
1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ています。
1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任しました。まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6年7月7日)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入ります。
翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てました。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちます。
また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めました。帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けます。
その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日しました。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しています。
それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されます。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されました。
また江戸では、高橋景保は1828年(文政11年10月10日)に検挙され、翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けます。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになりました。
尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
年中行事 | 七夕です | 詳細 |
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1615年(慶長20) | 江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日) | 詳細 |
1844年(天保15) | 和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日) | 詳細 |
1884年(明治17) | 「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる | 詳細 |