
その後、マルクス主義に接近し、1930年(昭和5)には、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙されました。1932年(昭和7)に卒論「森鷗外研究」を書いて卒業し、大学院へ進み、プロレタリア科学研究所に入り、山室静を知り、マルクス主義芸術論に取り組み、1933年(昭和8)には、「治安維持法」違反で検挙されましたが、翌年に釈放出獄され、郷里に帰ります。
1935年(昭和10)に北川静雄の筆名で評論「レーニンのトルストイ評について」を発表、以後トルストイ研究に取り組み、1936年(昭和11)に再び上京し、逓信省電務局無線課に勤務しました。1937年(昭和12)に小説家宮本百合子を訪問し、トルストイの『戦争と平和』に感銘を受け、1941年(昭和16)には、逓信省電務局無線課を退職します。
1943年(昭和18)に中央公論社嘱託、1944年(昭和19)に情報局嘱託となったものの、1945年(昭和20)に召集され名古屋の連隊に入りましたが、敗戦を迎えました。1946年(昭和21)に平野謙、山室静、埴谷雄高、小田切秀雄、荒正人と共に雑誌「近代文学」を創刊し、「芸術 歴史 人間」を発表、1947年(昭和22)に「『戦争と平和』論」を発表、1949年(昭和24)には、初の著書『小林秀雄論』を刊行します。
1953年(昭和28)に新日本文学会の常任中央委員に選ばれ、1954年(昭和29)に「群像」に連載した『『白樺』派の文学』を刊行、1957年(昭和32)には、中国訪問日本文学代表団に参加、『転向文学論』を刊行して、戦後派文学の代表的な評論家となりました。1960年(昭和35)に『物語戦後文学史』を刊行(その後、続と完結編が出る)、1964年(昭和39)には、「近代文学」終刊し、新日本文学会を退会します。
1965年(昭和40)に『物語戦後文学史』で第19回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞、平野の紹介で明治大学文学部専任講師となり、1966年(昭和41)にソ連作家同盟の招きで平野らと訪ソ、1969年(昭和44)には、明治大学教授に昇任しました。1978年(昭和53)に江藤淳との無条件降伏論争が始まり、1979年(昭和54)に明治大学文学部教授を定年退職、1983年(昭和58)に『古い記憶の井戸』で第34回読売文学賞(随筆・紀行賞)、1991年(平成3)には、『志賀直哉』で第32回毎日芸術賞を受賞します。
1996年(平成8)に豊田文化賞を受賞しましたが、2001年(平成13)1月13日に、神奈川県逗子市の自宅において、脳出血により、92歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1199年(建久10) | 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日) | 詳細 | |||||
1653年(承応2) | 町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日) | 詳細 | |||||
1945年(昭和20) | 東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す | 詳細 | |||||
1966年(昭和41) | 「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される | 詳細 | |||||
1976年(昭和51) | 小説家・劇作家舟橋聖一の命日 | 詳細 | |||||
1992年(平成4) | 共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される | 詳細 |