ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:フランス文学者

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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、小説家・フランス文学者辻邦生が亡くなった日です。
 辻邦生(つじ くにお)は、大正時代の1925年(大正14)9月24日に、東京市本郷区駒込(現在の東京都文京区)において、ジャーナリストで薩摩琵琶の伴奏家だった父・辻靖剛の子として生まれました。1930年(昭和5)に、愛知県名古屋市へ転居し、1932年(昭和7)には、東京へ戻り、赤坂区に住みます。
 旧制日大三中を経て、1944年(昭和19)に旧制松本高等学校理科乙類へ入学、翌年には、文科乙類へ転科し、寮生活において斎藤宗吉(北杜夫)と知り合い、終生交流を持つこととなりました。1949年(昭和24)に学制改革により信州大学に変わってから卒業し、東京大学文学部仏文学科へ入学します。
 1952年(昭和27)に卒業し、同大学の大学院へ進学、翌年には、後藤佐保子(のち名古屋大学名誉教授、ビザンツ美学美術史専攻)と結婚しました。1956年(昭和31)に学習院大学講師となり、1957年(昭和32)からフランス・パリ大学へ留学し、1961年(昭和36)に帰国します。
 1963年(昭和38)に『廻廊にて』で第4回近代文学賞を受賞、1966年(昭和41)には、立教大学助教授となりました。1969年(昭和44)に『安土往還記』で第19回芸術選奨新人賞、1973年(昭和48)には、『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞を受賞します。
 この間、東京農工大学教授を経て、1975年(昭和50)には、学習院大学教授となりました。1991年(平成3)に学習院大学教授を退任し、講師となり、1995年(平成7)には、『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞を受賞、イタリア共和国功労勲章カバリエーレ・ウフィチアーレ章も受章します。
 1996年(平成8)には、日本芸術院会員となったものの、1999年(平成11)7月29日に、長野県北佐久郡軽井沢町の別荘において、心筋梗塞による心不全のため73歳で亡くなりました。

〇辻邦生の主要な著作

・小説『廻廊にて』(1963年)第4回近代文学賞受賞
・小説『夏の砦』(1966年)
・小説『安土往還記』(1968年)第19回芸術選奨新人賞受賞
・評論『小説への序章 神々の死の後に』(1968年)
・小説『嵯峨野明月記』(1971年) 
・小説『背教者ユリアヌス』(1972年)第14回毎日芸術賞受賞
・戯曲『祝典喜劇 ポセイドン仮面祭』(1973年)
・『パリの手記』全5巻(1974年)
・小説『春の戴冠(たいかん)』(1977年)
・小説『フーシェ革命暦』(1981年)
・小説『樹の声海の声』上中下(1982年)
・小説『雲の宴(うたげ)』(1987年)
・エッセイ『黄金の時刻(とき)の滴り』(1993年)
・評伝『トーマス・マン』(1994年)
・小説『西行花伝』(1995年)第31回谷崎潤一郎賞受賞
・クリストフ・バタイユの翻訳『安南』(1995年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『アブサン』(1996年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『光の大地』(1996年)
・作品集『花のレクイエム』(1996年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『時の主人』(1997年)

☆辻邦生関係略年表

・1925年(大正14)9月24日 東京市本郷区駒込(現在の東京都文京区)において、ジャーナリストで薩摩琵琶の伴奏家だった父・辻靖剛の子として生まれる
・1930年(昭和5) 愛知県名古屋市へ転居する
・1932年(昭和7) 東京へ戻り、赤坂区に住む
・1944年(昭和19) 旧制松本高等学校理科乙類へ入学する
・1945年(昭和20) 文科乙類へ転科し、寮生活において斎藤宗吉(北杜夫)と知り合う
・1946年(昭和21) 三俣蓮華岳の山小屋に1か月番人をする
・1949年(昭和24) 学制改革により信州大学を卒業し、東京大学文学部仏文学科へ入学する
・1952年(昭和27) 東京大学文学部仏文学科を卒業し、同大学の大学院へ進学する
・1953年(昭和28) 辻佐保子(旧姓後藤、のち名古屋大学名誉教授、ビザンツ美学美術史専攻)と結婚する
・1956年(昭和31) 学習院大学講師となる
・1957年(昭和32) フランス・パリ大学へ留学する
・1961年(昭和36) フランス・パリ大学留学から帰国する
・1963年(昭和38) 『廻廊にて』で第4回近代文学賞を受賞する
・1966年(昭和41) 立教大学助教授となる
・1969年(昭和44) 『安土往還記』で第19回芸術選奨新人賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞を受賞する
・1975年(昭和50) 学習院大学教授となる
・1981年(昭和56) 父の死去を機に辻家の家系を探訪する
・1991年(平成3) 学習院大学教授を退任し、講師となる
・1995年(平成7) 『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞を受賞、イタリア共和国功労勲章カバリエーレ・ウフィチアーレ章を受章する
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1998年(平成9) 鎌倉を取材旅行する
・1999年(平成11)7月29日 長野県北佐久郡軽井沢町の別荘において、心筋梗塞による心不全のため73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1905年(明治38)「桂・タフト協定」が締結される詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、フランス文学者・文芸評論家中島健蔵が亡くなった日です。
 中島健蔵(なかじま けんぞう)は、明治時代後期の1903年(明治36)2月21日に、東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれました。東京高師附属中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1925年(大正14)に、東京帝国大学文学部仏文科へ入学します。
 1926年(大正15)に今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊、1928年(昭和3)には、東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残りました。1931年(昭和6)に「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書き、1933年(昭和8)には、東京帝国大学文学部助手に昇格します。
 1934年(昭和9)に、辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行しました。太平洋戦争中の1942年(昭和17)に、陸軍に徴用されたためマライ派遣軍の一員の陸軍報道班員としてシンガポールに赴き、年末に帰国します。
 戦後は、1945年(昭和20)に日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)、翌年には、日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」にも参加しました。1948年(昭和23)に福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となり、1951年~52年(昭和26~27)には、伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護します。
 1954年(昭和29)に著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞、1955年(昭和30)に新日本文学会幹事会議長(~1961年)となり、1956年(昭和31)には、日中文化交流協会を結成して理事長となりました。1959年(昭和34)に安保批判の会に参加、1960年(昭和35)に東京大学仏文大学院講師となりましたが、1962年(昭和37)には東京大学を辞職しています。
 1977年(昭和52)に『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞、1978年(昭和53)に『新聞収録大正史』(大正出版)を監修したものの、1979年(昭和54)6月11日に、東京都中野区において、76歳で亡くなりました。 

〇中島健蔵の主要な著作

・評論集『懐疑と象徴』(1934年)
・『現代文芸論』(1936年)
・『現代作家論』(1941年)
・『文芸学試論』(1942年)
・『アンドレ・ジード』(1949年)
・『昭和時代』(1957年)
・自伝小説『自画像』(1963~66年)
・『現代文化論』(1966年)
・『音楽とわたくし』(1971~73年)
・『回想の文学』全五巻(1977年)第30回野間文芸賞受賞
・『回想の戦後文学』(1979年)

☆中島健蔵関係略年表

・1903年(明治36)2月21日 東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれる
・1909年(明治42) 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学する
・1914年(大正3) 父宛に贈られた親類前田夕暮(泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、短歌を創作する
・1919年(大正8) 父・中島泰蔵を結核で亡くす
・1920年(大正9) 東京高師附属中学校を卒業し、補習科に通う
・1921年(大正10) 旧制松本高等学校文科乙類へ入学する
・1925年(大正14) 旧制松本高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部仏文科へ入学する
・1926年(大正15) 今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊する
・1928年(昭和3) 東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残る
・1931年(昭和6) 「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書く
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部助手に昇格する
・1934年(昭和9) 辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行する
・1935年(昭和10) 東大仏文の研究室にて太宰治と檀一雄の訪問を受ける
・1942年(昭和17) 陸軍報道班員としてシンガポールに赴く
・1945年(昭和20) 日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)する
・1946年(昭和21) 日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」に参加する
・1948年(昭和23) 福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となる
・1951年~52年(昭和26~27) 伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護する
・1954年(昭和29) 著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞する
・1955年(昭和30) 新日本文学会幹事会議長(~1961年)となる
・1956年(昭和31) 日中文化交流協会を結成して理事長となる
・1959年(昭和34) 安保批判の会に参加する
・1960年(昭和35) 東京大学仏文大学院講師となる
・1962年(昭和37) 東京大学を辞職する
・1977年(昭和52) 『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『新聞収録大正史』(大正出版)を監修する
・1979年(昭和54)6月11日 東京都中野区において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃する(新暦7月6日)詳細
1873年(明治6)「国立銀行条例」に基づき、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)が設立される(国立銀行設立の日)詳細
1942年(昭和17)関門トンネルが開通し、最初の試運転列車が通過する詳細
1951年(昭和26)「産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)「東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1892年(明治25)に、詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の生まれた日です。
 堀口大学(ほりぐち だいがく)は、東京・本郷区森川町(現在の東京都文京区)で、長岡藩士の家系の堀口九萬一(のち外交官)の長男(母は村上藩士江坂氏の長女)として生まれました。母が早世して祖母に育てられ、1904年(明治37)に、旧制の新潟県立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学、文学に親しみます。
 1909年(明治42)に上京し、与謝野寛・晶子の「新詩社」に入り、翌年には慶應義塾大学文学部予科に入学、「三田文学」に詩歌を発表したりしました。しかし、1911年(明治44)に中退して父の任地であるメキシコへ赴き、以後父に従って、ベルギー、スペイン、ブラジル、ルーマニアと、青春時代の大部分を海外で過ごしたものの、2度日本へ帰っています。
 フランス語に精通し、その間に訳詩集『昨日の花』(1918年)、第一詩集『月光とピエロ』(1919年)、第一歌集『パンの笛』(1919年)、翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)などを発表、自由な日本語を駆使した知的抒情詩人として登場しました。1925年(大正14)に帰国しましたが、同年に出版した訳詩集『月下の一群』は高く評価され、日本近代の代表的な名訳詩集とされます。
 1928年(昭和3)に日夏耿之介、西条八十らと詩誌『PANTHÉON』を出し、次いで翌年に独力で詩誌『オルフェオン』を刊行して後進を育てました。1932年(昭和7)に『昼顔』を発行しましたが発禁処分となるものの、1935年(昭和10)には日本ペンクラブの副会長に推されます。
 その後、フランス語訳に専念しますが、戦時下において著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けました。戦火を逃れるため新潟県に疎開していましたが、太平洋戦争後は、著作活動を再開し、詩集『人間の歌』(1947年)などを出します。
 1950年(昭和25)に疎開先から神奈川県葉山町へ転居、1957年(昭和32)に日本芸術院会員となり、1959年(昭和34)に詩集『夕の虹』で第10回読売文学賞を受賞しました。1970年(昭和45)に文化功労者、1979年(昭和54)には文化勲章を受章したものの、1981年(昭和56)3月15日に、神奈川県葉山町において、89歳で亡くなっています。

〇堀口大学の主要な著作

・訳詩集『昨日の花』(1918年)
・詩集『月光とピエロ』(1919年)
・歌集『パンの笛』(1919年)
・詩集『水の面 (おもて) に書きて』(1921年)
・詩集『新しき小径』(1922年)
・翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)
・訳詩集『月下の一群』(1925年)
・詩集『砂の枕』(1926年)
・詩集『人間の歌』(1947年)
・詩集『夕の虹』(1957年)第10回読売文学賞受賞
・詩集『月かげの虹』(1971年)
・詩集『沖に立つ虹』(1974年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1944年(昭和19)「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員が強化される詳細
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