ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:ノーベル化学賞

shimomuraosamu01

 今日は、平成時代の2018年(平成30)に、ノーベル化学賞受賞者・有機化学者・海洋生物学者下村脩が亡くなった日です。
 下村脩(しもむら おさむ)は、1928年(昭和3)8月27日に、京都府福知山市で、陸軍軍人の家に生まれましたが、父の生家は長崎県雲仙市瑞穂町で代々庄屋を勤めた名家でした。満州国、長崎県佐世保市、大阪府等在住を経て、太平洋戦争下で母の実家・長崎県諫早市に疎開、旧制長崎県立佐世保中学校在籍の時、1945年(昭和20)8月9日の長崎市への原爆投下に遭遇します。
 戦後、旧制中学校を卒業し、旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)に進学、1951年(昭和26)に卒業しました。就職試験に落ちた後、長崎大学薬学部の安永峻五教授の下で実験実習指導員を4年間務めます。
 1955年(昭和30)に名古屋大学理学部化学科平田義正教授の有機化学研究室に研究生として所属、1957年(昭和32)にウミホタルの発光にかかわる物質(ルシフェリン)を結晶化し、その構造を解明しました。1959年(昭和34)に長崎大学の助手となり、翌年には、「5-イミダゾロンに関する研究(第1~2報)」に対して、名古屋大学から理学博士号が授与されます。
 1960年(昭和35)に渡米、フルブライト奨学生としてプリンストン大学の博士研究員となり、1962年(昭和37)にカルシウムで青色に発光する蛋白質イクオリン、青色光を緑色光に変換する緑色蛍光蛋白質(GFP)を発見、その構造を解明、1965年(昭和40)にはプリンストン大学上席研究員となりました。1981年(昭和56)にボストン大学医学部客員教授を兼任、1982年(昭和57)には、ウッズホール海洋生物学研究所の上席研究員となります。
 2000年(平成12)にボストン大学医学部客員教授を辞め、名誉教授となり、ウッズホール海洋生物学研究所を退職してからは自宅に研究室を作り研究を続けました。2007年(平成19)に「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」により、2006年度朝日賞を受賞、2008年(平成20)には、マーティン・チャルフィー、ロジャー・Y・チエンと共にノーベル化学賞を受賞、文化功労者となり、文化勲章も受章します。
 2009年(平成21)に名古屋大学特別教授となり、2009年(平成21)に福知山市名誉市民、佐世保市名誉市民、長崎県名誉県民の顕彰を受けましたが、2018年(平成30)10月19日に、長崎県長崎市において、老衰のため90歳で亡くなりました。

〇下村脩関係略年表

・1928年(昭和3)8月27日 京都府福知山市で、陸軍軍人の家に生まれる
・1945年(昭和20)8月9日 長崎市への原爆投下に諫早市で遭遇する
・1951年(昭和26) 旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)を卒業する
・1955年(昭和30) 名古屋大学理学部化学科平田義正教授の有機化学研究室に研究生として所属する
・1956年(昭和31)2月 「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功する
・1957年(昭和32) 論文「Crystalline Cypridina Luciferin」で、ルシフェリンの構造を解明する 
・1959年(昭和34) 論文「海ホタルルシフェリンの構造」、「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」を発表する
・1959年(昭和34) 長崎大学の助手となる 
・1960年(昭和35)4月 「5-イミダゾロンに関する研究(第1~2報)」に対して、名古屋大学から理学博士号が授与される
・1960年(昭和35)8月 横浜港から氷川丸にて渡米、フルブライト奨学生としてプリンストン大学の博士研究員となる
・1962年(昭和37) カルシウムで青色に発光する蛋白質イクオリン、青色光を緑色光に変換する緑色蛍光蛋白質(GFP)を発見、その構造を解明する
・1965年(昭和40) プリンストン大学上席研究員となる
・1981年(昭和56) ボストン大学医学部客員教授を兼任する
・1982年(昭和57) アメリカ合衆国のウッズホール海洋生物学研究所上席研究員となる
・2000年(平成12) ボストン大学医学部客員教授を辞める
・2001年(平成13) ボストン大学名誉教授となり、ウッズホール海洋生物学研究所を退職してからは自宅に研究室を作り研究を続ける
・2007年(平成19)1月 「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」により、2006年度朝日賞を受賞する
・2007年(平成19) 長崎大学名誉校友の称号を受ける
・2008年(平成20) 「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と開発」によって、マーティン・チャルフィー、ロジャー・Y・チエンと共にノーベル化学賞を受賞、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・2008年(平成20) ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員に就任する
・2009年(平成21) 名古屋大学特別教授となる
・2009年(平成21)1月1日 福知山市名誉市民となる
・2009年(平成21)3月21日 佐世保市名誉市民となる
・2009年(平成21)3月22日 長崎県名誉県民顕彰を受ける
・2010年(平成22)4月2日 オワンクラゲで縁がある鶴岡市立加茂水族館(別名クラゲ水族館)で、一日名誉館長を務める
・2010年(平成22)4月6日 母校の長崎県立諫早高校に銅像建立、
・2010年(平成22)4月7日 長崎大学にメダルのレプリカを貸与する
・2014年(平成26) 下村家の親族の墓所がある埼玉県深谷市から深谷市親善大使に委嘱された
・2018年(平成30)10月19日 長崎県長崎市において、老衰のため90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1899年(明治32)彫刻家山本豊市の誕生日詳細
1929年(昭和4)東京の日比谷公園に日比谷公会堂(当時東洋一の規模)が開場する詳細
1956年(昭和31)日本とソビエト連邦が、「日ソ共同宣言」に調印する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

fukuikenichi01

 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の亡くなった日です。
 福井謙一(ふくい けんいち)は、大正時代の1918年(大正7)10月4日に、奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれました。旧制今宮中学校、旧制大阪高等学校を経て、1938年(昭和13)に京都帝国大学工学部工業化学科に入学します。
 1941年(昭和16)に卒業後、大学院へ入学すると共に、短期将校として燃料研究所へ入所して軍務につき、航空添加燃料イソオクタンの製造研究に従事しました。1943年(昭和18)に、京都帝国大学工学部燃料化学科講師となり、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に助教授となります。
 1948年(昭和23)に「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」によって工学博士となり、1951年(昭和26)には教授となりました。翌年に有機化学反応に関与する電子のふるまいを解明した「フロンティア電子理論」を発表して注目を集め、1954年(昭和29)に第2報が発表されます。
 1962年(昭和37)に「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞、1964年(昭和39)に「HOMO-LUMO相互作用の理論」、1970年(昭和45)に化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表しました。1970年(昭和45)に京都大学評議員、1971年(昭和46)には工学部長となり、1981年(昭和56)には米国科学アカデミー外国人客員会員にも選ばれます。
 1981年(昭和56)に文化功労者となり、文化勲章も受章、同年12月には、「フロンティア電子理論」により、日本人初のノーベル化学賞(ノーベル賞としては日本人6人目)をロアルド・ホフマン博士と共同受賞しました。1982年(昭和57)に京都大学退官後、名誉教授となると共に、京都工芸繊維大学学長となります。
 1990年(平成2)に学術審議会会長、1995年(平成7)には日本学術振興会会長ともなりましたが、1998年(平成10)1月9日に京都において、満79歳で亡くなりました。

〇福井謙一の主要な著作

・『量子化学』(1968年)朝倉書店
・『化学反応と電子の軌道』(1976年)丸善
・『学問の創造』(1984年)佼成出版社
・『教育への直言』(1985年)パンリサーチインスティテュート
・『21世紀日本の選択』(1994年)ダイヤモンド社 
・『哲学の創造』梅原猛との共著(1996年)PHP研究所
・『複雑系の経済学』(1997年)ダイヤモンド社 

☆福井謙一の関係略年表

・1918年(大正7)10月4日 奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれる
・1930年(昭和5)3月 大阪市玉出第二尋常小学校を卒業する
・1935年(昭和10)3月 旧制今宮中学校を卒業する
・1938年(昭和13)3月 旧制大阪高等学校を卒業する
・1941年(昭和16)3月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として燃料研究所へ入所する
・1943年(昭和18)8月 京都帝国大学工学部燃料化学科講師(1966年 石油化学科に改組)となる
・1943年(昭和18)12月 正七位となる
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学工学部燃料化学科助教授となる
・1948年(昭和23)6月 工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)となる
・1951年(昭和26)4月 京都大学工学部燃料化学科教授(高温化学講座)となる
・1952年(昭和27) フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表
・1954年(昭和29) フロンティア軌道理論の第2報を発表する
・1962年(昭和37)5月 「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞する
・1964年(昭和39) HOMO-LUMO相互作用の理論を発表する
・1966年(昭和41) 高圧化学講座が炭化水素物理化学講座に改称される
・1970年(昭和45) 化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表する
・1970年(昭和45)11月 京都大学評議員となる
・1971年(昭和46)4月 京都大学評議員を辞める
・1971年(昭和46)4月 京都大学工学部長となる
・1973年(昭和48)3月 京都大学工学部長を退任する
・1981年(昭和56) 米国科学アカデミー外国人客員会員に選ばれる
・1981年(昭和56)11月 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)12月 ノーベル化学賞を受賞する
・1982年(昭和57)4月 京都大学退官 京都大学名誉教授となる
・1982年(昭和57)6月 京都工芸繊維大学学長となる
・1988年(昭和63)5月 京都工芸繊維大学学長を退任する
・1988年(昭和63)6月 京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長となる
・1988年(昭和63)11月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1989年(平成元)6月 ロンドン王立協会外国人会員となる
・1990年(平成2)2月 学術審議会会長となる
・1995年(平成7)9月 日本学術振興会会長となる
・1998年(平成10)1月9日 京都において、満79歳で亡くなる
・1998年(平成10)1月 従二位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ