ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:コミンテルン

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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、ドイツのベルリンにおいて、「日独防共協定」が調印された日です。
 「日独防共協定」(にちどくぼうきょうきょうてい)は、日本とドイツの間で調印された、国際共産主義運動を指導する共産インターナショナル(コミンテルン)に対抗する共同防衛をうたった条約で、正式には、共産「インターナショナル」に対する日独協定と言いました。コミンテルンの活動に対する防衛措置について相互に協議・協力することと、コミンテルンの破壊工作によって国内の安寧を脅かされる第三国に協定への参加を勧誘することを規定しています。
 また秘密附属協定として、ソビエト連邦から締約国の一方が攻撃などを受けた場合に、他方の締約国がソ連の負担を軽くするような措置をとらないこと、相互の同意なしに防共協定の精神と両立しない政治的条約をソ連と結ばないことなども盛り込まれました。前年の1935年(昭和10)に、コミンテルン第7回大会がファシズムの台頭に対する反ファシズム人民戦線(民族統一戦線)の結成を運動方針としたことに対して警戒した動きであり、ナチスドイツと日本がソ連を仮想敵国として協定したものですが、軍事協定とはなっていません。
 翌年にイタリアも参加して「日独伊三国防共協定」となり、1940年(昭和15)には、「日独伊三国同盟」へと発展しました。これによって、ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアのファシズム国家と結ぶことになり、アメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争へ突入していく端緒となります。
 以下に、「日独防共協定」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日独防共協定(共産「インターナショナル」に対する日独協定)」 1936年(昭和11)11月25日締結、同月27日公布

  (昭和十一年十一月二十五日公表)
   昭和十一年(千九百三十六年) 十一月二十五日「ベルリン」ニ於テ署名
   同年(同年)同月二十七日公布

大日本帝國政府及獨逸國政府ハ、共產「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)ノ目的カ其ノ執リ得ル有ラユル手段ニ依ル旣存國家ノ破壞及暴壓ニ在ルコトヲ認メ、共產「インターナショナル」ノ諸國ノ國內關係ニ對スル干涉ヲ看過スルコトハ其ノ國內ノ安寧及社會ノ福祉ヲ危殆ナラシムルノミナラス世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ、共產主義的破壤ニ對スル防衛ノ爲協力センコトヲ欲シ左ノ通リ協定セリ

第一條 締約國ハ共產「インターナショナル」ノ活動ニ付相互ニ通報シ、必要ナル防衞措置ニ付協議シ且緊密ナル協力ニ依リ右ノ措置ヲ逹成スルコトヲ約ス

第二條 締約國ハ共產「インターナショナル」ノ破壞工作ニ依リテ國內ノ安寧ヲ脅サルル第三國ニ對シ本協定ノ趣旨ニ依ル防衞措置ヲ執リ又ハ本協定ニ參加センコトヲ共同ニ勸誘スヘシ

第三條 本協定ハ日本語及獨逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ署名ノ日ヨリ實施セラルヘク且五年間效力ヲ有ス締約國ハ右期間滿了前適當ノ時期ニ於テ爾後ニ於ケル兩國協力ノ態樣ニ付了解ヲ遂クヘシ

 右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ

 昭和十一年十一月二十五日卽チ千九百三十六年十一月二十五日

 「ベルリン」ニ於テ本書二通ヲ作成ス

   大日本帝國特命全權大使
    子爵武者小路公共(印)
   獨逸國特命全權大使
    ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(印)

共產「インターナショナル」に對する協定の附屬議定書

本日共產「インターナショナル」ニ對スル協定ニ署名スルニ當リ下名ノ全權委員ハ左ノ通協定セリ

(イ)兩締約國ノ當該官憲ハ共產「インターナショナル」ノ活動ニ關スル情報ノ交換竝ニ共產「インターナショナル」ニ對スル啓發及防衞ノ措置ニ付緊密ニ協力スヘシ

(ロ)兩締約國ノ當該官憲ハ國內又ハ國外ニ於テ直接又ハ間接ニ共產「インターナショナル」ノ勤務ニ服シ又ハ其ノ破壞工作ヲ助長スル者ニ對シ現行法ノ範圍內ニ於テ嚴格ナル措置ヲ執ルヘシ

(ハ)前記(イ)ニ定メラレタル兩締約國ノ當該官憲ノ協力ヲ容易ナラシムル爲常設委員會設置セラルヘシ共產「インターナショナル」ノ破壞工作防遏ノ爲必要ナル爾餘ノ防衞措置ハ右委員會ニ於テ考究且協議セラルヘシ

昭和十一年十一月二十五日卽チ千九百三十六年十一月二十五日

「ベルリン」ニ於テ

   大日本帝國特命全權大使
    子爵 武者小路公共(印)
   獨逸國特命全權大使
    ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(印)

共產「インターナショナル」に對する協定の秘密附屬協定

大日本帝國政府及獨逸國政府ハ「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦政府カ共產「インターナショナル」ノ目的ノ實現ニ努力シ且之カ爲其ノ軍ヲ用ヒントスルコトヲ認メ右事實ハ締約國ノ存在ノミナラス世界平和全般ヲ最深刻ニ脅スモノナルコトヲ確認シ共通ノ利益ヲ擁護スル爲左ノ通協定セリ

第一條締約國ノ一方カ「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦ヨリ挑發ニヨラサル攻擊ヲ受ケ又ハ挑發ニ因ラサル攻擊ノ脅威ヲ受クル場合ニハ他ノ締約國ハ「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦ノ地位ニ付負擔ヲ輕カラシムルカ如キ效果ヲ生スル一切ノ措置ヲ講セサルコトヲ約ス

 前項ニ揭クル場合ノ生シタルトキハ締約國ハ共通ノ利益擁護ノ爲執ルヘキ措置ニ付直ニ協議スヘシ

第二條締約國ハ本協定ノ存續中相互ノ同意ナクシテ「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦トノ間ニ本協定ノ精神ト兩立セサル一切ノ政治的條約ヲ締結スルコトナカルヘシ

第三條本協定ハ日本語及獨逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ本日署名セラレタル共產「インターナショナル」ニ對スル協定ト同時ニ實施セラルヘク且之ト同一ノ有效期間ヲ有ス

 右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ

昭和十一年十一月二十五日卽チ千九百三十六年十一月二十五日
「ベルリン」ニ於テ本書二通ヲ作製ス

   大日本特命全權大使
    子爵 武者小路公共(印)
   獨逸國特命全權大使
    ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(印)

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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katayamasen01

 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜が生まれた日ですが、新暦では12月26日となります。
 片山潜(かたやま せん)は、美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれましたが、幼名は菅太郎(すがたろう)と言いました。1877年(明治10)に神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となり、1880年(明治13)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学したものの、翌年には退学して上京、攻玉社で塾僕として勤務します。
 1884年(明治17)にアメリカ合衆国へ渡り、1886年(明治19)にキリスト教の洗礼を受け、苦学して、1892年(明治25年)にグリンネル大学を卒業後、大学院に進み文学修士となり、エール大学でも学び、学位(神学士)を取得して、1896年(明治29)に帰国しました。東京専門学校の主任講師として英語を教えるも、3ヶ月で解職となり、「六合雑誌」に「米国に於ける社会学の進歩」等を寄稿しています。
 1897年(明治30)に東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行い、中村太八郎の社会問題研究会結成に加わり、社会政策学会への加入も認められ、「労働世界」を創刊し主筆も務めました。1898年(明治31)に村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成、1901年(明治34)には、日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加します。
 1903年(明治36)に「都市社会主義」を刊行、再度渡米して、翌年には、アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれました。帰国後、1906年(明治39)に日本社会党結成に参加、議会政策を巡って、直接行動論の幸徳秋水と対立、翌年に「社会新聞」を発刊、田添鉄二らと日本社会平民党を結成しましたが、2日後に結社禁止となります。
 1910年(明治43)に大逆事件が起き、翌年に幸徳秋水らが処刑される中、東京市電ストを指導して検挙されました。1912年(大正元)に大正天皇即位の大赦によって出獄、1914年(大正3)にアメリカへ亡命し、1917年(大正6)のロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動、1921年(大正10)には、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となります。
 1922年(大正11)にモスクワで開催された極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席しましたが、1933年(昭和8)11月5日に、モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られました。

〇片山潜の主要な著作

・『日本の労働運動』(1901年)
・『我社会主義』(1903年)
・『自伝』(1922年)
・『搾取なき社会への熱情』

☆片山潜関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1859年(安政6年12月3日) 美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれる
・1877年(明治10年)10月 神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる
・1880年(明治13年) 岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学する
・1881年(明治14年) 岡山師範学校を退学して上京、攻玉社にて塾僕として勤務する
・1884年(明治17年) 友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る
・1886年(明治19年)11月 組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける
・1892年(明治25年) アイオワ州のグリンネル大学を卒業後、大学院に進む
・1896年(明治29年) 学位を取得して帰国し、京専門学校の主任講師として英語を教えるものの、3ヶ月で解職となる
・1896年(明治29年)5月 「六合雑誌」第185号に「米国に於ける社会学の進歩」を寄稿する
・1897年(明治30年)3月1日 東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行う
・1897年(明治30年)4月 中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わる
・1897年(明治30年)10月3日 社会政策学会加入を認められる
・1897年(明治30年)12月1日 「労働世界」を創刊し主筆を務める
・1898年(明治31年) 村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成する
・1899年(明治32年)7月9日 活版工同志懇話会主催演説会で、高野房太郎・金井延との対立が明確化する
・1901年(明治34年)5月20日 社会主義研究会を改組した日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加する
・1901年(明治34年)9月21日 大日本労働団体連合本部の労資協調論を批判し脱退する
・1903年(明治36年)4月19日 「都市社会主義」を刊行する
・1903年(明治36年)12月 再度渡米する
・1904年(明治37年) アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれる
・1906年(明治39年) 日本社会党結成に参加。議会政策を巡って幸徳秋水と対立する
・1907年(明治40年) 「社会新聞」を発刊する
・1907年(明治40年)6月25日 田添鉄二らと日本社会平民党を結成する
・1907年(明治40年)6月27日 日本社会平民党が結社禁止となる
・1910年(明治43年) 大逆事件が起き、幸徳秋水らが検挙される
・1911年(明治44年) 東京市電ストを指導して検挙される
・1912年(大正元年)9月 大正天皇即位の大赦によって出獄する
・1914年(大正3年)9月9日 アメリカへ亡命する
・1917年(大正6年) ロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動する
・1921年(大正10年) ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる
・1922年(大正11年)1月22日 モスクワで開催の極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席する
・1933年(昭和8)11月5日 モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られる
・1990年(平成2年) 岡山県久米南町に記念館が建てられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1879年(明治12)小説家・随筆家永井荷風の誕生日詳細
1926年(大正15)最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始詳細
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