永禄4) | 第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)が始まる(新暦10月27日) | 詳細 |
| 1704年(宝永元) | 俳人向井去來(蕉門十哲の一人)の命日(新暦10月8日) | 詳細 |
| 1937年(昭和12) | 「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布・施行され、「軍需工業動員法」が全面発動される | 詳細 |
| 1943年(昭和18) | 鳥取地震(M7.4)が起き、死者1,083人を出す | 詳細 |
| 1945年(昭和20) | GHQが「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)を出す | 詳細 |
| 1955年(昭和30) | 日本が「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)に正式に加盟する | 詳細 |
| 1956年(昭和31) | フェーン現象で、富山県魚津市で魚津大火が起き、1,583戸を焼失し、死者5名、負傷者170名を出す | 詳細 |
| 1960年(昭和35) | 東京・大阪の5局でカラーテレビ本放送が開始される | 詳細 |