ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:プロレタリア文学

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 今日は、平成時代の2001年(平成13)に、文芸評論家本多秋五の亡くなった日です。
 本多秋五(ほんだしゅうご)は、明治時代後期の1908年(明治41)9月22日に、愛知県西加茂郡猿投村花本(現在の豊田市)において生まれましたが、1912年(明治45)の4歳の時に母と死別しました。1921年(大正10)に愛知県立第五中学校(現在の県立瑞陵高校)へ入学、同人誌「朱雀」に参加、1926年(大正15)に旧制第八高等学校に進学し、1929年(昭和4)には、東京帝国大学文学部国文科に入学ます。
 その後、マルクス主義に接近し、1930年(昭和5)には、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙されました。1932年(昭和7)に卒論「森鷗外研究」を書いて卒業し、大学院へ進み、プロレタリア科学研究所に入り、山室静を知り、マルクス主義芸術論に取り組み、1933年(昭和8)には、「治安維持法」違反で検挙されましたが、翌年に釈放出獄され、郷里に帰ります。
 1935年(昭和10)に北川静雄の筆名で評論「レーニンのトルストイ評について」を発表、以後トルストイ研究に取り組み、1936年(昭和11)に再び上京し、逓信省電務局無線課に勤務しました。1937年(昭和12)に小説家宮本百合子を訪問し、トルストイの『戦争と平和』に感銘を受け、1941年(昭和16)には、逓信省電務局無線課を退職します。
 1943年(昭和18)に中央公論社嘱託、1944年(昭和19)に情報局嘱託となったものの、1945年(昭和20)に召集され名古屋の連隊に入りましたが、敗戦を迎えました。1946年(昭和21)に平野謙、山室静、埴谷雄高、小田切秀雄、荒正人と共に雑誌「近代文学」を創刊し、「芸術 歴史 人間」を発表、1947年(昭和22)に「『戦争と平和』論」を発表、1949年(昭和24)には、初の著書『小林秀雄論』を刊行します。
 1953年(昭和28)に新日本文学会の常任中央委員に選ばれ、1954年(昭和29)に「群像」に連載した『『白樺』派の文学』を刊行、1957年(昭和32)には、中国訪問日本文学代表団に参加、『転向文学論』を刊行して、戦後派文学の代表的な評論家となりました。1960年(昭和35)に『物語戦後文学史』を刊行(その後、続と完結編が出る)、1964年(昭和39)には、「近代文学」終刊し、新日本文学会を退会します。
 1965年(昭和40)に『物語戦後文学史』で第19回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞、平野の紹介で明治大学文学部専任講師となり、1966年(昭和41)にソ連作家同盟の招きで平野らと訪ソ、1969年(昭和44)には、明治大学教授に昇任しました。1978年(昭和53)に江藤淳との無条件降伏論争が始まり、1979年(昭和54)に明治大学文学部教授を定年退職、1983年(昭和58)に『古い記憶の井戸』で第34回読売文学賞(随筆・紀行賞)、1991年(平成3)には、『志賀直哉』で第32回毎日芸術賞を受賞します。
 1996年(平成8)に豊田文化賞を受賞しましたが、2001年(平成13)1月13日に、神奈川県逗子市の自宅において、脳出血により、92歳で亡くなりました。

〇本多秋五の主要な著作

・『「戦争と平和」論』(1947年)
・『小林秀雄論』(1949年)
・『「白樺」派の文学』(1954年)
・『転向文学論』(1957年)
・『トルストイ論』(1960年)
・『物語戦後文学史』正・続・完結編(1960~1965年)第19回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞
・『有効性の上にあるもの』(1963年)
・『戦時戦後の先行者たち』(1963年)
・『「白樺」派の作家と作品』(1968年)
・『遠望近思 鬼石谷戸から』(1970年)
・『戦後文学史論』(1971年)
・『戦後文学の作家と作品』(1971年)
・『古い記憶の井戸』(1982年)第34回読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞
・『トルストイ論集』(1988年)
・『志賀直哉』上・下 (1990年)第32回毎日芸術賞受賞
・『一閃の光』(1993年)

☆本多秋五関係略年表

・1908年(明治41)9月22日 愛知県西加茂郡猿投村花本(現在の豊田市)において、生まれる
・1912年(明治45) 4歳で母と死別する
・1921年(大正10) 愛知県立第五中学校へ入学、同人誌「朱雀」に参加する
・1926年(大正15) 旧制第八高等学校に入学する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学文学部国文科に入学し、マルクス主義に接近する
・1930年(昭和5) ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される
・1932年(昭和7) 東京帝国大学文学部国文科を卒論「森鷗外研究」を書いて卒業し、大学院へ進み、プロレタリア科学研究所に入り、山室静を知り、マルクス主義芸術論に取り組む
・1933年(昭和8) 「治安維持法」違反で検挙される
・1934年(昭和9) 警察署から釈放出獄され、郷里に帰る
・1935年(昭和10) 北川静雄の筆名で評論「レーニンのトルストイ評について」を発表、以後トルストイ研究に取り組む
・1936年(昭和11) 再び上京し、逓信省電務局無線課に勤務する
・1937年(昭和12) 小説家宮本百合子を訪問し、トルストイの『戦争と平和』に感銘を受ける
・1941年(昭和16) 逓信省電務局無線課を退職する
・1943年(昭和18) 中央公論社嘱託となる
・1944年(昭和19) 情報局嘱託となる。
・1945年(昭和20) 召集され名古屋の連隊に入るが敗戦を迎える
・1946年(昭和21) 平野謙、山室静、埴谷雄高、小田切秀雄、荒正人とともに雑誌「近代文学」を創刊し、「芸術 歴史 人間」を発表する
・1947年(昭和22) 「『戦争と平和』論」を発表する
・1949年(昭和24) 初の著書『小林秀雄論』を刊行する
・1953年(昭和28) 新日本文学会の常任中央委員に選ばれる
・1954年(昭和29) 「群像」に連載した『『白樺』派の文学』を刊行する
・1957年(昭和32) 中国訪問日本文学代表団に参加、『転向文学論』を刊行して、戦後派文学の代表的な評論家となる
・1960年(昭和35) 『物語戦後文学史』を刊行(その後、続と完結編が出る)する
・1964年(昭和39) 「近代文学」終刊、新日本文学会を退会する
・1965年(昭和40) 『物語戦後文学史』で第19回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞、平野の紹介で明治大学文学部専任講師となる
・1966年(昭和41) ソ連作家同盟の招きで平野らと訪ソする
・1969年(昭和44) 明治大学教授に昇任する
・1978年(昭和53) 江藤淳との無条件降伏論争が始まる
・1979年(昭和54) 明治大学文学部教授を定年退職する
・1983年(昭和58) 『古い記憶の井戸』で第34回読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞する
・1991年(平成3) 『志賀直哉』で第32回毎日芸術賞を受賞する
・1996年(平成8) 豊田文化賞を受賞する
・2001年(平成13)1月13日 神奈川県逗子市の自宅において、脳出血により、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1653年(承応2)町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日)詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
1992年(平成4)共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、詩人壺井繁治が亡くなった日です。
 壺井繁治(つぼい しげじ)は、明治時代後期の1897年(明治30)10月18日に、香川県小豆郡苗羽村大字堀越(現在の小豆島町)で、壺井増十郎・トワの四男として生まれました。1917年(大正6)に上京し、早稲田大学政経学科へ入学、1918年(大正7)に学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験、大学を中退し、1922年(大正11)には、プロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職します。
 1924年(大正13)に萩原恭次郎、岡本潤らと「赤と黒」を創刊、アナーキスト詩人として活躍、1925年(大正14)には、同郷の岩井(壺井)栄と結婚しました。次第に社会意識を高め、1927年(昭和2)にアナーキズム系の詩誌「文芸解放」を創刊、その11号に「我等は如何に彼等と対立するか」を掲載し、アナキズムからマルキシズムへの転回を示し、黒色青年連盟員に襲撃され重傷を負います。
 1928年(昭和3)に三好十郎らと左翼芸術家同盟を結成、同年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加しましたが、夏には検挙されて市ヶ谷刑務所にはじめて長期拘留されました。1929年(昭和4)にナップ機関紙「戦旗」の編集を引き受け、日本プロレタリア作家同盟中央委員となったものの、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反容疑により豊多摩刑務所に入獄します。
 1932年(昭和7)に日本プロレタリア文化連盟弾圧により再び入獄し、1934年(昭和9)には、転向出獄して、東京市新宿区上落合に住みました。1935年(昭和10)に風刺集団サンチョ・クラブを結成、“村長”として風刺文学運動を続け、1942年(昭和17)には、夫妻で長年住みなれた上落合をあとにし、鷺宮の新居へと引っ越します。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に新日本文学会の創立に参加し、発起人となったものの、1962年(昭和37)には、詩人会議グループを結成し、「詩人会議」を創刊しました。政治性、社会性の濃い詩風で、民主主義詩運動を推進するなど、反骨、抵抗の詩人として活躍しましたが、1975年(昭和50)9月4日に、東京において、77歳で亡くなっています。

〇壺井繁治の主要な著作

・詩集『果実』(1946年)
・詩集『壺井繁治詩集』(1948年)
・評論集『抵抗の精神』(1949年)
・詩集『頭の中の兵士』(1956年)
・評論集『現代詩の精神』(1956年)
・詩集『風船』(1957年)
・評論集『現代詩の流域』(1959年)
・詩集『馬』(1966年)
・散文詩集『奇妙な洪水』(1972年)
・詩集『老齢詩抄』(1976年)

☆壺井繁治関係略年表

・1897年(明治30)10月18日 香川県小豆郡苗羽村大字堀越(現在の小豆島町)で、壺井増十郎・トワの四男として生まれる
・1903年(明治36) 苗羽尋常小学校へ入学する
・1917年(大正6) 上京し、早稲田大学政経学科へ入学する
・1918年(大正7) 学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験する
・1922年(大正11) プロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職する
・1922年(大正11) 個人誌『出発』を刊行する
・1924年(大正13) 萩原恭次郎、岡本潤らと「赤と黒」を創刊、アナーキスト詩人として活躍する
・1925年(大正14) 同郷の岩井(壺井)栄と結婚する
・1927年(昭和2) 「文芸解放」を創刊する
・1927年(昭和2)12月 「文芸解放」11号に「我等は如何に彼等と対立するか」を掲載し、アナキズムからマルキシズムへの転回を示し、黒色青年連盟員に襲撃され重傷を負う
・1928年(昭和3)2月 三好十郎らと左翼芸術家同盟を結成する
・1928年(昭和3)3月 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1929年(昭和4)10月 ナップ機関紙「戦旗」の編集を引き受ける
・1929年(昭和4) 日本プロレタリア作家同盟中央委員となる
・1930年(昭和5)10月 「治安維持法」違反容疑により豊多摩刑務所に入獄する
・1932年(昭和7)6月 日本プロレタリア文化連盟弾圧により再び入獄する
・1934年(昭和9)5月 転向出獄して、東京市新宿区上落合に住む
・1935年(昭和10) サンチョ・クラブを結成、“村長”として風刺文学運動を続ける
・1942年(昭和17)9月 夫妻で長年住みなれた上落合から、鷺宮の新居へと引っ越す
・1942年(昭和17) 第一詩集『壺井繁治詩集』を刊行する
・1945年(昭和20)12月 新日本文学会の創立に参加し、発起人となる
・1962年(昭和37)7月 詩人会議グループを結成し、「詩人会議」創刊する
・1975年(昭和50)9月4日 東京において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1702年(元禄15)武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の誕生日(新暦10月24日)詳細
1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細


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itoueinosuke01

 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家伊藤永之介の生まれた日です。
 伊藤永之介(いとう えいのすけ)は、秋田県秋田市において、父・伊藤祐義、母・ムメの五男(二人は夭折)としてに生まれましたが、本名は栄之助と言いました。1918年(大正7)に秋田県中通尋常小学校を卒業、日本銀行秋田支店の行員見習いとなったものの、1920年(大正9)に辞めて、翌年には新秋田新聞社に入社、『酒』が「国民新聞」懸賞小説一等に入選します。
 1922年(大正11)に同人誌「詩星」、「金砂(かなさ)」、「ボーフラ」に文芸評論などを発表し始め、1924年(大正13)には、同郷の金子洋文を頼って上京し、やまと新聞社に入社しました。1925年(大正14)に雑誌「潮流」に加入、1928年(昭和3)には、労農芸術家連盟(労芸)に参加、「文芸戦線」に小説『見えない鉱山』を発表して、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びます。
 1931年(昭和6)に雑誌「改造」に小説『万宝山』を発表、翌年に労農芸術家連盟(労芸)が解散すると、青野季吉、金子洋文らと労農文化連盟を結成しました。プロレタリア文学衰退とともに数年間沈黙し、1936年(昭和11)に『梟』が芥川賞候補となり、1938年(昭和13)の『鶯』で新潮文芸賞を受賞します。
 鳥類ものと称される以降の作品群は東北農民の無知や悲惨さを共感を込めて描き、独自の農民文学を開拓しました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に日本人民文学会に参加、1951年(昭和26)に文戦作家クラブを結成、1952年(昭和27)に『警察日記』を刊行(1955年に映画化)します。
 1953年(昭和28)に『五郎ぎつね』で第2回小学館児童文化賞奨励賞を受賞、翌年に和田伝らと日本農民文学会を結成、1956年(昭和31)には会長に就任しました。戦後の農民文学再建に意を注ぎましたが、1959年(昭和34)7月26日に、東京都渋谷区上原の自宅において、脳溢血のため55歳で亡くなっています。

〇伊藤永之介の主要な著作

・『酒』(1921年)「国民新聞」懸賞小説一等入選
・『見えない鉱山 (やま) 』(1928年)
・『恐慌』(1929年)
・『暴動』(1930年)
・『総督府模範竹林』(1930年)
・『万宝山』(1931年)
・『梟(ふくろう)』(1936年)第4回・第6回芥川賞候補
・『鴉 (からす) 』(1938年)第7回芥川賞候補
・『鶯(うぐいす)』(1938年)第2回新潮文芸賞受賞
・『湖畔の村』(1939年)
・『雪代とその一家』(1949年)
・『警察日記』(1952年)
・『五郎ぎつね』(1953年)小学館児童文化賞奨励賞受賞
・『なつかしい山河』(1954年)
・『続警察日記』(1955年)

☆伊藤永之介関係略年表

・1903年(明治36)11月21日 秋田県秋田市において、父・伊藤祐義、母・ムメの五男(二人は夭折)としてに生まれる
・1910年(明治43) 秋田県中通尋常小学校へ入学する
・1918年(大正7) 秋田県中通尋常小学校を卒業、日本銀行秋田支店の行員見習いとなる
・1920年(大正9) 日本銀行秋田支店の行員見習いを辞める
・1921年(大正10) 新秋田新聞社に入社、『酒』が「国民新聞」懸賞小説一等に入選する
・1922年(大正11) 同人誌「詩星」、「金砂(かなさ)」、「ボーフラ」に文芸評論などを発表し始める
・1924年(大正13) 同郷の金子洋文を頼って上京し、やまと新聞社に入社する
・1925年(大正14) 雑誌「潮流」に加入する
・1927年(昭和2) 輝子と結婚し、渋谷区代々木上原の一軒家に所帯を持つ
・1928年(昭和3) 労農芸術家連盟(労芸)に参加、「文芸戦線」に小説『見えない鉱山』を発表、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びる
・1931年(昭和6) 「改造」に小説『万宝山』を発表する
・1932年(昭和7) 労農芸術家連盟(労芸)が解散、青野季吉、金子洋文らと労農文化連盟を結成する
・1936年(昭和11) 『梟(ふくろう)』が芥川賞候補となる
・1938年(昭和13) 『鶯(うぐいす)』で新潮文芸賞を受賞する
・1947年(昭和22) 日本人民文学会に参加する
・1951年(昭和26) 文戦作家クラブを結成する
・1952年(昭和27) 『警察日記』を刊行する
・1953年(昭和28) 『五郎ぎつね』で第2回小学館児童文化賞奨励賞を受賞する
・1954年(昭和29) 和田伝(つとう)らと日本農民文学会を結成する
・1955年(昭和30) 『警察日記』が日活製作・配給、久松静児監督、森繁久彌主演で映画化される
・1956年(昭和31) 日本農民文学会の会長に就任する
・1959年(昭和34)7月26日 東京都渋谷区上原の自宅において、脳溢血のため55歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細


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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、小説家・詩人高見順の亡くなった日です。
 高見順(たかみ じゅん)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月30日に、福井県坂井郡三国町(現在の坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれましたが、本名は高間義雄と言いました。1908年(明治41)に母と共に上京し、1919年(大正8)に東京府立第一中学校へ入学して、白樺派などの文学に親しみます。
 1924年(大正13)に中学校を卒業後、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会、翌年にはダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊、1926年(大正15)には、校友会文芸部委員に就任しました。1927年(昭和2)に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加します。
 翌年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表、東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加しました。1929年(昭和4)に「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進み、翌年に東京帝国大学を卒業後、コロムビア・レコード会社へ入社します。
 1931年(昭和6)頃から日本プロレタリア作家同盟員として活動し、1933年(昭和8)には、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたものの、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加しました。1935年(昭和10)に饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となって作家としての地位を確立、翌年には『文芸時評』で文学界賞を受賞、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入ります。
 1939年(昭和14)、「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受け、1941年(昭和16)に陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣され、1944年(昭和19)に中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席、1945年(昭和20)には日本文学報国会へも参加しました。太平洋戦争後は、久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立、1946年(昭和21)には、そこから小説『今ひとたびの』を刊行します。
 1947年(昭和22)に池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開、1958年(昭和33)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1959年(昭和34)に評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞、1963年(昭和38)に長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞、1964年(昭和39)には、日本近代文学館設立運動により菊池寛賞、詩集『死の淵より』で野間文芸賞受章など数々の栄誉にも輝いています。
 しかし、翌年8月17日に、食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈されました。

〇高見順の主要な著作

・短編小説『感傷』(1933年)
・長編小説『故旧忘れ得べき』(1935年)第1回芥川賞候補
・評論『描写のうしろに寝てゐられない』(1936年)
・長編小説『如何(いか)なる星の下(もと)に』(1939~40年)
・評論『文学非力説』(1941年)
・長編小説『わが胸の底のここには』(1946~47年)1957年続編を発表するが未完
・小説『今ひとたびの』(1946年)
・詩集『樹木派』(1950年)
・長編小説『胸より胸に』(1950~51年)
・長編小説『生命の樹(き)』(1956~58年)
・評論『昭和文学盛衰史』(1958年)毎日出版文化賞受賞
・長編小説『激流』1部(1959~63年)
・長編小説『激流』2部(1963年~未完)
・長編小説『いやな感じ』(1960~63年)新潮社文学賞受賞
・詩集『死の淵(ふち)より』(1964年)野間文芸賞受賞
・日記『高見順日記』正続16巻(1941~65年)

☆高見順関係略年表

・1907年(明治40)1月30日 福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれる
・1908年(明治41) 母と共に上京する
・1919年(大正8) 東京府立第一中学校へ入学する
・1924年(大正13) 東京府立第一中学校を卒業、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会する
・1925年(大正14) ダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊する
・1926年(大正15) 校友会文芸部委員に就任する
・1927年(昭和2) 第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加する、
・1928年(昭和3) 左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加する
・1929年(昭和4) 「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進む
・1930年(昭和5) 東京帝国大学を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務後、コロムビア・レコード会社へ入社する
・1931年(昭和6)頃 日本プロレタリア作家同盟員として活動する 
・1933年(昭和8) 治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加する
・1935年(昭和10) 饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立、水谷秋子と結婚する
・1936年(昭和11) 『文芸時評』で文学界賞を受章、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入る
・1938年(昭和13) 浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める
・1939年(昭和14) 「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受ける
・1941年(昭和16) 陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される
・1944年(昭和19) 中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席する
・1945年(昭和20)6月 日本文学報国会参加する
・1945年(昭和20)9月 久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立する
・1946年(昭和21)9月 「鎌倉文庫」から小説『今ひとたびの』を刊行する 
・1947年(昭和22)5月 池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開する
・1950年(昭和25)6月 「婦人公論」に長編小説『胸より胸に』の連載を開始する
・1958年(昭和33)2月 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1959年(昭和34)9月 評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞を受賞する
・1962年(昭和37)5月 伊藤整、小田切進らと日本近代文学館設立準備会を発足させる
・1963年(昭和38)10月 長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞を受賞する
・1964年(昭和39)3月 日本近代文学館設立運動により菊池寛賞を受章する
・1964年(昭和39)12月 詩集『死の淵より』で野間文芸賞を受章する
・1965年(昭和40)8月17日 食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
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honjyoumutsuo01

 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、小説家・教育評論家本庄陸男の亡くなった日です。
 本庄陸男(ほんじょう むつお)は、1905年(明治38)2月20日に北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれました。その後、北見渚滑に再移住し、紋別高等小学校卒業後、尋常小学校の代用教員をしていましたが、16歳の時、樺太に渡って、王子製紙に1年間勤務、その貯金を持って、上京して青山師範学校へ入学します。
 在学中から文学活動を始め、雑誌に小品を投稿したり、教育評論を発表し、1925年(大正14)に卒業後、本郷誠之小学校に勤務しました。新興教育運動に参加するようになり、下町にある深川の明治小学校に自ら望んで転任します。
 その中で、前衛芸術家連盟に参加、1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に合流し、「文学新聞」の発行責任者を務め、出版部員として活動しました。同年に、『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となり、1930年(昭和5)には、教員組合事件で明治小学校を免職となります。
 それを機にプロレタリア文学の作家活動に専念し、小説、童話、評論などを発表、1931年(昭和6)の日本プロレタリア作家同盟(ナップ文学部の後身)第4回大会で中央委員となり、1934年(昭和9)の日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加し『白い壁』などを発表して、注目されました。1936年(昭和11)に雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となり、同年の『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞します。
 1938年(昭和13)に同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、歴史長編小説『石狩川』の連載を開始、明治初期の北海道開拓団の苦闘を描いて代表作となりました。しかし、肺結核に侵され、1939年(昭和14)7月23日に東京において、34歳の若さで亡くなっています。

〇本庄陸男の主要な著作

・『北の開墾地』(1928年)
・『資本主義下の小学校』(1928年)発禁
・『白い壁』(1935年)
・『橋梁(きょうりょう)』(1936年)
・『女の子男の子』(1936年)第2回人民文庫賞受賞
・『石狩は懐く』(1939年)
・『石狩川』(1939年)

☆本庄陸男関係略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 紋別高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる
・1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙に勤務する
・1921年(大正10) 17歳の時、上京して青山師範学校本科へ編入する
・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する
・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1928年(昭和3) 『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる
・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する
・1930年(昭和5)2月 教員組合事件で明治小学校を免職となる
・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作『石狩川』の連載を開始する
・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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