ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:オランダ商館

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 今日は、江戸時代前期の1641年(寛永18)に、江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた日ですが、新暦では6月25日となります。
 出島(でじま)は、江戸幕府による鎖国政策の一環として、1634年(寛永11)の「第2次鎖国令」により、対外政策の一環として長崎に築造開始された扇型の人工島でした。完成は、1636年(寛永13)で、面積は3,969坪(約13,000㎡)、市街地との連絡は1本の橋のみで、見張番所を置き出入りを厳重に監視し、当初はポルトガル人の隔離を目的としたものです。
 1637年(寛永14)の島原の乱後、1639年(寛永16年7月5日)の「第5次鎖国令」が出されて、ポルトガル船の入港禁止により、ポルトガル人が追放され、1641年(寛永18年5月17日)に平戸のオランダ商館がここに移されました。甲比丹(かぴたん)部屋、紅毛人部屋、倉庫、通詞会所など65棟が建てられ、奉行所役人、入札商人、遊女、人夫のみ出入を許可されます。しかし、鎖国政策下において、世界への窓の役割を果たし、西欧の文物を取り入れる拠点として、幕末まで存続しました。
 明治以降は、長崎港の港湾整備に伴い、1899年(明治32)~1904年(明治37)に付近が埋め立てられて陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたものの、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されます。1996年(平成8)から、長崎市によって、江戸当時の姿への復元を目指す「出島復元整備事業計画」が進められてきました。

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年5月17日) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)浮浪・逃亡が増え、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出される(新暦6月30日)詳細
1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される詳細
 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1946年(昭和21)GHQから「肥料の生産、分配及び使用に関する覚書」(SCAPIN-962)が指令される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任した日ですが、新暦では8月12日となります。
 P.F.vonシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言いました。1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれます。
 1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ています。
 1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任しました。まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6年7月7日)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入ります。
 翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てました。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちます。
 また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めました。帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けます。
 その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日しました。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しています。

〇P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作

・『日本』 Nippon(1832~54年) 
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年) 
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』 

☆P.F.vonシーボルト関係略年表

・1796年2月17日 南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれる
・1810年 ヴュルツブルクの高校に入学する
・1815年 ウュルツブルク大学に入学、医学のほか生物学、人類学、民族学、地理学などを勉強する
・1820年 ビュルツブルク大学を卒業し、学位を得て、医学博士となる
・1822年(文政5年) オランダ領東インド会社付の医官(陸軍外科少佐)となる
・1823年(文政6年) ジャワに赴任する
・1823年(文政6年7月7日) オランダ商館の医師として来日、長崎出島に入る
・1824年(文政7年) 長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授する
・1826年(文政9年) オランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在する
・1827年(文政10年) 娘いねが誕生する 
・1828年(文政11年) 帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚する(シーボルト事件)
・1829年(文政12年) シーボルト事件で国外追放処分を受ける
・1830年(天保元年)7月7日 オランダに帰着する
・1832年(天保3年) 『日本』が刊行開始される
・1833年(天保4年) 『日本植物誌』が刊行開始される
・1835年(天保6年) 『日本動物誌』が刊行開始される
・1858年(安政5年) 「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除される
・1859年(安政6年) オランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って長崎へ再来日する
・1861年(文久元年) 幕府から江戸へ招かれる
・1862年(文久2年) 日本を去る
・1866年10月18日 ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死する

☆シーボルト事件とは?

 江戸時代後期の1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件です。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られました。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されます。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されました。
 また江戸では、高橋景保は1828年(文政11年10月10日)に検挙され、翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けます。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになりました。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細
1844年(天保15)和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日)詳細
1884年(明治17)「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる詳細
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 今日は、江戸時代前期の1634年(寛永11)に、江戸幕府が長崎の出島の造成を命じた日ですが、新暦では6月23日となります。
 長崎県長崎市にある出島は、1633年(寛永10)の「第1次鎖国令」によるポルトガル人の隔離を目的として、翌年に25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を造成するように命じたものでした。
 2年後の1636年(寛永13)に、面積3969坪(約1.5ha)の造成(費用約4,000両)が完了し、最初はポルトガル人を住まわせます。しかし、1637~38年の島原の乱の後、1639年(寛永16)に江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止されたため空家となってしまいました。
 そこで、1641年(寛永18)に平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされて、幕末まで存続することとなります。
 この島は、周囲を高い板塀で囲まれ、市街地とは1本の橋のみで繋がり、島内には、オランダ商館の他に、オランダ人の居住する家屋や船員の宿泊施設、日本人の諸役人・通詞の家、倉庫などが立ち並んでいました。
 諸行事があるとき以外は、オランダ人が出島から出ることは原則として禁止され、隔離されますが、江戸時代の海外文化流入の窓口としての大きな役割を果たします。
 明治時代以降は周囲が埋め立てられて、往時の面影を失いましたが、歴史的に貴重なので、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。
 1996年(平成8)度から長崎市が、長期計画に基づいて、当時の姿に復元している途中で、発掘調査などもされています。
 現在では、出島資料館本館・分館、一番蔵、二番蔵、一番船頭部屋などが復元されていて、見所も多く、江戸時代の海外貿易の拠点となった雰囲気を感じ取れるようになってきました。

〇出島関係略年表

・1633年(寛永10) 江戸幕府により、「第1次鎖国令」が出され、奉書船以外の渡航が禁じられる
・1634年(寛永11) 25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を築造するように命じる
・1636年(寛永13) 面積3969坪(約1.5ha)の造成が完了し、ポルトガル人が住まわされる
・1637年(寛永14) 九州の島原・天草地方で島原の乱が勃発する
・1638年(寛永15) 島原の乱が鎮圧される
・1639年(寛永16) 江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止される
・1641年(寛永18) 平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされる
・1690年(元禄3) エンゲルベルト・ケンペルが来日、オランダ商館付の医師として2年間出島に滞在する
・1775年(安永4) カール・ツンベルクが来日、オランダ商館付医師として出島に赴任、1年間滞在する
・1798年(寛政10) 出島に大火が発生し西側半分を焼失する
・1804年(文化元) ロシア使節レザノフが長崎に来航する
・1808年(文化5) フェートン号事件で、オランダ商館員2名が一時逮捕される
・1809年(文化6) 新しいカピタン部屋が完成する
・1823年(文政6) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日し、出島のオランダ商館医となる
・1824年(文政7) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが鳴滝塾を開く
・1825年(文政8) 幕府が「異国船打払令」を出す
・1828年(文政11) シーボルト事件が起こる
・1829年(文政12) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外に追放される
・1842年(天保13) 「天保の薪水給与令」が発布され、打払い令は緩和される
・1853年(嘉永6) ロシア使節プゥチャーチンが長崎に来航する
・1855年(安政2) 日蘭仮条約締結により、オランダ人の在留の出島限定が解かれる
・1856年(安政3) 「出島開放令」と共に出島の日本人役人が廃止される
・1859年(安政6) 出島にあったオランダ商館が閉鎖される
・1903年(明治36) 出島の付近が埋め立てられて市街地と地続きになる
・1922年(大正11) 「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定される
・1996年(平成8) 長崎市による、出島復元の長期計画が始まる
・2000年(平成12) 第1期復元工事で「ヘトル部屋」「料理部屋」「一番船船頭部屋」等5棟が復元される
・2006年(平成18) 第2期復元工事で「カピタン部屋」「乙名部屋」「三番蔵」等5棟が復元される
・2017年(平成29) 出島と対岸に「出島表門橋」が架けられる
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